第10話 音の記録と、呼ばれなかった声――前編――
召喚タクの車庫は、朝から蒸していた。
扉を開けると、霊体馬は鼻を鳴らす。
天井の梁に吊るした風鈴が、かすかに鳴った。
主任は書類の山を片肘で押さえ、眠そうに顔を上げた。
「よう、朝勤二人組。無事に戻ったな」
「ただいまです!」
ミナが手を上げて敬礼する。
ルイは軽く首を下げた。
「報告、置いておきます」
「読まん。どうせミナの落書き付きだ」
「読んでくださいよ! 今回はイラスト多めです!」
主任はため息をつき、束から一枚を抜いた。
薄い札のような紙。端がうっすら光っている。
「ほら、次の便。依頼区画は“響庭”」
「響庭?」
ミナは首をかしげた。
「音の街だ。正確には“音が消えた街”になってるがな」
ルイは眉を寄せ、札をのぞき込む。
「音が消える?」
「心象界の一部に“記録街区”ってのがある。そこが壊れると、音が丸ごと失われる」
主任は淡々と言う。
「呼吸の音も消えるらしい。風が吹いても、耳には届かないって話だ」
「風が動いてるのに、音がしない……?」
ミナの声は小さくなる。
「どんな場所なんだろうな」
ルイも短くうなずいた。
主任は札の裏を指で弾いた。
「依頼主は、その街の住人だった歌い手。“自分の声をもう一度聴きたい”とさ」
「歌の配達、いいね」
ミナは目を輝かせる。
「ロマンより現場だ」
ルイは手を伸ばし、書類一式を受け取った。
備考欄には一行だけ記されている。
〈音響喪失:再生記録の破損〉
ルイは視線を上げた。
「壊れた記録を修復して届ける、で合ってますか」
「それでいい。呼び出しは鈍いはずだ」
主任はペンをくるりと回す。
「音がないと、道も繋がりづらい。呼び出し反応も弱い」
「じゃあ、どうすれば?」
ミナは身を乗り出した。
「“音を探せ”。何かひとつでも聞こえたら、それが道になる」
「音が、道……了解」
主任は書類をふいと放った。
紙は宙を舞い、ミナは慌ててキャッチする。
「危なっ! もう少し優しく!」
「仕事は優しくしない」
主任はコーヒーをすすった。
ミナは紙束を抱え、ルイに笑いかける。
「静かな仕事、ってより無音の仕事、だね」
「うるさい俺たちには、向いてない気もする」
「努力目標、小声でがんばる」
「それ、長続きしないやつだ」
主任は椅子をきしませ、手を振った。
「ほら、さっさと出ろ。戻るまで、昼寝する」
「勤務中ですよ!」
ミナは抗議の顔を作る。
「夢の中で働く」
「便利な働き方だな」
ルイは肩をすくめた。
ルイたちは馬車へ戻る。
ミナは荷箱を抱え、助手席に滑り込む。
ルイは手綱を確かめ、扉の札に触れた。淡い光がにじむ。
「行く」
「了解。召喚タク、響庭区画へ出発!」
扉の内側が光に包まれ、車体は静かに滑り出す。
現実の音が一段ずつ遠ざかり、色も輪郭も曖昧になる。
霊体馬は歩調を整え、首を振った。
ミナが息をのむ。
「……ルイ、今の、聞こえた?」
ルイは耳を澄ます。
風鈴の余韻が、途切れた。
ひづめの音も、車輪のきしみも、二人の呼吸さえも、吸い込まれるように消える。
無音だ――と、ルイは思った。
音だけが抜き取られ、景色だけが残った世界。
ミナが喉に手を当てた。
唇が動く。声の形は見えるが、音は出ない。何を言っているのかまでは分からない。
ただ、眉の動きと、わずかにすぼめた口で、「声、出てるのかな」と確かめているのだと察せた。
ルイは小さくうなずいた。
振動だけは、確かにある――その合図を返すように。
馬車の扉の縁は、ごく弱い光を保っている。道は細いが、切れてはいない。
ミナが身を寄せ、手話の真似事のように指を動かした。
ルイは小さくうなずく。
霊体馬は一歩、また一歩と進んだ。
景色は街並みに変わり、看板が並ぶ。だが、人影はない。窓は開いているのに、物音が一切ない。
角を曲がる。
通りの奥に、丸い広場。中央に古い噴水。水は流れているのに、音がない。
ミナは目を見開いた。
ルイは視線を巡らせ、札を掲げる。反応は弱い。
風が吹いた気配だけが、肌を撫でた。
ルイは馬車を止め、手綱を固定する。
ミナが扉の縁に指を添え、外をなぞった。
札が、ほんの僅かに明滅する。
(ここで合ってる)
ルイはミナに視線で伝えた。
広場の端、小さな店の前に古い看板が立っている。
〈唄の庭〉――かすれた金文字。
扉は半開きだ。ベルはぶら下がっているのに、揺れても音がしない。
ミナが喉を震わせ、形だけで言葉を作る。(中、見てもいい?)とでも言っているのか、半開きになっている扉を指さしている。
ルイは扉の縁を軽く押し、馬車側に細い“戻り道”を残す。
霊体馬は耳を伏せ、静かに待機した。
店内は、木の床と壁。簡素なカウンター。
棚には、丸い板が何十枚も並んでいる。
ミナが手を伸ばし、表面のラベルを読む仕草をする。
ルイは札を近づけた。
ひとつの板だけが、微かに光を返した。
卓上には古びた再生機が置かれていた。
見た目は蓄音機に似ているが、音ではなく“響き”を記録する道具だ。
ハンドルは折れ、針も曲がっている。
ミナがルイの肩を軽く叩き、装置を指さした。
次に、自分の腰の札を指差し、首をかしげる。
記録符を使えるか――そう訊ねているのだと分かった。
ルイは頷き、馬車の扉側に手を伸ばした。
札を合わせ、光を微かに走らせる。
針と札を繋ぐ細い光が、針先の動きに合わせて震えた。
ミナは外を指さした。
通りの奥、二階の窓。白いカーテンの奥で、誰かの影が動いた気がした。
ルイは札をそちらへ向ける。
光がわずかに濃くなった。反応あり。
ルイは記録を切り、針を上げた。
札の光は、いままでよりはっきりしている。
“音”が形になり、道の入口ができた――そう理解できた。
ミナがぐっと親指を立てて笑う。
ルイはうなずき、再生機に板を戻した。
針先をそっと置き、札の光を扉へ送る。
扉の縁が、細く、確実に明るくなった。
無音の街の中で、ひとつだけ“道の気配”が生まれる。
ルイは手綱を握り直した。
霊体馬の目が、静かに光る。
――ここからが本番だ。
ミナが胸の前で手を合わせ、軽く頷いた。
召喚タクは、音のない広場からそっと動き出した。
目指す先は、あの白いカーテンの窓――“声の持ち主”が待っている場所だ。




