第8話 雨の日の休憩所と、紅茶の香り――後編――
雲の切れ間が広がった。
庇の外で雨粒が細くなり、石畳の水面に小さな輪が最後の印を残す。
ルイは耳を澄ませ、手綱を指で整えた。馬車の床板が軽く震える。
扉の縁に、さっきよりはっきりした光が点る。呼び出しの一歩手前――息を吸う合図だ。
「そろそろだな」
ミナが箱を閉じ、ひらりと親指を立てる。
「準備よし。紅茶エネルギー満タン」
「単位が怪しいぞ」
「気持ちで走るタイプです」
霊体馬が鼻を鳴らした。
風向きが変わる。庇の外に淡い色が差して、石畳に細長い光の帯が落ちる。
虹の断片が、停留所の鐘の金属に小さく映った。
ルイはその反射を目で追い、呼吸を一つだけ深くした。
「さっきの傘」
ミナが窓越しに視線を送る。
柱に寄り添ったまま、誰かを待つ姿勢を崩していない。
「もう、大丈夫そう」
「ここは“戻る場所”に向いた停留所だ。持ち主が必要なら、また鳴る」
「鳴ったら、また寄る?」
「キリが良ければな」
ミナが口を尖らせる。
「もうちょっと、強めに約束してほしいな」
扉の光が一段強くなる。
見慣れたピッが、今度ははっきり耳に入った。
ルイは手綱を握り、目だけでミナに合図する。
ミナが深く頷いた。
「受ける?」
「受ける」
扉の向こうに、細い道が伸びた。
雨上がりの空気が混ざった明るさ。乾きかけの匂い。
呼び出し主の方角に、かすかな揺らぎが生まれる。
心象界ではないが、完全な現実でもない――帰り道の延長線に、次の“入口”が重なる感覚だ。
「今日は優しめの相手だといいな」
ミナが小声で願を掛ける。
「願うだけならタダだな」
「出た、いつもの現実主義」
「現実は、いつだって出てる」
ミナが笑って手を振る。
「その現実、けっこう好きだよ」
ルイの視界の端で、鐘の紐がそっと揺れた。
風か、さっきの音の名残か。どちらでもいい。
停留所は静かに見送ってくれている――そう感じる程度には、空気が穏やかだ。
「出るぞ」
「了解。召喚タク、出発!」
霊体馬が一歩、前へ。
車体が滑る。庇の影から明るい路面へ。
石畳の水が車輪の縁で静かに割れる。
扉の先の細道と、現実の道がぴたりと重なり、足場が確かになる。
ミナが肩をぐるりと回す。
「ねえルイ、さっきの“雑な仕事なんて、無い”ってやつ」
「口が滑った」
「記録符は使ってないけど、覚えたから」
「それが一番怖い」
遠くでカモメが鳴く。
さっきまでの雨音の層がほどけて、軽い足音に置き換わっていく。
呼び出し主の方角から、微細な“期待”の気配が混ざった。
ルイには、それがわずかに暖かく感じられた。
「ミナ」
「なに?」
「さっきの紅茶、次も頼む」
「任せて。今度は“味の挑戦”じゃないやつで」
「それがいい」
虹の断片が視界を横切る。
停留所の柱に立てかけられた傘が、光を受けて一度だけ小さく震えた気がした。
ルイは視線を戻し、手綱に力を込める。
「行こう」
「行こう!」
霊体馬が加速する。
扉の道が明るく広がり、再び世界の層が切り替わった。
雨の名残は後ろへ下がり、紅茶の甘い匂いだけが、少しのあいだ馬車に残った。




