第8話 雨の日の休憩所と、紅茶の香り――前編――
帰り道の扉を開いた瞬間、景色が灰色に変わった。
厚い雲。斜めにたたく雨。石畳が一面、薄い鏡みたいに光っている。
霊体馬が鼻を鳴らし、ゆっくり歩調を落とした。
召喚タクは心象界だけでなく、こうして現実の街道も走ることができる。
けれど“帰り道”のあいだは、まだ半分が向こう側――記憶の層と現実の層が重なっていて、降りれば帰れなくなる。
屋根付きの古い停留所が見える。木の柱、欠けた看板、半分外れた鐘。
ルイが手綱を軽く引く。馬車は庇の下へ滑り込み、雨音がいくらか遠くなった。
「一旦、雨宿りだな」
「賛成。温かいの、飲みたい」
ミナが荷台の小箱を引き寄せ、ちゃきちゃきと道具を並べる。
やかん、小さなアルコールランプ、茶葉の袋。手つきがちょっと得意げだ。
「また実験か?」
ルイが片眉を上げる。
「今回は紅茶だよ。成功する予感しかしない」
「前回の“焦げたやつ”を、忘れたとは言わせない」
「あれは味への挑戦!」
ランプに火が点く。
やかんの底で小さな炎が跳ね、金属が軽く鳴る。
扉の向こう、停留所の椅子に古い布きれが掛けっぱなしになっている。
誰かがここを使っていた痕跡。けれど今は無人。雨だけが働き者。
湯がぽこぽこと揺れ始める。
ミナが茶葉を量って、カップに落とした。
「ねえルイ、こういうとき何考えてる?」
「雨の止み際。……動き出すタイミングを外すのは、仕事的に痛い」
「ロマン少なっ」
「実用優先だ」
「はいはい、プロさん」
湯気が立ち、甘い香りが広がる。
ミナが鼻先でくんと吸い込む。
「勝った気がする」
「まだ飲んでないぞ」
「ほら、香りの勝利ってあるから」
ルイは外をちらりと見る。
庇から連なる雨粒が糸みたいに光り、鐘の紐が風に揺れた。
小さな音が鳴る。誰かの記憶とすれ違う気配。けれど呼び出し音はない。
「今日は“仕事なし”ってこと?」
ミナがカップを傾ける。
「ここは中継所だ。通り道の残り香だけ」
「通り道ね……。それでも、好き」
ミナの目元がゆるむ。
「誰かがここで、ひと息ついたんだなーって感じがするから」
ルイは黙って頷き、紅茶を一口。
「……飲める」
「評価が雑!」
「次も頼む、って意味だ」
「まったく、天邪鬼なんだから」
庇の端を、影がひとつ横切った。
ルイは手を止める。ミナもつられたのか、扉の縁に身を寄せる。
停留所の柱のそばに、小さな傘が立っていた。
持ち主はいない。取っ手がちょこんと上を向き、雨の線だけがその周りを滑っていく。
「……置き忘れ?」
ミナがささやく。
ルイは首を横に振る。
「記憶の抜け殻だ。持ち主は、もう先へ行った」
ミナの表情が柔らかくなる。
「だったら、ここにいさせてあげよ。戻る場所がないと、さびしいでしょ」
ミナが腰を浮かせかけ――ルイが止めるより早く、自分で座り直した。
「三原則は、守る。……まだ“帰り道”だもんね」
ルイが軽くうなずく。
「よろしい」
ミナが指先を扉の境目からそっと伸ばす。
空気がきら、と薄く光る。
小さな傘が、するりと柱に寄った。
まるで「ありがとう」と言っているみたいに、骨が一度だけ鳴った。
「今の、見えた?」
ミナが目を丸くする。
「うなずいたな」
「傘が、うなずくの可愛い」
「油断すると泣くやつだぞ」
「泣かない。今日は、温かい方向で」
雨が少し弱まった。
庇から落ちる水の糸が途切れ途切れになる。
遠くで車輪の音――いや、記憶の車輪。ここを通った誰かの足音だけが遅れて響く。
「ねえルイ、ずっと“乗せる側”だよね。逆は?」
ミナがカップを両手で包む。
「逆?」
「誰かに“乗せてもらった”こと。運んでもらった、とか。ある?」
ルイは視線を短く揺らし、また外へ戻した。
「気づいたら、いつも手綱がこっちにあった」
「最初から?」
「最初の最初は、誰かの後ろにいた気がする。……でも、顔がぼやける」
ミナが口を結ぶ。
「じゃあ、今度、私が運転してみる?」
「規則違反」
「研修、受けるよ!」
「主任が許すか?」
「……はい、解散」
二人の笑い声が、雨音の隙間にこぼれた。
紅茶が半分ほど減ったころ、ルイは軽く手を伸ばし、鐘の紐を指でつまんだ。
一度だけ、澄んだ音が響く。
「今のは、“お先にどうぞ”だな」
「誰に?」
「この場所を使ってた記憶たちに、順番を譲ったんだ」
ミナがほっと息をつく。
「優しい」
ミナが立ち上がって、薄い毛布をルイに投げる。
「はい、肩。冷えると動きが鈍る」
ルイは素直に受け取り、膝の上に掛ける。
「お前、こういうとこだけ妙に世話焼きだよな」
「こういうとこ“だけ”って何」
「言わせるなよ」
「ひどい!」
霊体馬が前足で軽く地面を掻く。
扉の縁に、ほんの小さな光。
呼び出しではない。通知の手前、息を吸うみたいな予告。
「そろそろ、雨が上がる」
ルイは手綱を整える。
ミナがカップを回収し、手際よく道具を箱に戻す。
「紅茶、次はもっと美味しくする」
「もう十分だ」
「……今、ちょっと優しかった。録音して、主任に送るね」
「やめろ」
雨脚がさらに薄くなった。
庇の外、石畳の水面が細かく震え、透明な穴があちこちに開く。
雲の切れ間から白い光がひとかたまり、停留所の床板に落ちた。
ミナが窓越しに身を伸ばし、小さな傘に向かってひらりと手を振る。
「いってらっしゃい、の方かな。おかえり、の方かな」
「どっちでもいい。次に会う誰かが決める」
「うん、その方がこの停留所に似合う」
ルイは軽く手綱を引く。
馬車の車体が低く震え、霊体馬が首を振った。
扉の向こうに道が一本、すっと伸びる。晴れた空の色が、少しだけ混ざっている。
「もう少しだけ、ここにいたい?」
ミナが様子をうかがってくる。
「十分、休んだ」
「了解。次の“丁寧な仕事”に備えて」
「雑な仕事なんて、無い」
「名言いただきましたー」
鐘が最後にもう一度、小さく鳴った。
風が停留所を抜け、柱の布がふわりと揺れる。
小さな傘は柱にもたれ、静かにそこで待つ体勢になった。
ミナが息を吸って、前を見る。
「よし。再開」
ルイは頷き、手綱を軽く弾く。
馬車が庇の影から滑り出し、雨の名残を踏んでいく。
薄い陽射しが車体を撫で、紅茶の香りがほんのわずかに残った。




