誘魔因子
黎明帝国オリエント、ルメイルの森──
再びその入り口に立ったとき、結那は息を呑んだ。
ほんの昨日のことなのに、森の空気がまるで違っていた。
鬱蒼とした木々が空を覆い、昼間だというのに光は弱い。地面には青い影が溜まり、奥から吹く風は冷たく湿っていた。
「……行きましょうか」
そう言葉にした瞬間、森の奥で羽音が弾け、数羽の鳥が枝葉を散らして飛び立つ。
胸の奥が僅かに跳ねた。まるでこの森そのものが、何かを拒んでいるようだった。
「……嫌な風ね」
リーネが小さく羽を震わせる。風に敏感な彼女が言うのなら、それはただの勘ではない。
一方、ゴルドは無言で斧の柄を握り直し、前を見据えていた。
「関係ない。進むだけだ」
その短い言葉に、空気が少し引き締まる。
結那は息をひとつ吐き、二人の背を追った。
──森は静かだった。
風が枝を撫でる音と、遠くの虫の声。それだけが、確かにこの場所に「生」があることを知らせていた。
しばらく歩いたとき、前方の茂みから低い声がした。
「待て。……人間だ」
ゴルドの言葉と同時に、三つの影が姿を現す。
武器を構え、辺りを警戒している。見たところ、冒険者の一団らしかった。
「なんだよ、全然平和な森じゃねえか」
「そうね。話に聞いてた感じとは違うわ」
「油断は禁物です。一応ここは魔王領ですし……」
一人は鎧に身を包んだ剣士。豪快そうで、表情がすぐ顔に出るタイプ。
もう一人は弓を背負った女性。目は鋭いが、どこか理性的な落ち着きを感じさせた。
そして最後の男は、ルークに似た研究者風の青年。ノートと器具を抱え、視線を絶えず周囲に巡らせている。
そのとき──
茂みが僅かに揺れた。空気が一瞬、沈む。
黒い影が地を跳ね、冒険者たちへと飛びかかった。
「ちっ……なんだ、これ!」
「静かだと思ったのに、急に群れで……!」
鋭い鳴き声と共に、小型の魔物たちが跳ね回る。
剣士は剣を振るい、弓使いは矢を番えるが、数が多すぎて追いつかない。
研究者の男はノートをめくりながら、何かを確かめていた。
「あれは──スラフィン。枝を渡る影のような小獣だ。普段は単独で動く。……群れを見るのは初めてだ」
「そうね……珍しいわ。群れなんて普通はありえない」
異常事態らしく、二人の動きにも緊張が走る。
結那の足が自然と前に出かけたが、ゴルドがその腕を掴んだ。
「待て。戦えないお前が出てどうする」
「そんなこと言われても……!」
目の前で誰かが襲われているのを見ているだけ――その感覚に、胸の奥がざらりと波立つ。
すると、ゴルドは短く鼻を鳴らした。
「あまり目立ちたくはないが……仕方ない。スラフィンは光の魔法に弱い。直接攻撃は手こずるが、光を浴びせれば動きが鈍る」
「光……ですね」
考えるより早く、結那の足が地を蹴った。
「光の魔法を使ってください!」
突然飛び出した彼女に、剣士が一瞬目を丸くする。だがすぐに仲間へ声を飛ばした。
研究者の男が道具を構え、詠唱を短く紡ぐ。
「光弾!」
眩い光が森を裂き、スラフィンの群れを包み込む。影のようだった彼らが怯み、動きを鈍らせた。
冒険者たちは互いに頷き、一斉に反撃へ転じる。
数息の後、森に静寂が戻る。スラフィンたちは光の向こうに消え、残ったのは湿った土と焦げた草の匂いだけだった。
──どうやら、一件落着らしい。
「ありがとよ、助かったぜ」
剣士が頭を下げる。指示を伝えただけなのに、結那の胸の奥がほんの少し温かくなった。
「本当に助かったわ。あなたが来てくれなかったら……」
弓使いの女性が微笑む。
研究者の男は安堵のあまり、膝をつきそうになっていた。
「ところで、なんでこんなところに?」
やはり聞かれた。予想していた通りだ。
「えっと……最近、魔物の活性化が気になっていて。ここで、あなたたちが襲われているのを見つけて……」
声が僅かに震えた。それが逆に自然に響いた。
「そう……魔物の調査ね」
「まあ、命の恩人に違いねぇ! 俺は剣士のカイ。こっちが弓使いのセリナ、で、後ろの地味なのがユージだ!」
カイが朗らかに笑い、仲間を紹介する。
「私は──ユナです」
偽名でも構わない。今は穏やかにやり過ごすことが大事だった。
「よろしく、ユナさん」
セリナが微笑み、ユージも軽く会釈する。
緊張がほどけた森の空気に、ようやく風が通った気がした。
「あの、さっきの魔物……スラフィンですよね? あんな群れ方は見たことがないです」
「……はい。最近、生態系に変化が起きているみたいです」
ユージが顎に手を当て、ノートをめくる。僅かに眉を寄せ、その表情に考え込む気配が見えた。
「もしかしたら、異変について何か知っていそうな人に心当たりがあります」
「……本当ですか?」
「はい。『魔物博士』と呼ばれる方です。七十年ほど魔物の研究をされているそうです」
カイとセリナが短く視線を交わし、同時に息を漏らした。
「あのホラ吹き爺さんのことか?」
「また、あそこに行くの?」
面倒事の匂いが濃くなる。
けれど、行くしかない。結那には、確かめなければならないことがあった。
*
三人に連れられて森を抜けると、街の外れには一軒の小屋があった。
壁は苔に覆われ、屋根には幾つもの穴。遠目にも、年季と狂気の匂いが漂っている。
「ここです」
ユージの声に、カイが額を押さえてため息をつく。
ノックをすると、勢いよく扉が開いた。
「なんじゃまたセールスか? いらんいらん! 儂の欲しいのは未知の魔物……なんじゃ、またお前たちか!」
飛び出してきたのは、長い白髪の老人だった。
白衣は薬品の染みとインクでまだらに汚れ、目だけが妙に輝いている。
絵に描いたような研究者だった。
結那はドアの影に立ち、距離を取った。
博士は何かを探すように机の上を漁り、ふと彼女の方を向く。
「……ほう? 一人は見ぬ顔じゃな」
「はじめまして。ユナと申します」
その目に射抜かれたような感覚が走る。
視線の奥には、確かな観察の光と、言い知れぬ警戒が混じっていた。
「お主……ただの人間には見えん。魔物を惹きつける何かを纏っておるようじゃ」
「はい……?」
その言葉にカイが笑い飛ばし、セリナが苦笑をこぼす。
けれどユージだけは黙り、ノートを開いて何かを書き留めていた。
偶然──そう思いたかった。
だが博士の視線は、まだ結那から離れようとしなかった。
少しの間、沈黙が流れた。
重たい空気が室内に籠り、微かな紙の音だけが響く。
ユージはノートに視線を落とし、黙々と何かを書き込んでいる。その内容が気になったが、結那には聞ける雰囲気ではなかった。
一方で、カイとセリナはまるで他人事のように談笑している。
(どうして、そんなに平然としていられるのだろう)
結那が口を開こうとした、その瞬間だった。
「魔物たちに異変が起きたのは、いつ頃じゃ?」
博士の声が、思考を遮るように響いた。
問いかけに、ユージがノートをめくりながら応じる。
「ええと……四日前くらいからです。あちこちで、普段は見かけない魔物が活性化していると聞いています」
四日前。その言葉に、結那の心臓が一瞬だけ強く脈打った。
──あの日だ。彼女が召喚された、あの日。偶然だと信じたい。けれど、もしも本当に……。
「デタラメ言ってんじゃねぇよ、爺さん! 魔物が活性化するなんて話、聞いたことねぇぞ!」
カイがまっすぐ博士に詰め寄る。
その勢いに押されながらも、彼は穏やかに笑った。
「ほほう……若いのう。ワシも最初は信じてもらえんかったのじゃ」
両手を組み、老人は背を向ける。
窓の外を見やりながら、遠い記憶をなぞるように声を落とした。
「あれは……五十年ほど前じゃったかのう。妙な魔物の動きがあったんじゃ。どうやら、不思議な力を持つ者が関わっとった」
不思議な力──
結那の指先が、無意識に袖口を握った。
「魔王軍が、そやつの力を使うために、大魔王のもとへ連れ去ったのじゃ」
博士の声が、静かに部屋を満たしていく。
「使うために」という言葉が、耳の奥に重く残った。
「異界の力で、この世界の魔物を惹き寄せる力。昔から『誘魔因子』と呼ばれておるのじゃ。そして、その力によって魔王軍の一部が覚醒してしもうたんじゃ」
結那の胸が小さく揺れる。
誘魔因子──その響きが、なぜか遠い記憶の底をかすめた。
「魔物たちは従順に……いや、暴走してのう。人々を襲い、国々は滅びの淵に立たされた。そのとき現れたのが、英雄たちじゃ。命がけで魔王軍と魔物たちを食い止め、誘魔因子の力を持つ者を、安全な場所に隔離したのじゃよ」
博士の目に、一瞬だけ哀しみの光が宿る。結那は言葉を飲み込んだ。
隔離された者は、そのあとどうなったのだろうか。
「じゃが、ただの人間にはそのような力は使えん。お主には関係のないことじゃ」
その言葉が静かに落ちる。
けれど──胸の奥に生まれた不安は、簡単には消えなかった。
結那はふと、自分が本当に「ただの人間」なのかと、胸の奥で問いかけた。
魔王に召喚され、魔印を刻まれた身でありながら。
まさか。そんなこと、あるはずがない。そう思おうとしても、彼女の心は静まらなかった。




