風の止む街で
風が止んでいた。木々を揺らしていた気配も、森の奥へと遠ざかっていく。
ルークが張り続けた結界の緊張が緩み、周囲の空気がふっと軽くなったのだろう。
「行ったみたいだね」
「……そうですね」
結那は小さく頷き、胸に手を当てた。さっき感じた熱はもう消えていたが、指先に残る微かな痺れが、現実に起きたことだと告げていた。
(……今のは、いったい何だったんだろう)
光や脈動、世界の呼吸のような波──それを感じることはこれまでもあった。
けれど今のそれは違った。まるでその波が、自分の内側へ入り込んできたかのようだった。
結那はゆっくり息を吐き、手首に浮かぶ紋章を見下ろす。
淡く脈打つ光が静かに意識を揺らしていた。熱と振動が胸の奥で共鳴する。
紋章は魔物の情報を得るための道具──そう理解していた。
だが、もしかするとそれだけではないのかもしれない。
そんな考えが浮かんだとき、ノクス・ウルフの気配は完全に消え、森には再び湿った土の匂いが戻った。
風が一筋、頬を撫でる。木々の間から溢れる光が、靄を透かして淡く揺れた。
「……しまった、完全に見失ったな」
低く呟き、ルークは肩を落とした。
懐から手帳を取り出し、数頁を指先でなぞる。その仕草には、諦めと悔しさが滲んでいた。
彼の言う「見失った」相手は、ノクス・ウルフではなく──あの淡く光るプリズマ・ジェリーのことだ。
「……仕方ないですよ。状況も状況でしたし」
「まあね。でも、あれは珍しい個体だったんだ。もう少し観察したかったなぁ」
彼の声には落胆と好奇心が入り混じっていた。
その視線の奥には、恐怖よりも未知を追う強い欲求があるのが、結那にはわかった。
「……でもさ、ユナ。あの光、ちゃんと見たよね?」
「は、はい。見ました」
「一瞬でも観測できた。それだけで十分、貴重な記録になるよ!」
無理に笑みを作る彼の目には、悔しさが僅かに残っていた。その真っ直ぐな執念に、彼女は小さく息を吐く。
(切り替えが早いのか、執念深いのか……よくわからない人だ)
「それで、これからどうするんですか?」
「ルメイルの森は魔王領の外れだから、近くの街まで案内するよ」
「……そうですか、お願いします」
その言葉に、結那は一瞬息を詰めた。
魔王領──彼女にとっては帰る場所でもある。けれど、今はそれを口にすることはできなかった。
ルークに続き森を抜けると、視界が開け、柔らかな陽光が大地を照らしていた。湿った空気は少しずつ乾き、土の匂いに遠くの街の香ばしい香りが混じりはじめる。
人の営みの気配、香草と煙、遠くのざわめき。懐かしい空気に包まれ、結那は胸の奥でそっと力を抜いた。
交易都市ルーディア──魔王領と人間領の境にある、小さな中立の街だという。
両方の物資が集まるため、冒険者や学者が行き交う拠点として知られている。剣や鎧を身に付けた人々が通りを行き交い、遠くから子どもの笑い声や楽器の音が混ざって聞こえた。
日差しはまだ明るく、空気の中に昼の名残が残っている。胸にあった緊張が、ようやく溶けていった。
「今日は、助けていただきありがとうございます」
「いや、危険な目に遭わせて悪かったよ。そうだ、ユナ、食事くらい奢らせて!」
「えっ……本当ですか?」
「もちろん。こういう時くらい、格好つけさせてよ」
冗談めかした声に、結那は小さく笑った。
街の通りに入ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
屋台の煙、焼けた肉、温かいスープ──混ざり合う香りが自然と空腹を呼び起こす。
「行きつけの店があるんだ。案内するよ」
ルークに導かれ、石畳の通りを進む。
昼下がりの光が傾きはじめ、街全体を淡い橙色に染めていた。
「……ルークさんは、その、どうして魔王領に? 研究のため、でしょうか?」
ルークは一瞬視線を逸らし、苦笑した。
「うん、まぁ……ちょっと事情があってね。詳しくはそのうち話すよ。それより──」
そう言って、前方を指差す。
「ほら、あそこ。あの角の小さな店が、僕の行きつけなんだ」
木製の看板には「ココット庵」と書かれていた。
初めて見る文字なのに、意味が自然と理解できるような気がした。
「それよりさ、同じ研究仲間なんだし、そんなにかしこまらなくていいよ。敬語じゃなくても大丈夫だよ」
「え……ですが」
「いいって。僕、堅苦しいのは苦手なんだ」
(この人は……底が見えない。けれど、不思議と怖くはない)
結那は小さく息をつき、ほんの僅かに笑みを浮かべた。
ルークという人の不思議な距離感を、ようやく少し掴めた気がした。
店内に入ると、穏やかな灯りが空間を包み、香ばしい匂いが漂う。
客たちの談笑や湯気の奥に、人の温もりが感じられた。
注文を終え席に着くと、ほどなくして皿が運ばれてくる。
「お待たせしました。おすすめの山鹿ステーキ定食です」
結那は目の前の皿を見つめた。
肉は表面が香ばしく焼かれ、湯気が立ちのぼる。脂の香りが鼻腔をくすぐり、野菜やパン、スープの彩りも美しい。
初めてのまともな料理に、胸の奥が少し震えた。
ナイフを入れ、フォークで一口。
肉の旨味と塩気が舌にじんわり広がり、甘みのある野菜が濃厚さをほどよく中和する。
パンは外が香ばしく中はふんわりで、肉汁を絡めると味わいが増す。そして、スープの温かさが口の中を整え、一口ごとに身体の奥まで沁み渡った。
「……おいしい」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいよ」
声にならない感動を、結那は小さく漏らした。
今までにない満ち足りた味に、胸の奥まで満たされていく感覚があった。
ルークも微笑み、少し照れくさそうに頷いていた。
食後にはハーブティーと小さな焼き菓子が出された。
香りを胸いっぱいに吸い込み、心までほどけていく。
焼き菓子は口の中で崩れ、まろやかな甘さが広がった。満たされたお腹に、最後の一口が惜しく感じられる。
「こうして誰かと一緒に食べると、より美味しく感じるよね」
「はい……たぶん、今までで一番幸せなご飯かも」
漏れた言葉に、ルークは目を瞬かせて笑った。その笑みを見て、結那もまた、小さく息を吐いた。
昼の喧騒が遠ざかり、灯りがともりはじめるころ、街は少しずつ夜の顔へと変わっていった。
やがて群青の空が屋根の上に広がるころ、二人は宿の前に立っていた。窓から溢れる灯りが暖かく、外の風とは対照的に穏やかな温もりを感じさせた。
ルークは受付に部屋の鍵を頼み、支払いを済ませながらこちらを見た。
「今日はもう遅いし、無理に帰らなくていい。ここで休むといいよ」
「え……でも」
「大丈夫、経費で落とせるから」
軽い調子に、思わず苦笑する。
差し出された鍵を受け取ると、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
「ルーク……ありがとう」
「気にしないで。それに、今日はあれだけ走ったんだ。体も心も休めないとね」
ロビーの灯りがルークの横顔を照らす。その笑みがどこか柔らかく見えて、結那は言葉を失った。
しばらく沈黙が流れ、外では鐘の音が鳴り、街の明かりが少しずつ消えていく。
部屋の扉が静かに閉まった。ベッドに腰を下ろすと、穏やかな沈みが身体を包んだ。
今日の出来事が次々と浮かんできた。プリズマ・ジェリー、ノクス・ウルフ、そして……ルーク。
(……まるで三日分くらい夢を見てたみたい)
そう思った瞬間、瞼が重くなり、意識がすっと沈んでいった──
*
翌朝。柔らかな光で目を覚ますと、ルークの姿はもうなかった。
代わりに机の上には、一枚の紙が置かれている。
『用事ができたから先に出発するよ。ユナも気をつけて帰ってね』
丁寧な字を指でなぞる。几帳面な人だ。その筆跡に声が重なるようで、自然と微笑んでしまう。
「さて……私も帰ろう」
大きく伸びをし、澄んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、昨日までとは違う景色が少しだけ優しく見えた。
朝の光に包まれながら、結那は街を抜けていった──その先に何が待つのか、まだ知らないまま。




