森を駆ける赤い瞳
肺が焼けるように痛む。
湿った土を蹴り上げ、結那はただ前を見て走っていた。
背後で響く獣の唸り。森の影が流れ、光が断片的に揺れた。
枝が頬をかすめ、根を踏み外しかけた瞬間、反射的に体勢を立て直す。呼吸は乱れても、視線だけはぶれなかった。
小石を蹴った。音が弾けた瞬間、背後から咆哮が応じる。距離が縮まっている。
(反応速度……三十メートルもない)
足を止めれば終わる。その思いだけが、身体を動かしていた。
視界の端で、木立の奥が赤く瞬いた。四つの光点。規則的な並び。瞳だ。
月影種──ノクス・ウルフ。月の加護を受ける夜の狩人。本来なら、朝の光を嫌い、巣穴から出ることはないはずの魔物。
だが今、その存在が、彼女たちの背を確実に追っていた。
──なぜ、こうなっているのか。
*
数分前。
「魔力を光に変換して、防御や威嚇に使うんだ──」
ルークの声は、どこか楽しげで止まらない。
「もっとも、この個体は群れから離れて単独行動してるみたいだね……」
光を受けて揺らぐプリズマ・ジェリーの軌跡を指でなぞりながら、声の調子はどこか講義のようだった。
「魔力の波長が干渉すると色が変わるんだ。だから見て、あの辺、緑から紫に……」
結那は曖昧に頷きながらも、彼の熱量に少し圧倒されていた。知識が豊富なのは確かだが、その話しぶりは止まる気配がない。
「……あ、語りすぎちゃったね」
ふと我に返ったように笑い、彼は頭を掻いた。そして少し間を置いて、こちらを見つめる。
「そういえば、君の名前は?」
問われ、結那の身体が僅かに強張った。考えるより早く、口が動いた。
「……ユナ、です。ユナって呼んでください」
それは、自分の名を少しだけ変えただけの、即席の偽名だった。けれどルークは何の疑いもなく、柔らかく頷いた。
「ユナか。いい名前だね」
その穏やかな声に、一瞬だけ空気が和らいだ。
だがその直後、プリズマ・ジェリーの体がふっと光を強め、森の方へ滑るように動き出した。
「あれ……移動してる?」
ルークが目を細めた。
その光は、まるで何かに導かれるように、森の奥へと吸い込まれていった。
「森に入るのは、危険じゃ……」
結那が言いかけた時、ルークは躊躇なくその腕を掴んだ。
「大丈夫、ちょっとだけ! ルメイルの森は比較的穏やかな魔力帯なんだ。研究者魂は、こんなところで止まらないよ」
彼の瞳が輝いていた。
その勢いに、反論の言葉が飲み込まれた。返す間もなく、彼の手に引かれるまま、足が動く。
森の入り口に差しかかると、光の粒が霧のように舞い、周りの温度が少し下がったように感じた。
陽光の届かない木々の間で、プリズマ・ジェリーの光だけが淡く揺れていた。
森の奥へ数歩進んだ瞬間、プリズマ・ジェリーの光がふっと乱れた。淡い光の球がいくつにも分かれ、まるで逃げるように四方へ散っていく。
「……どうしたんだろう」
ルークが小さく声を落とした。
周囲の空気が、まるで膜のように張り詰め、風の流れが止まった。
次の瞬間──低い唸り声。地を這うような重い音が、森の奥からじわりと近づく。
影が揺れた。樹々の間に、赤い光が四つ、規則的に並んで瞬く。光は生気を持ったように微かに震え、まるで森そのものが異変を告げるかのようだった。
結那は息を呑む。
「……目、四つ……?」
ルークの瞳が僅かに見開かれる。
「ノクス・ウルフ……? まさか、月影種が? こんな昼間に出るなんて……聞いたことがない……」
「月影種……?」
彼女が反射的に問い返すと、彼は短く息を呑んだ。
「うん、夜にしか動かないはずの魔物だよ。太陽光を嫌う……はずなのに」
その声には、恐怖よりも興味が勝っているように感じられた。
しかし、咆哮が森を裂いた瞬間、その表情が理性を取り戻す。
「逃げるよ!」
その声が合図だった。二人の足が同時に地を蹴る。
肺が焼けるように痛む。
湿った土を蹴り上げ、結那はただ前を見て走った。
──今に至る。
枝葉をかき分け、息を荒げながら木々の合間を縫う。背後では、低く唸る気配がなおも追ってくる。咆哮が風を裂き、足元の土が震えた。
結那の胸を焦りが掻き立てる。だが隣を走るルークの表情は、焦燥というよりも冷静だった。
「こっちだ、ユナ!」
ルークの声に導かれ、結那は木陰へと身を滑り込ませる。太い幹の陰に身体を押しつけ、息を殺した。
彼が前に出る。右手を僅かに掲げ、指先で何かを描くように空をなぞった。
空気が一瞬、張りつめた。目には見えないはずの流れ──風の中に、脈動する何かが生まれる。
淡い光がルークの掌から広がり、やがて半透明の膜のようなものが二人を包んだ。
音が遠のく。空気の層が厚くなったように、世界が静まり返った。
魔法──それは物語の中のものだと思っていた。
魔力の流れを操り、現象を生み出す術。知識としては聞いたことがある。けれど、実際に見るのは初めてだった。
空気が震え、光が形を持つ。その光景に、世界の理が僅かに歪んだような錯覚を覚えた。
「……すご」
思わず零れた声は、ほとんど囁きに近かった。
ルークは振り返らない。額に汗を浮かべ、光の膜を維持しながら小さく息を吐く。
「防御結界だ。長くはもたないけど、位置は誤魔化せるはず……」
声は落ち着いていたけれど、僅かに緊張が混ざっているように感じられた。
ノクス・ウルフの足音が止まった。重い呼吸音だけが、木々の隙間から伝わってくる。
結那は、無意識に息を止めていた。
すぐそこに生きた殺気がある。見えないのに、確かにわかる。
ルークが小声で囁く。
「動かないで。あいつ、魔力の揺らぎを感知するタイプだから」
結那は頷いた。
心臓の鼓動さえ、音になるのではと思うほど速い。ひとつ間違えば、すぐに見つかる。
──けれど、不思議だった。
恐怖の中で、胸の奥が微かに震えている。
魔力の波が空気を伝い、肌を撫でていく。その感触が、どこか懐かしい。
まるで、自分の中の何かが、それに応えるように共鳴している気がした。
彼女は自分でも理由のわからないまま、手を胸に当てた。すると、不思議なことに、じんわりと指先まで熱が伝わっていく感覚があった。