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黎明の観察者


 黎明帝国オリエント、魔王城前──


 城を囲む草原は、薄い朝霧に包まれていた。夜と朝の境界はまだ曖昧で、靄が風に流されて形を変えていく。

 石畳の道は西へと真っすぐ伸び、その先には、果てしなく広がる草原。

 空は深く澄み、雲は薄く流れ、昇りゆく太陽が露を照らしては、草葉を宝石のように光らせた。


 風の流れに、微かな脈動が混じっている。空気の粒が煌めき、肌を撫でるたびに淡い熱を帯びた。


 (……魔力の流れなのだろうか)


 目には見えないが、確かに世界が呼吸している気がした。


 その空気を背に受け、結那は魔王城の門の前に立つ。

 三日間籠もった城中とは違い、陽光が痛いほど眩しい。手をかざして指の隙間から光を覗き込み、頬を撫でる温度に思わず息を呑む。


 魔王から与えられた任務は、ただ一つ。


『世界を巡れ。そして魔物に触れ、その理を識れ』


 その声は、玉座の闇の中から静かに響いた。命令というより、祈りにも似ていた。

 魔王は決して怒鳴らない。ただ淡々と、世界の「理」を見通す者のように言葉を紡いだ。


 簡潔に言えば、丸投げの命令だ。だが、拒めばどうなるか──想像するまでもなかった。

 魔王軍の観察者として、魔物と世界の生態を知ること。それが今の自分に与えられた役目だった。


 靴底が石畳を打つ音を聞きながら、ゆっくり歩き出す。

 振り返ると黒曜石の塔が陽光を反射してきらりと光った。その姿は威圧的でありながら、整然とした美しさも併せ持つ。

 戦乱の象徴とされる魔王城が、こんなにも静謐な景色の中にあるとは、日本での記憶からは想像もつかなかった。


 視線の先では、小柄なコボルトが数匹、道端の石を運んでいる。短く吠えながら器用に石を積み上げ、まるで職人のようだった。

 その傍らを、小さく震えながらスライムが横切る。朝の光を浴び、半透明の体が淡く輝く。まるで水の精霊のようにも見える。


 魔王領の魔物たちは、魔王の加護のもと「知」を得ていた。言葉を理解し、それぞれの役割を持ち、秩序に従って生きている。

 おそらく、かつて勇者たちが「討つべき敵」と呼んだ存在だろう。しかし今は、城下で労働に従事し、交易を担い、魔王の意志のもとで社会を形成していた。


 少し高台を歩くと、小さな集落が見えてきた。

 獣人の姿をした者が畑を耕し、甲殻の腕を持つ魔族が水を汲む。

 遠くの広場では、黒翼の青年が小さな獣人の子どもたちに読み書きを教えていた。


 (……平和、なのだろうか?)


 魔物たちが人と同じように笑い、働き、日を暮らしていく。その光景は、結那にとって現実感を欠いたものに映った。


 人間社会と何が違うのか──それを確かめるため、彼女はここにいる。


 けれど、心のどこかでふと呟く。


 (……この世界で、私はどこまで踏み込んでいいのだろう)


 高台を降り、草原を抜けると小さな泉があった。透き通った水面には青空と雲が映り、底の金色の藻が揺れる。

 結那はそっと手を伸ばした。触れた瞬間、情報が脳に流れ込んできた。


 水棲種──アクア・ナーム。水中に多く棲息し、魔力濃度の高い水域を好む。自律的に水質を浄化し、微生物と共生関係を持つ。


 手を離すと、泉は静まり返り、風が表面をなぞるだけになった。


 (本当に、世界そのものが本みたいだ)


 結那は自嘲の笑みを浮かべ、再び立ち上がる。

 触れ、知り、記す──それが魔王から与えられた役目。だが、本当に魔王が望むのは、単なる情報収集ではなく「理解」なのかもしれない。


 遠くの林では、木の枝に座る鳥が嘴で果実を割り、翼を広げるたび粉塵のような光を散らす。

 その下には石肌の巨人が静かに立ち、同じ鳥を見上げていた。


 共存──その意味を、ここでは誰も特別視しない。


 丘の上を歩きながら、結那は小さく呟いた。


「……ここには、戦う理由はなさそう」


 言葉は風に乗り、すぐに消えた。

 空を渡る風は穏やかで、草木のざわめきが足音を包む。

 彼女の目には、魔王領は恐怖や支配ではなく、「理」と「秩序」によって成り立っているように見えた。

 けれど、その平穏の裏に何かが潜んでいる気がしてならなかった。


 結那は立ち止まり、視線を遠くに向けた。

 すると、視線の先で微かに光を放つ小さな生き物が視界に入った。

 半透明の体が朝日を受け、七色に揺らめく。触手のようなものをひらひらと動かし、風に乗る光の粒のようにゆらりと漂っていた。


 (……なにあれ)


 彼女は思わず木陰に身を潜め、その様子をじっと窺った。生き物の体が光を受けて揺れるたび、心が少し跳ねる。


 その瞬間、隣から声がした。


「君……人間? どうして魔王領に?」


 心臓が跳ねた。気配も、足音も、まるでなかった。

 反射的に振り返ると、眼鏡をくいっと上げた青年が、静かにこちらを見据えていた。

 その瞳は穏やかで、けれどどこか底の見えない光を宿しているように見えた。


 警戒と好奇が交錯し、胸が高鳴った。


 (……敵か、味方か)


 結那は息を呑み、僅かに体を引いた。言葉が出る前に、瞬時に思考を巡らせる。


「……ただの旅行者です。魔物を見るのが好きで」


 咄嗟に口をついた偽りの言葉。

 すると、青年は目を輝かせ、小さく頷いた。


「なんだ、君も魔物を観察しているのか! 僕はルーク、勇者一行で魔物研究者をやってるんだ!」


 その言葉に、結那は僅かに眉を寄せた。


 勇者一行──人間側の象徴。魔王領にその名を持つ者がいるとは思わなかった。

 目的は調査か、それとも斥候か。しかし、青年の瞳には敵意も警戒もなく、ただ純粋な知への渇きだけが宿っているように見えた。


 ルークは結那の視線を追い、ふっと柔らかく微笑んだ。


「プリズマ・ジェリーに興味あるんだね」

「……プリズマ・ジェリー?」


 聞き慣れない名を口にすると、青年は嬉しそうに頷いた。それは、まるで同じ趣味の人間を見つけた子どものような笑みだった。


「そう。あの光っている魔物さ。正式には、幻光種──プリズマ・ジェリーって呼ばれてるんだ。魔力を光に変換して、防御や威嚇に使うんだ」


 指差す先を見ると、プリズマ・ジェリーの光はなお揺らぎ、幻想的な彩りを描いていた。淡い虹の幕が風にたなびくようで、現実の景色とは思えない。


 結那は光景に目を奪われ、僅かに息を潜めた。

 慎重に振る舞わねば──魔王からの任務が、思わぬ形で動き出す予感が、身体の奥で微かに疼いた。


 世界を識る旅は、黎明の光の中で、静かに始まろうとしていた。


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