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魔を識らぬ魔王


「こちらがコボルトで、こちらがゴブリンです」


 異世界に召喚されて三日。


 白石結那(しらいしゆいな)は、まさか魔王に魔物の違いを説明することになるとは予想していなかった。


「だ、だって同じに見えるのだから仕方なかろう!」


 魔王は玉座の上で声を荒げた。

 犬のような顔をしたコボルトと、緑の肌のゴブリン。耳の形も体格もまるで違うのに、彼には同じに映るらしい。


「そもそも魔物というのは、魔王様の子どもではないのですか?」

「ちょっ……違う! 勝手に血縁関係にするでない!」


 慌てる魔王の姿に、結那は小さく息を吐いた。

 最初は自分も同じ誤解をしていた。「魔物を統べる王」という語が連想を呼び起こすのは、自然なことだった。


「魔王様。配下の魔物に、もう少し関心をお持ちになったほうがよろしいかと」

「う、うむ……」


 図星を突かれたのか、魔王は視線を逸らした。

 その表情には、僅かな気まずさと、微かな寂しさが混じっているように見えた。


 短い沈黙の間、頭の中で何かを反芻していたのだろう。


「だ、だからこそお主に頼んでおるのだ!」

「……そうでしたね」


 任されたというより、押しつけられた仕事があった。


 結那は、召喚された日の事を思い返す──






 *






 あの日も、いつも通り残業をしていた。


「国立図書館」勤務と聞いて、結那は優雅に本に囲まれた日々を思い浮かべていた。


 だが、現実は違った。


「資料の山」「終わらない分類」「人手不足による無限残業」──紙の山に押し潰されそうになったこともあった。

 突然の眩しい光に包まれたとき、心の片隅で安堵した。現実の仕事から解放されるのなら、それも悪くはない……と。


 しかし、現実はそんな甘いものではなかった。


 光が消えたあと、結那を迎えたのは湿った石の匂いと、重苦しい静寂だった。

 空気は冷たく、まるで陽の光を忘れた場所のようだった。天井の高い一室。揺れる蝋燭の炎が、壁に淡い影を落としていた。


 中央の玉座には、黒衣に身を包んだ男が静かに座していた。背筋は真っ直ぐ、肩幅は広く、顔立ちは冷たく整っている。見る者に自然と畏怖を抱かせる威容で、彼女は思わず視線を逸らした。

 両脇には黒い翼を持つ従者が二人。鋭い眼光が、突然現れた彼女を値踏みするように見据えていた。


「……人間、か?」

「で、ですな」

「魔王様、失敗みたいだぜ」

「……うむ」


 玉座の主──魔王の傍らに立つ二人の従者は、それぞれの空気を纏っていた。

 一人は静かで、視線も仕草も控えめに魔王を見守っていた。もう一人は、少し砕けた口調で、緊張の中に余裕を漂わせていた。

 眉を僅かに動かした魔王の表情と二人の佇まいから、望む結果ではないことが結那にも伝わった。


「仕方あるまい……雑務でもやらせるとするか」


 魔王は、面白くもなさそうに顎を撫でた。


「お主に仕事をやろう。この世界の魔物の情報を収集し、『魔物誌(ベスティアリウム)』を完成させるのだ」


 淡々と命じる声は、まるで駒を動かすかのようだった。


「……『魔物誌(ベスティアリウム)』?」


 耳慣れない響きに、結那の思考は追いつかなかった。

 それより彼女の関心は、目の前の状況──この場所とこの人物、そしてその意図にあった。


「あの、すみません。ここって……?」

「ああ、説明せずに悪かったな。ここは、黎明帝国オリエント。そして我こそがこの地を統べる魔王、オリエンス=ローデンⅡ世である」


 召喚されるなら勇者側──物語の常識がそう告げていた。

 だが現実は、その真逆だった。拒めばどうなるか、想像するまでもない。結那は黙って頷いた。


「しかし、お主はただの人間。故に、我が力を授けようではないか」


 その言葉に、結那の背筋が凍った。

 力を授ける──それが恩恵なのか呪いなのか、判断できなかった。


 魔王が両手を掲げると、結那の左手首に紋章が浮かび上がった。円の中に奇妙な紋様が刻まれ、淡く脈打つように光を放つ。


 続けて、魔王の手元から淡い青緑色の光が湧き上がり、宙に渦を描いて形を変え、やがて小さなスライムとなって現れた。

 半透明のゼリー状の体は光を透かして淡く揺らぎ、内部の気泡が浮遊している。表面はぷるぷると柔らかく、触れれば容易に変形しそうな感触が伝わってきた。


「これに触れてみよ」


 魔王の声は静かだが、命令には抗えなかった。

 彼女は一歩後退しつつ、手のひらをそっと差し出す。指先がゼリー状の表面に触れると、ひんやりとした柔軟さが指先を包み込み、体が僅かに沈み込む感覚があった。

 抵抗はあるが、触れるごとにスライムは形を変え、気泡が弾むように揺れ、光を微かに反射させていた。


 そして、触覚を通して情報が流れ込んできた──組成、流動性、反応速度、魔物としての特性までもが、結那の脳裏に瞬時に補完された。

 未知のものに触れながら知識を得る、この感覚はまるで本を一冊開いたかのようだった。


 (なるほど……)


 結那は心の中で呟き、スライムの体を通じて得られた情報を理解した。


 魔王は静かに結那を見下ろし、その瞳に冷静な命令の色を宿していた。


「では、他の魔物にも触れて情報を得るのだ。分かったか?」


 結那は視線を落とし、思考を巡らせた。


 (スライムはなんとか触れたけれど、他のより危険な魔物には、とても私一人では……)


 体温より少し冷たい恐怖が心を過ぎる。襲われるかもしれない──そう考えると、脳裏に緊張が走った。


「……無理です。私一人では、とても」


 魔王は淡々と頷いた。


「……うむ、それもそうだな。では現地で助け合える者を伴え。冒険者組合(ギルド)にでも登録し、仲間と共に行動するのだ」

「冒険者……組合?」


 結那は思わず息を吐いた。

 魔王側に所属しているはずなのに、なぜ反対側の冒険者組合(ギルド)に登録し、仲間と行動しなければならないのか。


 そもそも、この世界における魔王と勇者の対立構造が、まだ完全には頭に入っていない。


「私の立場ってどうなるんですか?」

「もちろん、こちら側だ。しかし、表面上は冒険者として行動することになる。理解したな?」

「は、はあ……。ただもう少しだけ気持ちの整理をさせてください」

「うむ、構わん」


 魔王は短く答え、ほんの一瞬だけ結那の方を見た。

 その瞳に、僅かだが気遣いの色が滲んでいた。


 表面上は冒険者、しかし本当は魔王側──奇妙な立場だと感じた。

 それでも、仲間を集めなければ、魔物に触れて情報を得ることなど、結那には到底不可能だった。


 目を閉じ、思考を巡らせる。


 まずは冒険者組合(ギルド)に登録し、仲間を見つけること──それが現状で唯一の現実的手段だ。

 しかし、誰が信用できるのか、どの冒険者と組めばいいのか、まだ見当もつかない。


 魔王の命令は簡潔だ。

 その背後には、結那が想像するよりも遥かに広い世界の危険と可能性が潜んでいる。


 まずは一歩を踏み出すしかない。


 震える指先をそっと握りしめ、彼女は自分に言い聞かせた。


「大丈夫、これは仕事。……ただの、図書館仕事の延長線上」


 そう呟いた声が、静かに石壁に吸い込まれていった。


 白石結那、二十三歳。

 突如異世界に召喚され、『魔物誌(ベスティアリウム)』編纂を命じられた人間である。


以前投稿していた「魔王軍の図鑑係」を、構成と文体を一から見直して書き直しました。

設定の骨格は同じですが、世界観・キャラの掘り下げ・テンポを全体的に再構成しています。

初見の方も、前作を読んでくださった方も、改めて楽しんでいただければ幸いです。

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