ROM 第1巻:第二の月. ☽ ・第Ⅱ章:オレリア・ヴィターレ
《「星々に火が灯るなら、それは誰かがそれを必要としているからだ」
「私は、私のままで在り続ける」――その誓いは、人間と機械の境界を揺るがす禁忌の記憶。》
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私立学院「サン・ヴェネラ」の夏の庭園は、太陽の下で磨き上げられた鏡のように輝いていた。大理石の床は朝の涼しさを保ち、空気には檸檬の香粉と紙の匂いが漂っている。白いジャスミンが柱に絡み、葡萄の蔓は建物の壁を伝って窓辺へと伸び、ガラスの天蓋の向こうでは警備ドローンが低く唸りを上げていた。
灰色と真紅の制服に身を包んだ少女たちは、命令ではなく習慣に従って通路を行進していた。ここでは高貴さは叫び声ではなく、沈黙と身のこなし、そして整った姿勢によって育まれる。ある者は評議会の年代記を暗唱し、ある者は守護者との面会に備えていた。しかしその多くは、まだ無邪気で傷つきやすい子供たちだった。彼女たちは夜になると禁じられた詩を歌い、枕の中にキャラメルを隠し、この世の全てがまだ決まったわけではないと信じていた。
☽…○…☾
アマエヤは、大理石の広場の端に立っていた。雪を被った金糸のような彼女の髪は、完璧に整えられていた。滑らかで光沢があり、毛先をカールさせた高い髪型に結い上げられている。一筋の乱れもない左右対称なその髪は、まるで美術館に飾られるべき芸術品のようだった。アクアマリンの瞳は、反射する太陽の光を一つ残さず捉えている。彼女は背筋を正し、一つ一つの動きが尊厳を示す静かな儀式であるかのように、ただ沈黙を守っていた。
彼女は、ジャスミンの花弁が一つ、枝から離れるのを眺めていた。それは虚空に震え、墜落と飛翔の狭間で躊躇いながら、微風に攫われて開かれた窓の方へと流れていく。
「——落ちるわ」
振り返らずに、アマエヤは静かに呟いた。
「案外、そうでもないかもしれませんよ」
すぐ背後から、控えめな声が応えた。
そこには、一歩引いた場所に新顔の少女が立っていた。髪は蜂蜜のような温かみを帯びた薄金色で、高く結い上げられた髪型はアマエヤほど完璧ではないが、丁寧に整えられている。しかし、数筋の細い後れ毛が、風に弄ばれていた。横顔は木瓜の花弁のように透き通り、瞳は真珠硝子のように澄み渡っている。
「新入生ね」とアマエヤは言った。
「オレリア・ヴィターレです」
「私は、アマエヤ・ネリフ」
二人は並んで立ち、花弁が噴水の中へかすかな水音を立てて落ちるまで、沈黙を守った。その瞬間、二人は同時に笑い声を上げた。一つは深く穏やかな、もう一つは銀の鈴を転がすような、清らかな響き。
☽…○…☾
夜の帳が降りると、学院「サン・ヴェネラ」は、飾り釘を打たれた小箱(に閉じ込められた陶器の人形のように、静止した。光は琥珀色の微光へと落とされ、ドローンの巡回も緩やかになる。ただ庭園の夜鳥たちだけが、規律を忘れてさえずっていた。
だが、内庭の深く、ジャスミンの茂みと銀色の鈴懸の木立に囲まれた場所に、一つの古い東屋があった。アーキテクトが忘れ去った草稿のように、半(ば見捨てられた場所。
そこが、彼女たちの逃避行の終着点だった。薄手のパジャマに身を包み、ブランケットと懐中電灯、そして飴菓子の空き缶に隠した禁書を抱えて。
表向きは、淑やかな二人の少女。しかしその実態は、政治や家系ではなく、自らの「夢」を語り合うための秘密結社であった。
アマエヤは肢体を横たえ、毛布で足先を包みながら、朗読を紡いでいた。
「——星々に火が灯るなら、それは誰かがそれを必要としているからだ…」
その声は僅かに低く籠っていたが、あたかも元老院の演壇に立つかのような、揺るぎない尊厳を湛えていた。
「——とても哀しい詩篇ですね」
オレリアは吐息を漏らした。彼女の膝の上には、金箔の紋章が施された薄い書物が置かれている。
「今度は、私が読んでも?」
彼女はページを繰り、囁くような静けさで読み上げた。
「『書物がこの世に在ることの、何と素晴らしきことか。ただ紐解くだけで、それらは常に傍らに在る』」
読み終わると、彼女はくすくすと忍び笑いを漏らした。
「ねえ、想像してみて。もし私たちが、母親から学びを強いられないような人々の間で暮らしていたとしたら……」
「それは逆理想郷だわ」と、アマエヤは鼻を鳴らした。
「人類など、二世代を経ずして瓦解するに違いないわ」
「あるいは、そうではないかもしれません」 オレリアは軽く肩を竦めた。
「逆かもしれないわ。もし人々が、レポートではなく詩篇をより多く愛でていたなら—このような崩壊も、戦火も、あるいは非道な実験さえも、起こらなかったのではないかしら」
二人は、そのまま沈黙の深淵へと沈んでいった。
☽…○…☾
静寂は、大聖堂に燻る香のように重く、二人を包み込んだ。庭園の闇には、月の死骸から降り注ぐ銀灰の光が澱んでいる。
「……ねえ、アマエヤ様」
オレリアが不意に、夜の帳を裂くように声を洩らした。彼女の指先(は、古びた書物の端を、愛おしむように、あるいは何かに怯えるように撫でている。
「私たちは、何になるのでしょう。この学院を出て、血統という名の檻に閉じ込られた後……何を語り、何を愛でるというのでしょう」
アマエヤは答えなかった。ただ、彫像のごとき完璧な横顔で、砕け散った月の破片を見つめていた。その瞳の奥には、冷たい鋼のような光が宿っている。
「私たちは、選ばれた『容』よ」
アマエヤの声は、静かだが残酷な響きを伴っていた。
「知性を磨き、優雅さを纏い、次なる世代へと『記憶』を繋ぐためのパーツ。……それが、私たちの存在理由だと教えられてきたはずよ」
「でも」と、オレリアは縋るように言った。 「心はどうなるのです?この東屋で交わした夢や、隠れて読んだ詩篇の熱さえも、いつかシステムの一部として処理されてしまうのでしょうか」
アマエヤはゆっくりと身を起こした。薄手のパジャマがさらりと擦れる音が、夜の静寂に鋭く響く。彼女はオレリアの手を、冷たく、しかし拒みがたい力で握りしめた。
「処理させはしないわ」 その言葉は、一つの祈りであり、同時に呪詛のようでもあった。
「たとえ世界が崩壊し、再編の波に呑まれようとも。……私は『私』を。そして、あなたがここに居たという記憶を、この魂に刻印し続)ける」
遠くで、巡回のドローンが発する電子音が、規則正しい脈動を刻んでいる。二りの少女は、闇の中で互いの呼吸を感じながら、来るべき審判の刻を待つ罪人のように、身を寄せ合った。
☽…○…☾
三学年を迎える頃、オレリアを「咳」が襲った。
最初は埃に咽せたかのような、軽いものだった。だが、その頻度は日に日に増していく。
医師団はその病を「閉塞性骨毒素症」と定義した。自己免疫疾患の一種であり、己の肉体が自身の骨組織を破壊し尽くす、稀有な不治の病である。
「あと、どのくらい持ちますか?」彼女は問うた。
「五年だ」との答えが返った。
「二年後には不可逆的な変形が始まり、骨の崩壊が進行する。おそらく、四肢の自由は失われるだろう」
彼女は涙を流さなかった。ただ、静かに研究室へと戻った。
夜ごとに彼女は、神経回路網、脳地図、そして人格転送アルゴリズムの深淵に没頭した。 アマエヤは、取り返しのつかない速さで零れ落ちていく「何か」を見守るかのように、彼女を見つめていた。その声は、消え入りそうな囁きに近かった。
「休息が必要よ、オレリアさん。あなたは、自分自身を焼き尽くそうとしている」
彼女は、ガラスを滑る陽光のような、微かな微笑みを浮かべた。足が思うように動かぬため、椅子に深く腰掛け、不自然なほど背筋を伸ばしている。
「墓の中で嫌というほど眠れるわ」彼女の声は枯れていた。「あちら側の世界に行けば、望むだけ休める。けれど、今はまだ……目と脳が機能するうちに、成し遂げたいの」
「そんなに、急ぐ必要はないわ……」アマエヤは息を漏らした。 オレリアは彼女を見つめ返した。淡い金髪はかつての輝きを失っていたが、その瞳には、決して折れることのない、不敵な炎が宿っていた。
人格の量子コアへの転移プロジェクトが倫理的承認を得た時、オレリアは既に己のコードを完成させていた。
彼女は自ら、記憶の構造を書き上げた。
彼女は自ら、投影体の形状を選択した。
彼女は自ら、死後の脳提供に関する承諾書に署名した。
「本気なの?」アマエヤが問う。
「ええ、本気よ」オレリアは最後の同期プロトコルを書き込みながら、深く頷いた。「でも、約束して。私は単なる人工知能にはならない。私は、私のままで在り続けると」
アマエヤはすぐには答えなかった。だが、再び口を開いたその声は、もはや一人の友人のものではなかった。それは、光を宿す精神を守り抜く決意を固めた、一人の守護者の声であった。
「——約束するわ」
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オレリアの肉体が自由を失い、言葉が沈黙に取って代わられた時——アマエヤは転送カプセルの中で、彼女の手を握りしめ続けていた。
それから数年後。ローマの空が血のような紅に染まり、地下のセンサーが静かに振動した時、アマエヤは投影機を起動させた。
光の中に現れたのは、あの頃と変わらぬオレリアであった。光で形作られた、かつての少女。同じ瞳、そして同じ言葉。
「私は、ここにいるわ」
一年後、人工知能となったオレリアは彼女の直属補佐、即ち「特別カテゴリー」のエージェントとなった。戦術立案に携わり、任務の記録を整理し、記憶を処理する。
彼女は相変わらずジャスミンを愛していた。教団の広間に芳香器を置くよう求め、エージェントの個人記録を整理する傍らで、古い旋律を流した。そして時折、ホログラムの顔に皮肉めいた微笑を浮かべ、報告書を読むアマエヤを無言で見守っていた。
この作戦の後、こうした人格転送の処置は教団評議会によって禁じられた。表向きは生命倫理と「認知の逸脱」への懸念であったが、その本質は「恐怖」であった。たった一つの成功例が、人間と機械の境界を揺るがせてしまったからだ。上層部の命によりプロジェクトは閉鎖され、すべての資料は機密扱いとなった。新たな転送は無期限で禁止されたが、オレリアだけはアマエヤの個人的な責任において、その存在を許された。
☽…○…☾
部屋には、四人の姿があった。
長身で、教団の新しい制服を纏ったラエル。その腰には散弾砲を帯び、疲れを宿した瞳の奥には、湖の深淵のような暗い影が潜んでいる。その隣には、今にも火がつくかのように生き生きとしたセリア。
そして、三人目の存在——オレリア。
「教団はヴォレッサールにおける復興の準備を進めている。新たな安定化核、『スフェロン・核』の起動だ。これは安定した閉鎖重力圏を作り出し、引力を蓄積して電力へと変換する、統合型のリアクターである」
アマエヤはそう語り始めた。
※ ☽ ※
メモ―
「星々に火が灯るなら、それは誰かがそれを必要としているからだ」
この一節は、1914年に執筆されたウラジーミル・マヤコフスキーの詩集『聞いてくれ!』に由来する。
『聞いてくれ!』
聞いてくれ!
星々に火が灯るなら――
それは、誰かがそれを必要としているからではないのか?
誰かが、それらがそこに在ることを望んでいるからではないのか?
誰かが、あの取るに足らない光の塵を 真珠と呼んでいるからではないのか?
「書物がこの世に在ることの、何と素晴らしきことか。ただ紐解くだけで、それらは常に傍らに在る」
この一節は、エレナ・ファージョンの詩『本(Books)』からの引用である。
『本(Books)』
書物とは、魔法へと続く窓。
そこでは夢と希望が息を吹き返す。
書物がこの世に在ることの、何と素晴らしきことか――
ただ紐解くだけで、それらは常に傍らに在る。




