38.奪う側の人間
『剣豪カルファリア・パレスリー』
その名前が、どれほど私を壊してきたか。そんなこと、きっと、誰も知らない。
二度と関わりたくなかった、その名前。
一度とて無視が許されない、その名前。
……その名前が、過去が、すべてが、“私には”荷が重すぎた。
「……その名を口にするなと、言ったでしょう!?」
私が叫んだ声だけが、耳に聞こえた。感覚はすべてなくなって、ただ激憤と驚怖と後悔が残ったことしか分からなかった。
目の前が白くなって、黒くなって、また元の色に戻った。
……気づいた時には、もう遅かった。
目の前の景色は、汚れていた。
私は、近づいて、私に触れてきていたスイレイに向かって、無意識に剣を突いていた。彼の胸元は剣で突かれ、血を流していた。
壁を背に、力無く座り込んだスイレイは、何が起こったか分からないというように目を丸くしている。
そしてそれから……、声を上げて、笑った。
「……っ、ふ、あっはははは!さすが、流石です!」
普段から声の低い彼が、こんなに甲高く笑うことに、恐怖が煽られる。それに何より、大量に血を噴き出しながらも満面の笑みを浮かべる彼が、気持ち悪かった。
「は、ははっ、あー、……乱暴は止して下さい?」
形作っていない、本当に楽しそうな笑い混じりのその声は、喉に血が絡んで上手く出なかったらしい。
黒い壁が、彼の血で照っている。キラリと光を宿すのは、噴いた鮮血だということを、いやでも理解する。
「どうして、私、こんな……。」
“どうして、強い人間が、奪う側の人間が、失う側の顔をするの?”
忘れちゃ、いけない。絶対に。
何度も何度も、自分に呪った。
そう。私は、本当は……。
動けなくなった私に、スイレイが触れた。吸血鬼の手が、私に触れた。
胸元の傷は自分で治したのか、服が破れた奥には白い肌が見えるだけだった。
「血を貰ってもいいですか?……このままでは、足りないので。」
私の、せいで。
首を噛まれる。今まで感じたことのない痛みを、これも罰だと受け入れる。
次第に身体から力が抜けて、そのまま意識を失った。
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力が抜けた身体を、慌てて捉える。飲み込みきれなかった分、顎から首筋へと血が流れたけれど、それを気に留める必要も無いと感じた。
薄く目を閉じる彼女は、気が狂うほどに美麗だ。トリエミア家の子息以外にも、彼女に惑わされた者は多くいるのではないだろうか。
ローズレッドの長髪を弄び、ゆっくりとその身体を抱き寄せる。“いつも抱く”身体より軽い女に、また笑ってしまった。
アナリーの部屋に送り届けようと体勢を整えていると、乱暴にドアが開いた。
「……これは、どういうことだ。」
ディロップ・ファロウが、汚れた壁をチラリと一瞥してから俺を見た。……見たという言葉は便利だなと、妙に感心する。
「俺がやったのではないですよ?あれは俺の血です。」
悪びれずに言うと、ディロップは険しい顔を更に顰めた。乱れた長髪や虚ろな瞳も相まって、さながら死人のようだ。
「……お前が唆したのだろう?」
「鋭いですねぇ。そうとも言えましょうか。」
アナリーの頬を汚してしまった返り血を指で拭う。その最中にも、その姿が可笑しくて、また堪えきれずに笑みが溢れた。
「まさか、こんなに上手くいくとは思いませんでしたよ。……これがあれば、『あの人』に近づけずに済む。」
孤独に生きるパンジーを思い浮かべて呟くと、盛大に溜息を吐かれた。
「……性格が悪い。」
ディロップが吐き捨てる。
「そうです。『性格が』悪いんです。」
悪戯をするように笑ってみせると、ディロップは呆れたようにまた溜息を吐いた。
「……お前の欲情に振り回される、私とエリエの身にもなってみろ。ユーリスが何にも気付いていないことが唯一の救いだ。」
俺にとっては不都合です、と言いたくなったが、やめた。きっとそんなことを言ったら、ディロップを怒らせるだろうから。
「……悪いが、お前が取り返しのつかない過ちを犯したとき、私は味方にはならないからな。」
「構いませんよ、ディロップ。」
ディロップの顔に影が落ちる。けれど、もうどうでもいいと感じたのか、それとも絶望に近い感情を抱いたのか。ディロップは無言でドアを開けると、早くアナリーを送ってこいとでも言いたげに、此方に目線を寄越してきた。
「……体調が優れないなら診てもらえ。尤も、サムスがお前を受け入れるかどうかは知らないがな。」
「平気ですよ。異常なんてありません。吸血鬼って、そういうものでしょう?」
風が吹く。面白い話を手に入れたので、これから楽しくなりそうだ。
「……あ、そうです。言いそびれていた、面白い話を一つ。」
部屋を出ていく直前に、俺はディロップの方を振り返る。まだ何かあるのかと顔を顰めたディロップに、俺はアナリーの左手を掲げてみせた。
「この指輪、どう思います?」
彼女が気を失った瞬間まで気が付かなかった、存在感のない古びた指輪。微かに血痕が残るシルバーのそれは、ひどく気味が悪く思えた。この血痕は、色の残り方から見ても、明らかに俺の血で汚れたものでは無い。
ディロップはそれを覗き込むと、恐怖して飛び退いた。
「……どうしてそんなものを、彼女が。」
「トリエミア家の子息の仕業でしょうねぇ。」
大方、彼女が村を発つ前にでも渡したのだろう。わざわざローズレッドの石が嵌められたものを探してくるとは、格好つけたことをしてくれるものだ。
「……警戒、しておきましょうか。トリエミア家の子息と関係があるようなら、俺たちに留まらず、『悪魔』共にも影響が及びかねない。」
俺はもう一度、アナリーの指輪を見遣る。
「……まさか、本物の魔除けを持たせるとは。トリエミア家の者達は、本当に俺達が憎らしいようですね。」
俺の呟きを聞いたのは、ふいと目を逸らしたディロップだけだった。




