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36.故郷の面影


「腿一本しか持ってこなかったが、残りは小屋に吊るしたままだ。誰か人をやってくれないか?」

「残りって、まさか一頭丸ごとか?」

「昨日狩ったんだよ。他の獣に狙われる前に処理したかったから、内臓までは手が回らなくて捨ててしまったが」

「ううむ、それはもったいない。いや、そんなことを言ってる場合じゃないな。ちょっと待っててくれ」


 ゼルグェイは腿肉を担ぐと、背を向けて大声を上げながら駆けだした。


「おおーい! みんな集まれ! 男ども出てこい!」


 突然の騒ぎに、村人たちが何ごとかと集まってくる。

 その数は、三十人にも満たない。これで全員とも思えないが、かつての賑わいを知るヴィーラグアには、あらためて胸が痛くなる光景だった。

 ゼルグェイが、村人たちに向かって腿肉とこちらを交互に指差しながら身振り手振りで説明している。すると男たちは一斉に振り返り、駆け寄ってきた。


「やあ」


 ヴィーラグアが手を上げるも、だが最初の男はこちらには眼もくれず走り去っていく。

 次の男は「ありがとうよ!」と手を上げながら駆け抜ける。後につづく者たちも口々に礼を言いながら、森へと向かって行った。

 あまりの慌てぶりに、ヤーゴートが訝しそうに聞いてきた。


「何をあんなに騒いでいるんだ?」

「熊や狼に横取りされたら大変だからな。燻し香は獣たちには苦手な匂いだが、地面に染みついた血の臭いは消しきれない。普段なら、狩の後は小屋の周りに見張りを立てておくものなんだ」

「ふうん、なかなか面倒だな」


 そこへゼルグェイが戻ってきた。腿肉は、女たちに任せたようだ。


「すまん、待たせたな。なにしろ鹿肉なんて久しぶりでな」

「喜んでもらえたなら何よりだ。でも、もう冬も明けたし、狩りはまだ始まらないのか?」

「始めたくても、人が足りないんだ。ともあれ、鹿一頭にこんなボロ衣では釣り合わん。さあ家に来てくれ、もっとまともな服を見繕ってやる」


 ゼルグェイの有無を言わさぬ様子に、二人は素直に手を引かれて村へ向かった。

 通りを進むと、残った女たちが待ちわびたように二人を囲んだ。


「ようこそ、スノルウィーグへ!」

「こんな田舎へよく来なさったね」

「まあいい男! あらやだ、奥さんの前でごめんなさいね」

「こちらのお嬢さんもとってもきれい! 西域(モルゴン)のかた?!」


 ゼルグェイは輪の外に追いやられ、ヴィーラグアのみならずヤーゴートまでもみくちゃにされてしまう。

 言葉もろくに判らず途方に暮れる彼女とは対照的に、ほぼ全員と顔見知りのヴィーラグアは、ふたたび溢れ出しそうになる涙をこらえるのに、必死だった。


(サーラおばさん! エリヤさん! トトリカ! みんな、歳を取ったなあ……)


 むろん、年齢の問題だけではないことも判っている。懐かしい顔に刻まれているのは、これまで乗り越えてきた苦難の証だ。


「おい、ヴィー……!」


 ヴィーラグアに助けを求めようと腕を掴みかけたヤーゴートは、指先が触れたとたんに流れ込んで来た激情に、息を飲んだ。

 具体的な思考までは無理だが、強い感情なら読み取れる。だが彼女が驚いたのはその烈しさにではなく、ヴィーラグアの心に渦巻いているそれが、種族とは明らかに異なる(かたち)を持っていたことだった。


(これは、人間? 馬鹿な)


 人間を喰らったせいで、ゴウラが影響を受けてしまったのか。そのうえ、擬態していることでより強い支配を受けて……。

 ヴィーラグアが、よもやあの黒猴族の王のように狂ってしまうとは思えない。

 だが悠々泰然とした外面とは裏腹に、その内に理解を越えた危うさを秘めていることは、以前から感じ取っていた。


(だとしたら、危険だ)


 無言で見つめる彼女の動揺はヴィーラグアにも伝わり、彼はハッと我に返った。

 ゼルグェイに向かって手を上げながらそれとなく肩に触れ、素早く思念を伝える。


(すまんヤーゴ、大丈夫だ)


「おおいゼルグェイ、これはたまらん。なんとかしてくれ」

「あはは。おいみんな、それくらいで勘弁してやれ。

 さあお二人さん、着替えを用意するからうちに来てくれ」


 ゼルグェイの家は、アーリィの記憶では村はずれのはずだったが、今は中心部に移っているらしい。その一点だけでも、村の衰退ぶりが見て取れる。

 廃材を再利用した住まいは見るからに粗雑で、雨風もろくに凌げないのではないかと心配になるほど。これと較べれば、狩猟小屋の方が立派に見えるくらいだ。

 出迎えてくれたのは、赤ん坊を抱いた若い女性だった。


「いらっしゃい。何もありませんが、どうぞ中へ」

「お邪魔します。奥さんですか?」

「はい、チャーチャといいます」

「アンドレイ・ダーダリです。よろしく」


 この優しい笑顔も、忘れるはずがない。

 彼女もゼルグェイと同じく、アーリィの幼馴染だ。

 二人が戦火を生きのび、しかも結婚して子供まで授かっていたことは、ヴィーラグアにとってこの上なく嬉しい出来事だった。


「男の子ですか」

「はい、去年の夏に生まれて。なんとか無事に冬を越せました」

「名前は?」

「ピュトルといいます」

「良い名だ。顔つきもいい、きっと元気に育ちますよ」

「まあ、ありがとうございます」


 家に入ると、チャーチャは赤ん坊をゼルグェイに預け、さっそく衣類をそろえてくれた。

 夫婦は、ヴィーラグアたちが旅道具を何一つ持っていないことを訝しんだが、それどころか下着すら着けていないことを知ると、疑念を通り越して呆れ返り、大笑いした。


「よくもまあ、こんななりで二千カマールも旅してきたもんだな」

「最初はもっとマシだったんだがな。まあ狩は得意なので、食い物には困らなかった」

「お前さんはそれで良くても、お嬢さんはそうはいかんだろ」

「本当にねえ。えっと、こちらヤーゴートさんでしたっけ」


 赤ん坊の顔を興味深そうに覗き込んでいたヤーゴートは、自分が呼ばれたことに気付くと顔を上げた。


「ヤーゴート。名前、ヤーゴート」

「はるばる南国界からいらっしゃったんですって? 大変な旅を続けてらっしゃるのね」


 ヤーゴートはそれには言葉を返さず、小首をかしげて応えた。


「すまない、こいつはロスコア語はほとんど判らないんだ」

「そうか、お前さんはあっちの言葉がわかるんだな。なるほど、通訳ということか」

「まあ、辛うじてという程度だが」


 ヴィーラグアが南国語を使えるというのは、嘘ではない。人間だった頃に学んだことがあるのだ。

 むろん、ヤーゴートとの普段の会話に南国語を使ったりはしていないが、だからといって種族の言葉を南国語だと偽るのは、さすがに無理がある。

 なにしろ南国語とは似ても似つかないどころか、発声自体が大きく異なり、人間の耳には獣の唸り声としか捉えられないはずのだ。

 絶対に聞かせるわけにはいかなかった。


 幸い、ヤーゴートが南国語を使えるのは本当のことなので、人前で会話する時は、表面上は南国語を発しつつ、同時に身体を接触させて思念で伝えるのが確実だろう。

 指先を何気なく触れてそう伝えると、ヤーゴートも(了解)と返してきた。


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