全ては計算のもとに
どんなに才能があっても。
どんなにチームワークが良くとも。
どんなに個性が強くとも。
事前の準備に勝るものはない。
この言葉を鏑木好は皆に口酸っぱく言い続けていた、それはゲームでも、現実のダンジョンでも同じ変わらない不変の真理。
もちろん他のメンバーもそれには十分の理解を示し、納得し、協力的である。
彼らは何となくではなく、はっきりとした事実として飲み込んでいるのだ。
このダンジョンという未知の産物は遊び場であると同時に、デスペナルティなどと生易しいシステムの介入を一切許さないゲームとはかけ離れた、現実であるということを。
それに彼らは常々思っている。
死ねば、ボタン一つで生き返る世界? 何そのヌルゲー、と。
そう彼ら『α部隊』は無敗、一切の敗北を許されなかった強者であるのだ。
シェアハウスとダンジョンを何度か行き来していた彼らは、再び自宅へと戻り作戦会議を行っていた。
リビングにある天板の高いテーブルの上に一枚の大きな紙とタブレットが置かれていた。
その画面には蜘蛛の巣状に枝分かれした絵――ダンジョンのマップ――に、モンスターの出現情報などが細かく記されていた。
そこで好がタブレットのマップを拡大し、一つのルートを赤く染めた。
「この15、16、17ルートは行き止まりで決まりだ。残る未検証ルートは18、19、20の三パターン、明日はこの三か所を潰していこう」
その言葉に、全員がかずっち特製のクッキーをポリポリと食べながら無言で頷いた。
菜津に至っては、リスのように両頬に納まりきっているのが疑問なほどパンパンに膨らませていた。だが、それも致し方ないこと。
世の中が不安定になったこの状況で、いつまでかずっちの出来立てクッキーが食べられるのか分からないのだ。菜津はその未来を案じて、大好物を独り占めせんとこの状況でもブラックホールのように吸い込み続けていたのだった。
「ほろほろふはふとんひあいほはははいはいほね」
そんな時、菜津がクッキーを溢さないようにと器用に口を開いた。
が、その言葉を聞きとれた者はいなかった。
「まず……飲み込んでから喋れ」
好は呆れるように言った。
それを和ましい目で見ていたかずっちが突然、冷蔵庫へと走り、コップ一杯の牛乳を注いだ。
「ななちゃん、これ飲んでから喋ろうね。牛乳の賞味期限は明日までだからみんな協力して消費してね!」
こんな状況に陥ったところで、かずっちの強かさは変わらないんだな。と、ここにいる全員が偶然にもそう思っていたのだった。
むしろこんな世界的に危機的で不安定な状況で、牛乳の賞味期限を気にしている奴がいるだろうか?
それもいつ電気が止まり、冷蔵庫が機能しなくなるかも分からないことまで踏まえて、賞味期限一日前には消費しておこうという、まるで主婦の鑑のような人がまさか僅か17歳の青年なんて。
一家に一人かずっち、なんて言葉が流行語大賞にノミネートされる日がいつか来るかもしれない。
「ぷはぁ、かず兄ちゃんありがと!」
「どういたしまして」
かずっちはまるで孫を見るかのような、優しく見守る声でそう言った。
それに菜津も祖父母に見せるような満面の笑みでニコリと笑って返した。
たった三つしか歳の離れてない二人の間にこんな空気が生まれるのが不思議で仕方ない。
「んでね、そろそろ私はスケスケちゃん以外と戦いたいの! それにそろそろレイピアとか欲しいなぁ。あれがないと力が抜けちゃうんだよねぇ、欲しいな?」
菜津はサンタクロースにプレゼントをせがむようなキラキラした目線で、兄と姉の瞳を覗き込んだ。
しかし、こんな些細な願いを毎度のように聞き入れているようでは、この菜津という我儘女王のような少女とは付き合っていけないことは、彼らが一番よく知っている。
「そんなこと言うなら、棍棒パリィぐらい百発百中でやって見せろよ。今のところ、菜津の現実棍棒パリィ成功率96パーセントだからな、低いぞ」
「お兄ちゃんだって、昨日一回失敗したじゃん!」
「違う、あれは失敗じゃない。武器の耐久値が視認化されていないこの世界が悪いんだ、誰が武器破壊を予想できるかよ。てか、棍棒が壊れるなよ」
「あれはお兄ちゃんの棍棒の使い方が下手くそなんだと思いますよ、可愛い妹は。それにお兄ちゃんは最近、私のパンツを気にし過ぎだと思います、そこら辺はどうなんですか?」
「話をすり替えるな、それに気にしているんじゃない。「最近、我が妹はませたパンツ履いてやがるな。思春期か?」って、思っているだけだ。この前まで熊さんパンツ履いていたのにな」
そんな痴話げんかのような、兄弟口撃を繰り返していると、菜津が顔を赤面させ始めた。
最近、彼女は気にし始めたのだ。
こんな可愛い妹なら、もう少し身なりを気にしたらみんなイチコロなんじゃないかな? と。
それもこれも、発育が良すぎる七季柚という色気ムンムンな四つ年上の同居人に影響されたせいでもある。
鏑木菜津は性を意識し始める、思春期なのである。
まあ、どちらかというと女子にしては珍しいオープンタイプ。
もしこのシェアハウスに同年代の男子がいれば、それはもういやらしい目で見られる対象になり得るだろう。
そうしていると、飽きてきたのか夜空が席を立ち、手をパタパタと振ってそそくさとリビングを出ていった。
「夜空くんはガレージで武器作ってくるんだっちゃ」
夜空の言う武器とは、スケルトンの棍棒を加工した投擲武器の事である。
彼は基本、投擲や遠距離武器を好んで使う習性がある。
棍棒は加工したところで、威力が極端に低くなることはなく、彼にとっては好都合だったのだ。
と、それに続くように柚がムニャムニャと口を開いた。
「……汗流して寝る」
そう言って、席をふらふらと立ちあがり、風呂場の方へと向かった。
「んじゃ、今日はここまで」
そこで好も席を立ちあがり、テーブルの上に散らばった紙のマップやタブレットを片付け始ようとした。
が、そこでかずっちが止めるように言った。
「好ちゃん、それは僕がやっておくからいいよ。それよりも柚にこれ持って行ってくれない?」
そう言って好に渡したのは、柚がテーブルの上に置き忘れたAR拡張端末だった。
この世界でスマホの次に普及したのがこの端末だった。
掌に納まる端末から、空気中に映し出されるディスプレイで簡単操作ができるようになった画期的な小型端末。
もはやスマホは前時代的なアイテムに成り下がっていた。
「ああ、分かった」
好はそうやれやれと呆れるような返事をして、端末を手に取り風呂場へと向かった。
そして、今。
彼の脳内ではあらゆる事象、確率、パターン、未来を予測していた。
柚が風呂に行くと言って、約45秒。
彼女の性格や日々の動作、先ほどの歩く速度や今日の疲労度などから、着脱するまでにかかる時間を逆算し、出た結果が約65秒。
残り20秒で風呂場の扉を開けば、タイミングは最高。
そこからの対応も脳内で全通りパターン化する。
柚が一度トイレに行っていた場合、服は半脱ぎ状態、言い訳はどうとでもなる。「もう入ってると思ってたわ」とか適当なこと言っておけば、柚は納得するはずだ。
そのままストレートで風呂場へ向かい、服を脱いだ場合。それは最高の結果を生むだろう。
予想よりも、急いで服を脱いでいた場合。柚は風呂に入るとき、バスタオルを体に巻く習慣がある、全てが見えなくとも好の満足する光景が見えることには間違いなかった。
その他のパターンもたった十秒の間に、全て予測し、パターンとして反射的に対応できるようにシミュレーションをしておく。
「成功確率99パーセント」
そう言った好の表情は、もはや誰にも読むことができないほどに洗練され、プランを遂行するエージェントのような雰囲気すら感じるほどだった。
ただ一つ、妹という名の超絶ブラコン少女が邪魔に入るケースが100パーセントという天文学的な確率を阻害していた。
彼女がいなければ、紳士諸君の考え得る最高のシチュエーションに出くわすこと間違いないのだが。
――残り3秒。
好は風呂場の取っ手にゆっくりと手を掛けた。
手汗で滑って失敗などありえないとばかりに、己の心拍数、緊張度をコントロールし、汗を自分の制御下に置く。
――残り2秒。
ゆっくりと扉を開け始める。
ここで動じてはならない。
あくまで偶然を装い、表情は変えずに淡々と。そして、一番重要なのはこの時だけは世界中で一番ラブコメの主人公をやっていると自覚すること。とくにラッキースケベを特技とする主人公を意識した行動を心がけること。
――残り1秒。
扉を完全に開き、瞳のシャッターを最高値に設定しておく。
ここで諸君に一つ、言葉を授けよう。
ラッキースケベとは、全ての事象をコントロール下に置いた者のみに許される禁断の果実であると。
そう、それは偶然の産物ではなく、己の力で生み出せる最高の結果なのだ。
――カウントゼロ。
好はこれでもかと脳内シャッターを切りまくった。
目の前にいるのは、紛れもない風呂に入る直前の姿の七季柚。
純白のバスタオルを体に巻き、ギュッと寄せられた豊かな谷間に、その麗しくピチピチな人類最高質の太ももが露になっていた。
そこで好は斜め下に視線を逸らす。
「……す、すまん。もう入ってるかと思ってた」
これがこのパターンでの最高の言い訳。
姿勢を低くし過ぎず、かといって上から物を言い過ぎず、柚という天然女性を言いくるめる最高の自己擁護。
と、ここまでは好の未来予測通りだった。
たった一パーセントの確率にも含まれていなかった、完全に予測外の自体が起こるとはさすがに鏑木好という人間にもできなかった。
ピンポーン。
「陸上自衛隊、須貝二等陸尉と申します。鏑木様二名、赤井様、七季様、家田様の捜索に参りました。ご在宅でしたら応答お願い致します」
それは予測外の事態。
だが、それがいい方向に向かうこともある。
ということを初めて知る、一つ年上の我儘ボディに魅了されている齢17の不登校生徒、鏑木好。
「えっ!? ちょっ!?」
好は小さくそんな声を上げながら、バスタオル一枚という天使の姿をした柚に手を引っ張られ、風呂場へと入る。
そして――。
水の張っていない浴槽に、たった二人、密着するように隠れた。
柚が好に覆いかぶさるように。
彼女の息遣いが耳元を優しく撫でてくる。
クッキーの甘い香りが鼻腔を通り抜けて、脳を刺激してくる。
その天然最高級の体がピッタリと密着するように、好の全てを刺激してくる。
それは――。
最高の結果を上回る、天元突破した結果を生み出した。