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電信柱の影踏んで

作者: 勅使河原ロク

蚊取り線香の匂いがした。もう夏なんだなと、ぼんやり思った。

アイリは夏があまり好きではないようだった。

「だいたい、暑すぎるんだっての。太陽が喧嘩売ってきてる」

「はいはい、太陽と喧嘩してどうすんのさ」

「負け戦じゃー」

「年貢の納め時じゃー」

「うちの娘はやめてー」

「・・・いつまで続くのさ」

「冷めるの早すぎだろー」

「夏は嫌い?」

たっぷり5秒フリーズしてから、「どうだろうね」アイリが答える。

「てっきり嫌いなんだと思ってた」

「カズヤは結論を急ぎ過ぎなんだよ」

少し拗ねたような声。僕はなんだか居た堪れなくなったので、

「・・・ごめん」謝っておくことにする。

 蚊取り線香の匂いがした。季節はどこまでも夏であった。遠くでひぐらしが鳴いている。電信柱一本一本の影が斜めに伸びている。アイリの髪が夕焼けで少し染まっていた。

「カズヤは?」突然尋ねられた声に一瞬反応できずにいると、

「カズヤは夏が好き?」追撃を食らった。

「・・・割と好きな方かな」

「ふーん・・・どこらへんが?」

「蚊取り線香の匂い」

「なんだそりゃ」

アイリが呆れた顔をする。

「蚊取り線香の匂いってさ、なんか、ばあちゃんの家みたいな感覚なんだよね」

「あー、それはなんとなくわかるかも。なんか懐かしいって感じかな」

ようやく同意を得られたようだった。

アイリが電信柱の影を踏みながら、こちらを振り返る。僕もそれに倣って電信柱の影を踏んでいく。僕たちはどこまでも夏の匂いを追いかけていく。

「・・・進路決まった?」

「うん、県外の大学に行くよ」

「そっかぁ、やりたいことあるんだったよね?」

「うん。カズヤは?」

「県内の大学」

「公立の?」

「うん」

「そっかぁ」

「うん」

「しばらく会えなくなるんだねぇ」

「気が早いよ、まだ秋も冬もある」

「あっという間だよ」

 アイリは器用に電信柱の影を踏んでいく。さっきチラッと見えた顔が寂しそうだったのは気のせいだろう。もし、寂しいと思ってくれていたら。そんな希望的観測を頭のなかで振り切って、アイリに声をかける。

「アイリはさ、器用だよね」

「急にどうしたの?」

「電信柱」

「・・・ああ、昔ね、小学校の時くらいかな、こうやって帰ってたから」

「これじゃ、いつまでもアイリに追いつけないな」

 くるくると、まるで蚊取り線香みたいに僕らの影踏みは続く。なんとなく、この距離感が僕とアイリの距離を示しているように思った。

「・・・追いつくの待ってるからね」

か細い、とてもアイリとは思えない声に、僕は聞き逃しそうになった。

「うん、待ってて」

アイリの背中に掛けた声が夕焼けに消えていく。僕もきっと上手く声が出せなかったはずだ。アイリの声が震えていたから。僕も思わず涙が出そうになるのを堪えていたから。

どうしようもないことに、見えてしまっている別れに、見えない現実に。抗えない僕達は子供だった。大人になることが寂しくなくなることなら、僕はこの寂しさを抱えたこどもでいようとさえ思った。アイリの背中が少し震えていた。

「そろそろ帰らないとね」その声は、少し鼻声で。

「そうだね」僕もまた、鼻声だ。

「あ」アイリが立ち止まった。

「うん」僕が頷く。

「「蚊取り線香の匂い」」

もうすぐ陽が落ちる。夏は続く。いずれは秋になる。秋が続いて冬になる。そうして春が来る。次の夏、きっと僕はアイリと一緒には居られないだろう。この夏がもう少し長く続けばいい、そう思ってしまう。きっとアイリもそう思ってくれている。今度は希望的観測ではなく、確かにそう思った。今この瞬間、アイリと僕はすべてが繋がっているような感覚さえしている。

一生に一度しかない夏を、一生に一度しか感じないこの蚊取り線香の匂いを、一生に一度しかない影踏みをして、僕はアイリと一緒に進んでいく。

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