#7 エピローグ (2)
「で、どうして突然ニューヨーク? あんまり急だったから…スケジュールとか、大変だったんじゃない?」
逸さんがアナウンスにちょっと焦ったみたいに話を元に戻す。
確かにスケジュール調整は大変だった。だけど思いのほかスルスルと事が運んで…まさか年内に決まるとは全く思ってもみなかった。…今思えば…それもこれも全部、真咲の計らいだったのかもしれない。きっと、真咲ならやる。あたしのために…それを可能とするお金を動かすことくらい、小林家なら造作ない。
「…歌うのが好き、って皆さんの前ではっきりと声にしてから…思ったんです。本格的に、歌の勉強がしたいなぁ、って…。今のままじゃ、やっぱりどうしても小林家の枠の中で“歌わされている”ような気がして…。ちゃんと勉強して、一からやり直したいと思った。思い切って、清水さんに…マネージャーにそう言ってみたの。駄目モトだったんだけど…しばらくしたら、社長がオッケー出したから、行ってきていいよって。留学先も決まったからって。ビックリしたけど…こんなチャンスもう二度とこないと思って、発つことにしました。」
今話していて、やっぱりこれは真咲が動いていたからこんなにスムーズだったんだと、改めて確信する。あたしの仕事の予定…一年先くらい余裕でとっくに埋まってたはずだ。
「さすが真咲…。無茶するなぁ…。でも、それだけ香居ちゃんの役に立ちたいんだな。」
「きっとね。香居ちゃんのしたいことを応援したいって、そういう気持ちからしたことだろ? おれたちのことだって、元々は香居ちゃんの望みを叶えたいって始めたんだし。」
逸さんと大石さんが言う。二人とも、ううん四人ともあたしがすんなり留学できたこと、何も言ってないのに真咲がしたことだと確信している。まるでそれが当たり前のように。
真咲…もういいのに。あたしのためを思うなら…もう、何もしなくてもいい。
目から涙が溢れ出すのがわかる。きゅっと奥歯を噛み締めて、目を閉じる。
…そうだ。泣いてるだけじゃ駄目だ。ちゃんとその気持ちは…自分の思いは…、真咲に伝えなきゃ。真咲がわかってくれるまで、何度でも。自分で…伝えなきゃ。
再び搭乗を促すのアナウンスが流れる。タイムリミットが近付いている。
「香居ちゃん、この前渡したメアドの紙、持ってる?」
逸さんが突然あたしに問う。あたしは涙を振り切るように大急ぎで頷く。あれからあのメモは…あたしにとって、宝物だから。いつも、肌身離さず持ち歩いている。あたしはショルダーの内ポケットからちょっとボロくなった紙片を取り出す。
「あ、持っててくれたんだ。よかった。全然メールとかないから、もう捨てちゃったかと思った。」
「そんなことっっ!!!」
ぶんぶんぶん、と慌てて頭を左右に振る。そんなあたしを見て逸さんは笑う。
「今度は保存版。ここにいる四人分、みんな載ってる。いつでもみんな、香居ちゃんからのメール、待ってるから。」
そう言ってまた、あたしの手の中に、前回よりも、ちょっと大きめな紙片を、ぎゅっと握らせる。
「女の子同士の話はあたしが担当ね。」
にっこり、栄子さんが笑う。…そういえば、あたし同世代の女友達って…いないんだ。っていうか女の子だけじゃなく、同性も異性も、友達なんて今まで一人もいなかった。
「…嬉しい。あたし…友達いなかったから…。向こうに着いたら、すぐに皆さんにメールします。」
涙を拭ってそう言うと、皆さんも嬉しそうにうんうん、と頷いてくれた。
…またアナウンスが流れる。もうこれ以上、ここにいることはできない。あたしは思い切って笑顔を作って、別れを告げる。
「じゃ、あたし行きます。」
「うん、いってらっしゃい!」
「絶対メールちょうだいね。」
「はなれていても、つきのかがみがうつしだすから! ってーかメールのほうが早いって!」
「うわ、それはちょっとなんかクサくねぇ?」
くすくす笑いながら、あたしは四人の新しい友達に、手を振ってから、背を向けて歩き出す。誰一人、さよならなんて言わない。そりゃそうよね、さよならなんかじゃないもの。
あたしの、…鞘根虹香じゃなく、小林香居の、新しい旅立ち。
それにふさわしい、青い、青い、この上なく青い、澄んだ空…。そして月は、うっすらと、少し欠けた状態で、その青空に浮かんでいる。
今日も、月はあたしを見ている。
そのことが、初めて心強く思えた。
「はぁぁ…行っちゃったぁ。」
「ってーか律、絶対香居ちゃんに男だって思われたまんまだよね。栄子ちゃんのこと律の彼女だと思っただろうなぁ…。」
「だって特に女ですって主張することもないだろ? 不自然じゃん。」
「律のこと女だってわかるほうが不自然。あ! なんならあのワンピで来たかった? 律の女装、逸くん気に入ってたもんねぇ。」
「うんうん♪ あれは絶品だったなぁ…。つーか、女装って言ってる時点でアウトじゃね?」
「…だいたい栄子、お前なんでついて来たんだよ! わざわざ学校サボって!!!」
「えぇ〜? あぁっっ律! あそこのベーグル美味しいんだよぉ? 食べて帰ろうよ♪」
「…栄子ちゃんのほんとの目的って…ベーグル…???」
離陸した飛行機を見送った後も相変わらずな四人の頭上にも、彼女が見ている青い空は、延々と、ニューヨークまで、続いている…。
鞘根虹香帰国のニュースは、それから四年後。
まだまだ先の、ちょっと遠い未来である。
でもその時も、月は彼女を、彼女たちを、そしてすべてを、静かに、映している。
= 完 =