#0 プロローグ (3)
彼らに視線を戻した頃、次の駅に着いた。彼女たちは電車を降りる。彼に手を振って、背を向ける。彼はそのまま、彼女たちに手を振って電車の中に残っている。…あれ? 一緒に、降りないんだ。
その時、かすかに聞き慣れた音楽が聞こえた。携帯の着メロ用にアレンジされた、鞘根虹香の新曲…この車両に嫌なくらい並んでいる携帯電話会社の広告の、CM曲だ。
慌ててポケットに手を突っ込む彼。鳴っている携帯は、彼のもののようだ。
あたしは彼が鞘根虹香の曲を携帯の呼び出しに使っていることに驚く。驚くっていうか、意外っていうか、不愉快とまではいかないけどそれに似た、変な気分。そんなあたしには当然気付くはずもなく、彼は電話に出る。
声は相変わらずあたしの耳には届かない。だけど、彼はまた笑っている。…かっこいい、というより、綺麗な笑顔…。
すると彼が突然車両の連結部分にくるりと向きを換えた。あたしもつられて彼の視線を追う。
…また、女の子たち。今度は、制服じゃないからわかんないけど、やっぱり高校生くらいかな。三人のうちの一人が携帯を片手に彼に駆け寄る。どうやら彼の電話の相手は彼女だったらしい。さっきの子たち同様、彼は彼女たちに笑顔をふりまいて、また楽しそうに話を始める。
…だんだん腹が立ってきた。
あの日、月の光の下であたしに微笑みかけてくれた彼と、今そこで女の子たちと盛り上がってる彼…五年の月日があるとはいえ、あまりにもイメージが違いすぎる。あんなに軽い感じの人じゃなかったと思うんだけど…。あの人、ほんとにあたしが昔出逢った彼? 人違いかも。
そう思って見てみるけど、見れば見るほど、相違点どころか、間違いないって確信すら出てくる。絶対あの笑顔を見間違うことはない。あのきらきらした表情…他人と見間違うわけなんか、ない。間違いなく、あの夜あたしと出逢った、あの人だ。
…また次の駅が近づいてきた。だんだん速度を落とし、ガッタン、と大きな揺れを起こして電車は止まる。空気の抜けるような音がして、ドアが開く。
彼は彼女たちと電車を降りる。わいわいと、会話を続けながら。
思わずあたしも席を立つ。彼を、追いかけようと無意識に体が動く。
ぴるるるる、ぴるるるる、ぴるるるる…。
立ち上がった瞬間、あたしの行動を静止するかのように、バッグの中の携帯が鳴った。慌ててバッグの中を探る。そんなことしてるうちに、ドアは閉まる。彼を見失ってしまう。今追いかけなきゃ、もう二度と、彼に会えないかもしれない。追いかけたいのに。
あたしの気持ちを無視するように鳴り続ける携帯。掛けてきている人の名前を見て、諦めて、ゆっくりと、通話ボタンを押す。
『あ、香居。僕だけど。』
…懐かしい、耳障りのいい声が聞こえてくる。でも、同時にあたしの胸はきりりと嫌な痛み方をする。…懐かしいはずなのに…いや、懐かしいからこそ、かも知れない、できることなら聞きたくないその声は、あたしの返事を待たずに続けた。
『この前のこと、考えてくれた?』
…この前の、こと…。あたしは閉まった電車のドアにもたれかかって遠くを見る。…月の位置が、次第に高くなっている。しばらくあたしが無言でいると、受話器の向こうの声はまた続ける。
『香居にとって、悪い話じゃないと思うけど? あ、もしかして僕が約束破っちゃうかもなんて心配してる? そんな心配ならいらないってば。香居は僕にとって大事な人なんだから、そんなことするわけないでしょ?』
クスクス…と笑い声。だけどあたしの表情は固まったまま。
返事を、しなきゃ。そう思って言葉を捜す。短く嘆息して目を上げると、ドアの上にある張り広告の鞘根虹香と目があった。
…鞘根、虹香、…か。
そう口の中で呟いてから、あたしは初めて声を出す。
「…じゃぁ…、ひとつだけ…。」
月は、晧々と、街を、そしてあたしを、照らしていた…。