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第Ⅱ章 風砂の胎動(2)

 宿の親父が、無骨な手に収まった木盃を差し出す。

「ほら兄ちゃん、コイツを飲みな」

 覗き込むと、中で揺れているのは香り高い酒ではなく、無色透明な液体だ。

「これは?」

 店内は夕食どきで込み合っており、空いている席を見つけるのにもひと苦労だった。棚にずらりと並べられた各地の名酒を客に出すカウンター席。運良く空いていたそこに落ち着いたのもつかの間、差し出されたものをじっと見つめて黒髪の青年――アーツがいぶかしげに問う。親父はそれを予測していたかのように笑った。

「酒だと思ったかい? ここに初めて来るやつはみんなそういう顔をするんだ。残念だが酒じゃねぇ、水だ」

「水?」

「そうとも。この街にはじめて入った人間に出す酒なんてウチにはねぇよ」

 王都イエンスを発って5日が過ぎた。

 大陸街道を西に進む乗合馬車は、<大陸の脊梁>と呼ばれる峰々の麓にある高原地帯にさしかかっていた。ゆったりと高度に慣れながら進む馬車は、旅行者の一般的な交通手段であり、乗馬の心得のない者を慮って選択したものだった。

 西へ西へと進みつつ、平時見ることの殆ど無い高原の風景を堪能し、現地はこの何十倍と暑いのだろうと思いをめぐらせて今日も穏やかに日が暮れようとしている。

 高原地帯にあってその名を知られた街ジーンブルグで夕暮れを迎えた一行は、馬車を運行している商社に誼の宿を紹介してもらい、そこで夜を明かすことに決めた。しかし空腹を満たそうと席に着くや、手厳しい洗礼を受けて動きが止まっているアーツに、宿の親父兼酒場の店主は慌ててかぶりを振った。

「誤解せんでくれよ。旅人にくれてやる酒はない、と意地悪で言っとるんじゃないんだ。高地に入ったばかりの人間は高山病にかかりやすい。ちゃぁんと水を飲んでおかなきゃならん。いくら慣らしながら登ってきたとはいえ、用心せんと後が大変だからな」

 ああ、と今度は納得する。高地の特性を知っている主人の、旅人への気遣いだったのだ。右隣に座っていたウィラードが、にやりと笑って肩に手を回してくる。

「解ったんならよく味わって飲んどけよ。急にがぶがぶ飲んだって逆効果だからな」

「おう、兄ちゃんよく知ってるネェ」

「仕事柄高地に登ることも結構あるんでね」

 そう言って早速料理を注文する彼に、アーツは声をひそめた。

「知ってるなら教えてくれてもいいだろ」

「高地のことは高地の人間に聞くのが一番。俺の忠告なんかよりよっぽど実感があるだろうが」

「そうだね。身体で覚えた経験の方がより沁みる。ウィラードの言うとおりだよ」

 左隣に座っていたナタリフが、塩の入った瓶を手にして言う。

「君も知ってたのか」

「一応ね。でも僕のは所詮書物の上での知識だから、ご店主の言葉に重きを置くよ」

 目の前に湯気を立てる芋が運ばれてくると、首に巻いていた使い魔のフェレットを膝に下ろし、挑みかかるようにナイフとフォークを取る。アーツは手にした盃の水をしばし見つめて、それからひとくち含んだ。湧き水だろうかよく冷えかすかに発泡したそれは、じんわりと体に染み入っていくようで心地よい。ふと口の中に酸味と草の香りが残った気がして、思わず隣のウィラードを見る。

「で、そいつの正体はコレだ」

 その反応を待っていたかのように、腰の袋から何かを取り出して見せた。

「コイツはな、口の中に入れて噛むと空気を出すのさ。高山病にかかったときにはコイツを使う。この葉を水に浸して養分を抽出すれば高山病の予防薬にもなるってわけだ」

 指に挟んだ緑色の厚い木の葉をしまい、運ばれてきた炙り肉に視線を移す。アーツは感心したように彼を見つめ、それから少し情けなさそうな表情を見せた。

「どうしたんだよ」

「いや、事前に調べたつもりだったんだけどね」

 苦笑した彼に、小さく切った芋をフェレットに分け与えながらナタリフが言う。

「予習とは流石だね。でも僕等の存在意義まで消してしまわないでおくれよ。そういうときのための僕たちなんだし、そんなときしか威張れないんだからさ」

 ナタリフの言葉にウィラードも肉をほおばりながらもっともだ、と言った顔を見せる。少し表情を和らげ、アーツは運ばれてきた料理にフォークを手に取った。

「珍しいね、君がそんな口調でものを言うなんて」

 なにげなくかけられた言葉にぎくりとする。

「そうかな。いつもと同じだと思うけど」

「自覚がなくとも他人が気付くこともある。一体何を自分に課しているんだい」

 まるで呪文で心を読んだかのように核心を突かれてさらに驚く。

「確かにな。お前の向上心にゃ頭が下がるが、焦ったところで今すぐに理想の自分になれるとは限らねぇんだぜ。ひとつひとつ越えていくしかねぇんだから、今ここで自ら足元をすくうような真似はよしとけよ」

 どうやらウィラードも気付いていたらしい。流石と言うべきか、二人の年長者の間に座ってアーツはフォークを置くとその右手を見つめた。

「最近、思うところがあってね」

 浮かんだ苦悩に、何があったのだとナタリフが問おうとした瞬間、酒場の二階席から絹を裂く悲鳴が上がった。


*******


 街でも大きい部類に入るこの酒場は、吹き抜けの二階席まであり夜は多くの人々が集ってくる。当然中には荒くれもおり、ちょっとした諍いなどは日常茶飯事だった。

「折角の一張羅が台無しだろうが! どうしてくれんだぁ?」

「へ、そんな貧乏くせぇ一張羅がどこにあるってンだ」

「んだと! 飛び込んできたのはそっちだろうが! 服代に酒代も、まとめて一緒に払いやがれ!」

 そうして今夜も始まった酔っ払いの喧嘩。それは周りの客にも飛び火し、まったく関係のないもの同士が八つ当たりにも似た殴り合いを始め、騒ぎはますます大きくなった。

「いかんな」

 流石に危機感を感じてカガンが立ち上がる。すぐ側ではテーブルの上の酒盃が倒れ、殴られた男が倒れこんだ別のテーブルは料理も何もかもが滅茶苦茶だ。胸倉を引き掴んでは顔を殴り、椅子に登っては蹴りつける大乱闘に、巻き込まれるのは御免だと多くの人々が階段に殺到し下階に向かう。

「邪魔だ! このガキっ」

 人込みの中、二階席の桟の近くに座っていた10歳ぐらいの少年が、前を通った太った男に突き飛ばされて大きくよろめいた。床にこぼれた酒に足を滑らせ大きく体が傾く。

「危ない!」

 カガンに促され立ち上がったシリアが思わず叫ぶ。すぐさま駆け寄ったが間に合わない。小さな身体は桟を乗り越えて均衡を崩したまま落ちてゆく。カウンターからその様子を見ていたアーツは、とっさに落下地点へと走った。

 どさりとその身体を受け止め「大丈夫か」と問うと、少年は閉じていた目を開けひとつだけ頷いた。床に立たせたあとで二階席を見上げると、ほっとした顔のシリアの後ろでキリムとカガンが喧嘩に巻き込まれていた。キリムの長い足が荒くれ男を次々となぎ倒すさまに、二階席の一角ではやんやの歓声が上がっている。カガンはカガンで、堅固な拳を容赦なく叩き込んでいた。

 加勢すべきか否か、シリアが一瞬迷ったそのとき、

「シリア!」

 階下のアーツの叫びに背後の気配に気づく。そこにはいつの間にか男が立っており、いけないと思った瞬間腕を制され顎を掴まれた。

「こんな薄汚い酒場に絶世の美女がいるとはねぇ。どうだい、俺と一杯やらないか」

 下卑た酒臭い声に毅然とした目を向ける。そんな抵抗すらも愉しんでいるかのような薄ら笑いに、総毛立ったそのときだ。

「その薄汚い手を離せ」

 突然響いた声。低く冷たいそれに、シリアを捕まえていた男は不愉快そうに後ろを振り返る。

 そこに立っていたのは見知らぬ青年だった。新雪のように真っ白な髪に、燃える紅玉色の瞳。細身に不思議な模様の衣服を纏い、橙色の腰帯を結んでいる。

「おうおう、なんだい兄ちゃん、俺に言いたいことでもあんのかい?」

 男はシリアの手首を掴んだままで青年に向き直った。にやにやとした笑いは、違いすぎる体格ゆえの自信だろう。細身の彼に、張り合えるだけの腕力があるとは到底思えない。

「貴様ごときが、その方にやすやすと触れられると思うな」

 が青年はなおも冷たく言葉を重ねてきた。男は青筋を立てながらも、最後の余裕を見せるかのように無理矢理笑顔を作ってみせる。

「兄ちゃん言ってくれるねぇ。でもよ、怪我しねぇうちに頭を下げた方が利口だぜ」

「離せ、と言ったはずだ。貴様風情が、穢れた手でその方に触れられるなどと思い上がるな」

「っんだとこのガキが!」

 男はいきり立つやシリアから手を離して踊りかかる。岩のような拳が振り上げられるが、青年はまったく表情を変えることなくそれをいなし、逆に手首を左手でがっちりと掴んだ。

「な」

 そうして次の瞬間には男の巨体がふわりと中に浮き、派手な音を立てて階段をころげ落ちていく。大きな丸太が転がり落ちるような音に、階下で傍観していたアーツは我に返り、落ちた男の傍へ駆け寄ろうとした。が、階段をゆったりと下りてきた青年の冷たい殺気に動きを止める。出迎えられた形の彼は、通りすがりにちらと視線をこちらへ走らせたが、すぐに何事も無かったように無表情のまま男の傍に立った。

「あの方を愚弄するなど、分を弁えず琴線に触れた己の所業を悔いるがいい」

 冷たく見据え言い放った彼は、男の右手を掴むと迷いもなくねじり上げた。呻き痛みに歪んだ表情にも容赦することなく、さらにきつくねじり上げていく。

「やめて!」

 シリアが思わず二階から叫ぶ。ぐきり、と嫌な音が響くだろうと思われた瞬間、その腕をアーツが掴んだ。

「いくらなんでもちょっとやりすぎじゃないのか。たかだか酔っ払いのケンカだ。もうそのくらいでいいだろう」

 咎める視線に、青年は表情を変えぬまま男の腕を解放する。もう少しであらぬ方向に向いていただろう手首を押さえ、男は恐怖に顔を引きつらせて呻いた。

「あなたも、そうしたかったのではないのか」

 いったい何が不満なのだと言いたげな顔に、アーツは先ほどとは別の怒りをたたえて諭す。

「制裁にも限度はある。必要以上に傷つけることはないだろう。それは行き過ぎた行為だ」

 それでも彼は理解できないとでもいいたげな表情を見せ、制された腕を見て眉間に小さな皺を寄せた。

「離せ」

 次の瞬間殺気が漲り手がふりほどかれる。と手首を取られそうになった。アーツはすかさず青年の背後に回りこみ、脇から腕を差し入れ右腕を背中側に引き込み、同時に左腕の手首も押さえこむ。しっかりと上半身の動きを封じた後、動かぬ表情の彼にひそりと小声で忠告した。

「このまま神殿に突き出すこともできるが、君はシリアを助けてくれた人だ。酒場の喧嘩だと思って今回は見逃そう。けれども次に同じことを目にしたならば、ヴェルジの教義をもって君を捕縛する」

 そうして手を離すと青年の殺気が消えた。解かれた腕を二、三度振って血流を促し、振り返ってこちらをを見つめてくる。がそれも一瞬のこと、直ぐに踵を返して酒場を後にし部屋のある別棟へと姿を消した。

 その背を送った後、アーツは静かになった二階席を見上げた。シリアのそばにはキリムとカガンが立っていて、その後ろには酔っ払いたちののびただらしない体が累々と積まれていた。食後の腹ごなしに満足したのか、先ほどウィラードが持っていたのと同じ葉を噛みながらキリムが叫ぶ。

「こっちはカタがついたわよ! ねぇおじさん、そういうわけだから今晩の皆の食事代はこいつらにツケてよね!」

 その台詞にどっと笑いが起こる。強いと聞いていたがこれほどまでとはと苦笑しつつ、カウンターにいるはずのナタリフを振り返る。

「やれやれ、お転婆が過ぎるねぇ。あのままだと本当に行き遅れるんじゃないの」

 当の彼はいつの間にか隣に立っていて、彼女が噛んでいる葉と同じものを差し出してきた。それから小さく呪文を唱えたかと思うと、手にしていた杖の先を転げ落ちてきた男の頭にかざす。ふわりと魔力の揺らぎが感じられた次の瞬間男は深い眠りに落ちていた。

「お仕置きは随分厳しかったようだけど、こいつも同罪だからね。一緒に引き渡さないと」

 そういえばウィラードの姿が見えない。おそらくヴェルジ神殿に走ったのだろう。

「彼は何者なんだ」

 アーツは渡された葉をちぎって噛みながら呟いた。あの白髪の青年は、明らかに常人とは別の意識の持ち主だった。シリアを助けた一方で、男を本気で殺そうとしていた。それだけにとどまらず、最後には自分にもその殺気を向けてきた。

「今はまだなんとも言えないな。でもまたすぐに会えるだろうし、急ぐことはないんじゃないかい?」

「また?」

 ナタリフは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

「いずれわかるよ。少なくとも、今夜はこれ以上何も進展しないだろうしね」

 達観したような言葉を首を傾げつつ受け止め、それからアーツはちらと酒場の片隅に視線を走らせた。

 そこに座っている黒い長衣に身を包んだ人物。目深にフードをかぶっているため、その表情は窺えない。

 が、そこに流れていたのは、騒動をものともしない至極ゆったりとした空気だった。


*******


「まんまと誘い出されるなんて、お前らしくもない失態じゃないか」

 少し高めの若い男の声が響く。同じくして含み笑いに肩を小刻みに揺らしている気配が感じられた。天に浮かぶ太陽の名残――淡い月光のほかには明かりのない部屋の中で、二人の人物が影に埋もれるようにして対峙していた。

「あの方の命以外の事象はすべて無視、傍観を貫いてきたって言うのに、ここにきて自分から罠に踏み込むなんて、まったくらしくないことをしたもんだねぇ」

 言葉には皮肉と共に「どうしてくれる」となじる声色も同居していた。

「まぁいいさ。別段計画には影響もないし。けど次からはもっと慎重にしてくれよ、お目付けさん」

「貴様に言われずとも分かっている」

 白髪の青年のにべもないさまに肩をすくめつつ、窓から入り込む月明かりに向かって動く。光の帯の中にさらされた姿――顔の横に張り出した長い耳に細い体躯。それは世界の創造と共に歴史が始まり、そして進化し続け、ある到達点に至ってからは輪廻に身をゆだねた森の種族のそれであった。

「私は従者。あの方の思うがままに私は動く。他の誰の指図も受けん」

 背中に届いたその言葉に、呆れたように尖った耳の先が少し下がる。

 分かっていたことだ。この男はあの方以外の誰にも従う気などない。自分を仲間などとは露ほども思ってはいない。それでよいのだ。自分の妨げにさえならなければ。こちらも彼をそのように思ったことなどついぞないのだから。

 親愛も友愛も持ち合わせてはいない。けれども進むべき先を一にする両者にただひとつ共通しているもの。

 それは、奥深い闇のうちに潜む揺ぎない忠誠だった。

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