第Ⅱ章 風砂の胎動(1)
シリアは立っていた。
どこまでも際限なく深い闇の中に。無限の広がりを見せる空虚の中に。
祈りの儀式の際に身につける白い衣服と装飾具を纏い、けれど靴だけは履いておらず、素足のままで感じる地面は水面のように滑らかでひんやりとしていた。
ふと隣に気配を感じ、そちらに目を向け驚愕した。
見開いた瞳に映った青い髪。そしてその横顔は、まるで合わせ鏡かと思うほど自分に似ていた。体躯もまた酷似していたが、ただ一箇所異なっていたのは細い身体に纏った白い鎧であった。
じっと佇みたゆまぬ彼女の視線にシリアも倣う。するとその先には黒い長衣に身を包んだ人物がいた。深くかぶった漆黒のフードの下、まるで死人の如くに白い皮膚に紅い唇が一筋の線を描いている。黒く巨大な石を磨いて造られた玉座に気だるそうに腰掛けているさまは、まるで周りの闇に溶け込んでいるかのように見えた。
「貴方は誰」
声に出して問う。すると長衣の人物が顔を上げた。ゆっくりと闇から這い出るようなその動きに、生命の息づく力をかすかに感じてシリアは続けた。
「なぜ、ここにいるの」
けれども長衣の人物はそれに答えず、歯が見えるほどに唇をめくり上げただけだった。しかしそこにあったのはただ身体を覆うものと同じ深さの闇。人の様相とかけ離れたそれを目の当たりにし、シリアは嫌悪感に身体を震わせた。次々と恐怖が押し寄せ、まるで波に翻弄される砂のごときに頼りなげな自身に、シリアは払拭の活路を見出すべく、ぎゅっと目を瞑ると彼の面影を必死に思い浮かべた。
やがて身体の中心に穏やかなぬくもりを放つ光を見出し、規則正しい脈動が震えに打ち勝つと、固く閉じていた瞳をゆっくりと開く。
するとそこには燃え盛る国があった。
眼下に広がる街並みのいたるところから炎が上がり、その飛沫が風に乗って頬を焼く。渦巻く熱風の間を縫う人々の悲憤と怒号がここ――小高い丘の上まで届く。その央にある壮麗な城は業火を照り返し、まるで血に濡れたように紅く染まっていた。
『さぁ、参りましょう』
突然傍らから声がして、シリアはそちらに視線を向けた。
『早々に逃れませんと、追っ手がかかります』
いつの間にか集まっていた人々。発せられる声はまるで水の中で聞いているようにくぐもって響く。しかしながら声に現れた危機感と共に、高貴な身分の誰かを諭しているらしいということは判別できた。焦燥と不安の入り混じる雰囲気の中、シリアは目の前に立つ男性の向こう側にいる人物に目を凝らした。
護衛たる人々の中心にいたのは、まだ年端もいかない少年であった。白い衣装の裾や袖口には煤と土それに血がこびりついていて、干戈の中をくぐってきたことが容易に見て取れる。その上に目立たない朽ち葉色のマントを羽織り、頭に同じ色の布を巻いた後姿。シリアにはなぜか、その背中が泣いているように見えた。
『今は生き延びることです。国の光を失っては我らの生きる糧はないのですから』
別の女性が必死に訴えかけたそのとき、突然茂みの奥から奇声を上げて魔物が現れた。振りかざした鈍色の刃が炎の光を映して赤く弧を描く。ぎゃぁと筆舌し難い声を上げて、少年の傍にいた一人が胴を切り離された。まるで木を伐るように横なぎにされ、生気を失った上半身が彼の足元に転がる。しぶいた血をまともに浴びただろうに、彼は動じることなく腰に履いた剣をすらりと抜き放つと、眼前に至った魔物の醜い体を見据えた。
しかしぎゃっぎゃっと高笑いを上げた魔物は、次の瞬間、背後に回りこんだ護衛の一人にその首を落とされた。
『お急ぎください! 我々のために、この国のために、殿下は生き延びなければならないのです!』
言葉に打たれ剣身を鞘におさめた少年は、足元に転がった魔物の首をしばし見つめ、そしてもう一度赤く染まった街並みを臨んだ。
『…………』
微かなつぶやきはシリアの耳には届かなかった。けれども強い意志を秘めた誓いであろうことだけは分かった。
少年は轟と吹く戦の風に、浴びた血が乾き始めたマントを翻すと、シリアの横を颯爽と駆け抜けていく。その一歩を踏み出した横顔に、シリアははっと心臓を鷲づかみにされたような気がした。
決意を湛えた瞳は、歪んだ炎に照らされてもなお本来の鳶色を失うことはなかった。