第Ⅰ章 さだましもの、煽つ風(4)
数日後、騎士団総団長執務室にてアーツに対する辞令が交付された。
大鷲の眼、獅子の心
リシリタ王国 国王セロルース・クルスグルーヴの名に於いて
鷲の翼持ちたる 王国騎士団第一士団 士団長 アーツ・ラクティノース
かの者にカマラン特別領区調査隊、隊長を命ずる
羊皮紙に国王の直筆と、王国の紋章が刻印されている正式なものだ。これがそのまま特権発給書となり、ありとあらゆる場にその力を波及することになる。
拝命した以上はなるべく早くに出立しなければならない。発令の儀の後、ザイガンが言った。
「すぐに隊員と顔合わせをするぞ。鎧を脱いだら第八詰所に来い」
一旦執務室に戻り儀礼用の鎧を脱ぐと、アーツは略式の鎧をいつものように身に着けた。第八詰所は王城の西棟の一角にあり、東棟のここからは結構な距離がある。石造りの回廊を無言で進み、しばらくすると突き当たりを右に折れて王城正面の玄関ホールに入った。何本もの太い柱に支えられ天井が高く作られたそこは、さながら中神殿の礼拝堂といった風格でやってきたものを圧倒する。外への出入口から謁見の間まで引かれた真紅の絨毯に足を踏み出したまさにそのとき、アーツは身の毛の逆立つような気配を感じて立ち止まった。
「おお、そこにおるのはアーツ・ラクティノースではないか」
朗々とした声で名を呼ばれ自分の右手――正面階段を見やる。謁見の間の前で左右に分かれ上階まで続くそこを、ゆっくりと下りてくる一人の男がいた。
ぴったりと後ろに撫で付けた髪には白髪がちらほらと見え隠れしているが、その身体から発せられている雰囲気は、五十近い年齢を感じさせない。襟と袖口に金糸の装飾が施された濃い紫の衣服は、国王セロルースに似た風貌に鋭く輝く瞳と同じ色をしていた。
「紫紺の雷帝」
アーツはごく小さく彼の二つ名をつぶやき、警戒しつつ腰に佩いた剣の柄尻に手を添えて頭を下げた。
「ご無沙汰しております。ランダル殿下」
「いや、堅苦しい挨拶は無用だ。しばらく会わんうちに一層逞しくなったのではないかな?」
そう言いながら国王の妾腹の弟は目前に至った。
「顔つきがさらに精悍さを増しておるように思うが、騎士団任務はどうかね?」
「はい、おかげさまをもちましてつつがなく遂行しております」
ふむ、とランダルは顎鬚をさする。
「遂行はもとより完遂せしめよ、油断なきよう当たってくれたまえ」
恐れ入ります、と軽く頭を下げる。結構結構としばし人のよさそうな笑顔を見せていたランダルだったが、ふと思い出したようにこちらを伺ってきた。
「ときにラクティノース、先ほど兄上から聞いたのだが、そなた珍しく遠出をするそうだな」
「はい。本日総団長よりカマランの視察をおおせつかりました」
「そうか。確かにこんな薄暗い王城に日がな一日篭っていたのでは、いつか尻に黴が生えような。しかしそなたのような要職にあるものが珍しいことだ」
そういう紫電の瞳には油断ない光が宿っている。今回の一件には何か裏があろうと探りを入れる目だ。
「厳しい冬の緊張から解かれ、陛下もしばしゆるりとされる気になられたのでしょう。もとより私のような若輩が常々監視せずとも、長上のもと、そう簡単に安寧は揺らぎませんでしょうし。殿下のお力添えがあればそれは尚更、鬼に金棒でございます」
「まぁよい、砂漠地方は不穏な輩が多いと聞いている。そなたがどうこうされるような事態はあるまいが、油断すまいぞ」
その瞳に一瞬垣間見えた暗い光をアーツは見逃さなかった。けれどもそれに気付いたことを悟らせることなく、軽い笑みを浮かべて再び頭を下げる。
「お言葉、痛み入ります」
「うむ。ヴァティールともども土産話を楽しみにしておるぞ。帰還の折には是非聞かせてくれ」
国王の嫡子であり、国の第二位王位継承権を持つ甥っ子の名を出して、彼は東棟への回廊を歩きだした。その先にはアーツが使う第一士団長の執務室があり、さらには奥に続いて北東に位置する王族の居城まで至る。背を送り内心ほっと胸をなでおろしたアーツだったが、ふと立ち止まったランダルが「おおそうだ」と呟き、こちらを振り返ったため再び緊張を取り返す。
「何か」
「いや、先ほどザイガンの部屋の前を通りがかったときにな、アス・ノーマとすれ違ったのだよ」
「シリアが?」
怪訝な表情に、ランダルは続ける。
「確か今日は『祈りの務め』はなかったと思うが。なるほど、そうだな。こんないい陽気なのだ、私もそなたらのように逢引きでもしたいものよ」
からかうような言葉とは裏腹に瞳は一片も笑っていない。最後ににやりと口元をゆがめ、彼はマントを翻して去っていった。
廊下の角に消えた紫の姿に、アーツは意趣返しのつもりかと苦々しい思いに駆られた。そうして自分を通してザイガンへ牽制をかけたのだろうと思い至る。
ザイガンは外交を施策の基幹と位置づける『親外派』の一員であったが、王室の人々からの信頼を後ろ盾に、早くから第一王子サフィールに近づいていた。対して内政に重きを置く『古典派』は、王権争いへの出遅れ感を拭いきれぬままサフィールの簒奪を諦め、第二王子であるヴァティールとその背後のランダルに誼を通ずるようになった。ヴァティールは見識高い兄と比べるといささか凡庸で、そこが逆に古典派の思惑の現われなのだろうが、今のところ国王であるセロルースが両派を抑止しているため表立った争い事は起こっていない。
そんな中、自分はザイガンによってサフィールと引き合わされ、事実上親外派としての名乗りを上げたことになっている。しかしその意向に賛同し続けられるかどうかは定かではない。
城の中に渦巻く思惑――彼女がそれに巻き込まれかかっているのではないかと危惧し眉を寄せる。
「一体何を」
師の思惑を量りかね、アーツは密かな反感を抱かずにはおられなかった。
*******
第八詰所のある西棟に近づくにつれ、廊下ですれ違う団員の数も減ってきていた。どうやらザイガンが人払いでもしたようで、詰所に入る頃には辺りに人の気配すらなくなっていた。
この部屋は一班隊30名ほどが入れる広さだが、四隅に申し訳程度の待機用毛布が置いてあるだけで机も家具もない。どうやら自分が一番乗りらしく、拍子抜けしながらもアーツは待つことにした。
小さな窓が並んだ部屋の南側に寄って外を窺うと、真下の闘技場の様子が見えた。見習い隊員達が不慣れな様子で剣を扱うさまを、自分の同じ頃を思い出してしばしの感慨に浸る。
「あれ、アーツじゃないか」
突然背後からかけられた声に驚いて振り返る。見れば扉のない入り口からひょいと顔を覗かせた青年がいた。草色の長衣ローブに、手にしたいびつな形の杖。見るからに魔術師の様相の彼は、茶色の髪をぽりぽりと掻きながら困った顔をして歩み寄ってきた。
「ナタリフ! どうしてこんなところにいるんだ」
「どうしても何も、僕はザイガン様から呼び出しを受けてここに来たんだ。なるほど、君も絡んでいるのか。これはうまくはめられたかな」
ちらと悔しそうな表情を覗かせ、彼――《収集家》のナタリフは小さくため息をついた。
「はめられたって、何か知ってるのか?」
「いいやまったく。ただ士団長が絡むような話となれば、なんとなく察しがつくというものだよ」
彼は王国術師団に正式に所属しているわけではなく、『予備隊』と呼ばれる日々雇い上げで徴用される非常勤隊士であった。覚悟を決めると言いながらなんとなく落ち着かない様子に、アーツはいぶかしげに問う。
「どうしたんだ?」
「嫌な予感がするな。君が一枚噛んでるうえに僕が呼ばれた。そうすると残りの面子が割れるような気がしないかい?」
不安げな言いように、同意する気持ちがいくばくかあった。何しろザイガン自身が手がけた人事なのだ。
「たとえば、金髪お転婆唯我独尊、おまけに露出狂で足癖の悪いフォルメール神官が現れたりしてさ」
「なぁぁんですって?」
突如背中に不穏な声が投げかけられた。さっと青ざめて振り向くと、そこには金髪の女性が立っていた。肩に背負っているのは、底に車のついたフォルメールの郵便配達員独特の靴。彼女こそがあの非番の日、ザイガンの伝言をアーツに配達してきた人物なのだが、あまりに予想通りの展開に、流石のアーツもこめかみの辺りに鈍い痛みを感じた。
「なんでアンタがここにいるのよ!」
ずかずかと大股で歩み寄って、童顔の魔術師の耳を力いっぱい引っ張る。ひいひいと情けない声を上げて涙を浮かべる彼にきりきりと眉を吊り上げた女性――キリム・カストゥールは容赦ない言葉を浴びせた。
「またアンタが一緒なの? 傭兵家業はいい小遣い稼ぎだけどいい加減にしてほしいわよ。あたしはあんたのお守役なわけ?」
「それはこっちの台詞だろ。いい加減尻を追っかけてくるのはやめてくれよ」
「誰が誰の尻を追っかけてるですって?」
耳から手を離し今度は両頬を掴んで思い切り左右に引っ張る。ふがふがと言葉にならない声を上げてナタリフは必死に逃げを試みているが、よく見れば靴の先がキリムに踏みつけられている。漫才のような二人のやり取りに口を挟めずにいると、またしても入り口に気配を感じた。
「シリア」
咎めるように呟かれた名。その声に驚いてキリムとナタリフの動きがはたと止まる。
現われたのはシリアとカガンであった。カガンは顎に手を当てて困ったような顔をし、隣のシリアをそっと窺う。
「ワシのところに手紙が来てな、シリアも連れて来いと書かれていたので連れてきたまでだ。しかし一体何の騒ぎなんだこれは。夫婦漫才までいるというのはどういうことなのか、説明してくれんか、なぁアーツ?」
その台詞に、キリムは興ざめしたかのようにナタリフから手を離す。
「そしてトリが俺ってわけか」
さらにシリアとカガンの背後から新しい声が降って湧く。
「ウィラード」
年の頃はアーツよりも三つ四つ上といったところか。騎士団第三士団、通称<鷲の士団>の正識別色――濡れ羽色の内布が張られたマントを羽織った黒髪の青年が、いつの間にか壁際に立っていた。どこか翳りがある表情と殺伐とした雰囲気を兼ね備えた彼は、共にザイガンに師事したアーツの兄弟子であった。
「これで全員か。総団長も選り好みが過ぎるな」
「それは褒め言葉として取っておこう。なぁウィラード」
最後に現われたのはもちろんザイガンだった。皆揃ったな、と一同をぐるりと見回しアーツに向き直る。
「これは一体どういうことなのですか。説明してください総団長」
静かな口調ながら、その奥に怒気を潜めた弟子にザイガンは苦笑した。他の隊員はともかく、シリアを呼んだこと対する反感は相当なものらしい。
「説明も何もこれがすべてだ。今更紹介をする必要があるか? 余計な手間が省けるのだから問題なかろう」
「そういうことではありません。この人選に対して疑問を持っているのです」
「あら、アタシたちじゃ力不足ってこと?」
聞き捨てならないとばかりにキリムが口を挟む。アーツがそんな青年ではないと知っているから本気でこそないが。
「ヴェルジにファムリゥゼン、シリュエスタとフォルメール、そして魔術師。これほど幅広い交友関係を築いていたとは、お前もなかなかやりおるな。この人脈があれば、いざというときの情報収集も後方支援も心配いらんな」
「知識と流動が欠けておりますが? 選抜隊は宗派平たく組まれるのではなかったのですか、総団長殿」
ナタリフがさらりと言ってのける。元来魔術師は自由気ままで権力に縛られずが信条、だから騎士団の重鎮が相手だろうとその口調はいつもと変わらない。
「そこは勘弁しろ。代わりに神殿の協定書を取り付けたのだから、これ以上は望むべくもなかろう」
「ですが、総団長」
「黙らんか」
ぴしゃりと制したザイガンの顔に浮かんだ怒り。
「騎士団総団長たる私の命が聞けんというのか」
彼が鬼と呼ばれる所以。先ほどまでの雰囲気と一瞬にして成り代わったさまに、皆身体がすくむ思いに駆られる。
「過日お前は人選を私に委ねたであろう。私には思うところがあり、それを図ってこの選抜隊を組んだのだ。それに反駁せんとするならば、まず人選を私に一任した己の思慮の甘さを省みることだな」
厳しい一蹴に、アーツは反論できずただ黙って唇を噛んだ。ザイガンへの怒りではなく、自分自身の言葉の重さを痛感して。
「己の言動がどれほどの重みを持つか知らなかったわけではあるまい。だが国政を担う地位にある以上、それを暫時だろうが忘れてはならないのだ」
瞳に優しい光を映してアーツの肩に手を置く。そうしてはっと上がった顔にひとつ頷いた。
「カマラン特別領区調査隊に命ずる。砂漠を徘徊する殺人鬼を取り押さえよ。だが命を捨ててまで命令に順ずる必要はない。自らの命が危険にさらされたならば容赦するな」
手にぐっと力を込め、告ぐ。
「そして、真実を見ろ」
直後浮かんだいぶかしげな表情を受け止め、ザイガンはシリアを振り返った。青い髪と瞳の乙女は、事の成り行きに心配そうな瞳を向けてきたが、今はそれに苦みをふくんだ笑みで応えることしかできなかった。
「私から伝えるべきことは以上だ、任務の詳細は隊長に聞くがいい」
集まった者たちを再度見回してザイガンはマントの裾を翻す。仲間の視線を感じつつ、アーツは部屋を出て行く彼の背中に一礼した。
「さて、アーツ」
カガンが待ちかねたように声をかけてきた。これからどうすればいいのだと暗に問うている。
「明朝、カマランに出発する。王城の外壁前の広場で待ち合わせて、乗り合い馬車で移動しよう」
分かった、とそれぞれが頷く。
「今回の任務はまだ見ぬ敵を討つことだ。ややもすれば命に関わるかもしれない。けれどもどうか信じてくれ。俺の命がある限り皆の命を護る。だから皆も俺に命を預けてくれ」
「いわずもがなだな。お前を信頼する気がなけりゃ、ザイガン様の命だろうが即刻踵を返すところだ」
ウィラードが腰に手を当て、何を今更といいたげに肩をすくめる。けれども口調の軽さとは裏腹に、瞳に宿るものは心からの揺るがぬ信頼だ。同じ光を湛えてナタリフもキリムも、カガンも自分を見つめてくる。
それらを受け止め、アーツは唇を引き結ぶと仲間たちに向かって深く頭を下げた。「士団長らしからぬ」とその行動はいつもザイガンにたしなめられてきたが、それでも止めるつもりはなかった。自分の、仲間たちへの誠意と信頼を表す儀式のように感じているからだ。
「よろしく、頼みます」
これから自分が従うべき青年の言葉を受け止め、皆引き締まる気持ちと共に明日からの任務を思う。
その中にあってただ一人、シリアだけは不安を拭いきれずにいた。癒しの術を心得ているとはいえ、力技に出られれば足手まといになりかねない自分をなぜ今回の旅に推したのか。ザイガンの意図が汲みきれなかったのだ。
頭を上げ、仲間に先んじて詰所を出て行くアーツの背中を見つめて、シリアは言いようのない距離感と焦燥を感じていた。