第Ⅰ章 さだましもの、煽つ風(3)
「おい、シリア」
はっとして振り向くと、そこにはシリアの胸の辺りまでしかないだろう身長の男が立っていた。大きな袋を背中に担ぎ肩から道具袋を下げている。黒い肌に髪、口元にたくわえられた髭、そして鍛え抜かれた体躯。典型的なドワーフの様相である。
「カガン、どうしたのこんなところで」
言うと彼は困ったような表情をみせた。手にしていた麻袋をどさりと石段の上に置く。
「どうした、じゃないだろう。何度呼んでも応えんで」
「そんなに? いやだ、ごめんなさい」
かぁっと羞恥に頬が赤くなる。掃除をしようと箒を持って神殿の表に出てきたのだが、どうやらぼおっと立ちっぱなしだったらしい。
「頼まれ物を届けに王城へ上がったんだが、帰りにアーツから伝言を頼まれてな、ここに寄ったまでだ」
カガンは防具職人だった。炎と戒律の男神ファムリゥゼンの信徒で、鍛治町で父親の防具屋を手伝っている。彼の父親が開発した籠手は、名だたる剣士から直接注文を受けるほどの人気商品のため、その技を買われて王城からもたびたびお呼びがかかっていた。
「どうやら今日も家には戻れんらしい。どうする、今晩はササナも夜勤めだし、ウチに来るか?」
カガンはシリアの実父クレード・ラスターシュの元騎士団同期であり、彼の妹ササナは母レティシアの親友だ。自分が生まれる前から交流があった彼は、両親の死後自分とアーツのことを何かと気にかけてくれていた。
「そう、今日も……」
寂しげなシリアの表情にどこか不安を読み取って訊く。
「どうした? 何かあったのか」
提げていた道具袋も階段に置き、そのままどっかりと腰を下ろす。話してみろ、という表情にシリアは箒を手にして立ったままで答えた。
「アーツがね、近いうちに遠出をすることになるかもしれないんですって」
昨日公園で子供たちと分かれた後、彼がそう切り出した。ザイガンが朝早くに呼び出した理由を知り、シリアはそれからずっと、押し寄せるいわれようもない不安に心を波立たせていた。
カガンはそんなこわばった表情をじっと見つめた。二親が他界してからというもの、シリアはアーツと離れることに極度の不安を覚えるようになったようだ。幼い頃にクレードが親戚筋から預かったという彼だったが、共に暮らし始めて10年以上、今ではシリアにとって家族同然の――いや、それ以上の存在に変わっていることは知っている。努めて平静さを装おうとするさまにいたたまれなくなり、「一体何があったのだ」と続きを促した。
「ザイガン様が、何か頼みごとをしたさそうなんだって言ってたわ」
「ヤツがか。まだ行き先は知らされていないのか?」
「正式な受任は一巡りくらい後になるみたいだけど」
ふむ、と顎鬚をなでて考え込む。騎士団総団長が自ら頼みごととは、何か謀はかりごとがあるに決まっている。そうでなくともあいつは一癖あるのにと、昔の同僚の思惑を計りかねてカガンはそれ以上憶測をめぐらすのを止めた。
「まぁヤツのことだ。おおかた美味い酒の噂でも聞いてそいつを買って来いとでも言うのだろうよ。任務にかこつけてとんでもないことを言うやつなのだからな」
気楽に発せられた言葉に、シリアがほんのりと笑みを見せる。
「おじさまはお酒が大好きですものね」
「ヤツとヴェルジ神殿のカートンと3人でお前さんらの家におしかけてな。クレードも巻き込んで、非番の時にはいつもそうして朝まで飲んだもんだ。ヤツはアーツを、クレードはお前さんを膝に抱いてな」
彼女の表情が少しずつ和んでいくのを見て、カガンは荷物を手にゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫だ、アーツはお前さんひとりを置いていったりせんよ。なんせウチの工房で作った防具を身につけておるのだからな」
空いた手で白い手を握ってやると、彼女は安心したように笑顔を見せた。
「ありがとう、カガン」
「ん。仕事が終わったら家に迎えに行くからな」
「うん」
そうしてカガンは笑みを向けると、踵を返して去って行った。その大きな背中を見送りながら、シリアは昨日のアーツとのやり取りを思い出していた。
『さ、帰ろう。今日はそもそも非番なんだ、家に戻って畑の手入れをしないと』
話の最後、帰宅を促して自分に手を差し伸べた彼は努めて明るく振舞っていた。差し出された手のひらは剣の握りで厚くなっており、その手が今度は鍬を握るという。そんな平穏さを嬉しく思う気持ちが、今は少しだけ揺らぎ始めている。
「大丈夫、もう子供じゃないもの。信じて待っていられるわよね、シリア」
あの時、彼の手をとった右手に残る温もりを胸に抱き、シリアは自分を懸命に叱咤した。