第Ⅰ章 さだましもの、煽つ風(2)
「創造神たる我らが母神よ、迷えるものを須すべからく御許に導きたまえ。その光もてはぐくみ、道を照らし、歩む力を与えたまえ」
光と癒しを司る女神シリュエスタ。その大陸総本山である<デ・ヴィサティローマ>は、ひと巡りに一度の礼拝日にあって荘厳な祈りに包まれていた。
イエンス市街のほぼ中央に位置するそこには、早朝から多くの人が詰め掛けていた。大礼拝堂のしんと静まった空気の中、皆の視線の先――壇上には白い衣を纏った凛々しき女神の像があり、その前には畏まって胸に左手を当てた一人の乙女の姿があった。たおやかな細身に純白の神官着、滑らかな白磁の頬には、絹糸のようにしなやかな青玉色の髪がひとふさかかっている。
彼女の名はシリア・アス・ノーマ。世界を創造したる母神と、その力を継いだ女神シリュエスタと同じ、青い髪と瞳を持つ乙女であった。
「姉たるシリュエスタよ、我らに永き安息を」
薄紅の唇が静かに祈りを締めくくり、右手が印を結ぶ。倣って印を切りひと呼吸ほどの間を置くと、人々は心に安寧を保ちつつ日々の生活に戻るべく動き始めた。
ざわざわとした中で立ち上がり、シリアは大礼拝堂から外へと向う彼らの背中を見送る。そうして最後の一人を見届けほっと胸の空気を吐き出すと、先ほどまで対峙していた像に改めて向き直った。
その昔、世界は突如現れた『闇』によって瞬く間に侵され穢けがされた。大地は腐り光は失われ、人々は絶望のみをその身に抱いて伏すばかりであった。
だがそんな中立ち上がった若者達がいる。のちに<七英雄>と称えられる彼らの中に、ニーリエという敬虔なシリュエスタ信徒がいた。自然には生まれ出ることのない青い髪と青い瞳を持った彼女は<神の愛し乙女>と人々に崇められ、仲間たちと共に闇に立ち向かい、最後その身に女神シリュエスタの力の一部を宿して打ち勝った。
その後ニーリエは双子の娘を授かる。姉をノーマ、妹をラーサといい、人々は母親と同じく女神の姿を体現した彼女らを拠り所とし、シリュエスタの聖域として奉ったのである――以来その片割れの称なと共に継がれてきた責務を、シリアは5年前、母レティシアから引き継いだ。
人と人の縁えにしに久しい安寧を願い、尊い命に光の祝福を祈る。それが聖女たる血筋の自分に課せられた使命であるが、果たしてそれを充分に達せられているだろうかと最近よく考える。しんと静まり返った大礼拝堂で、扉を通ってきた春の息吹が身体に沁みる感覚を味わいながら、シリアは何度目かわからない問答にそっと目を閉じた。
「シリアおねえちゃん!」
突然の声に驚いて目を開けそちらを振り返ると、入り口から子供たちが入ってくるのが見えた。今日は『お休みの日』ともあって家族で神殿へ来る者がほとんどだが、遊び盛りの子供たちにとって長い礼拝は退屈極まりない。そこで今春からその時間を使って、手の空いている女性神官達がお菓子作りを教えることにしたのだった。礼拝が済むと親もそちらへ合流することになっているため、親にとっても格好の託児所というわけだ。
確か今日はクッキーを焼いていたはず。途中から香ばしい匂いがこちらにも漂ってきていた。「はいお姉ちゃんの」と屈託のない笑みと共に白い端布の包みを差し出され、シリアは有難うと受け取った。
「みんな、お父さんやお母さんと一緒に帰らなくていいの?」
「うん。兄ちゃんと遊んでから帰るって言っておいたから」
「それじゃあアーツが来るように、ヴェルジ様にお願いしないといけないわね」
「だいじょうぶだよ。兄ちゃんいつもシリア姉ちゃんを迎えにくるじゃないか」
途端シリアの頬がほんのりと染まる。どう反応したものかと困っていると、輪の一番外にいた少女が入り口に向って叫んだ。
「あ、アーツ兄ちゃん!」
青いマント姿にそよぐ黒髪。名を呼ばれた彼はこちらに歩み寄ってくると、子供達の頭を撫でてやりながらほんのりと笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
「ただいま。礼拝は終わったのかい?」
「ええ、ついさっき。今日はもう仕事もないし……ここで少し待っていて。司祭様にご報告して帰るから」
そう言い置いて駆け出す。神殿には多くの人間が働いており、シリアはその部署のどこにも属さない特別職<祈りの乙女>であったが、彼女の仕事がそれにとどまらないことも知っている。ゆらゆらと揺れる青い髪が廊下に消えると、アーツは長椅子に腰を下ろした。
子供たちが自分たちの遊びに興じ始めたのをいいことに、しばし考えに浸る。『砂漠』に『殺人』に『特命』。先ほどのザイガンの言葉ひとつひとつを反芻し推測を広げてみるのだが、いかんせん情報が足りなさ過ぎた。それぞれに関連性があるのかどうか、まずはそこから調べる必要があるなと結論付け、今度は自分がリシリタを離れている間のこと――同じ屋根の下に暮らすシリアのことをどうするかとめぐらせ始めた。
「お待たせ」
一体どのくらい深く考え入っていたものか、顔を上げるとシリアと子供たちが自分を覗き込んでいた。心配そうな顔になんでもないと答えて立ち上がる。
「よし、じゃ帰ろう」
「帰っちゃだめ! 公園で遊ぶの!」
わらわらと腰にすがってきた子供達に力任せに引っ張られ、アーツは両手を挙げて降参の意を表した。
「わかったわかった。みんなの言うとおりにするよ」
わっと歓声を上げて勢いよく駆け出す彼らに注意を促し、やれやれという顔で振り返る。 いつもの神官着に戻った彼女は、お疲れさまというようにいたわりの笑みを浮かべ、歩き出した自分についてきた。
快晴の下、往来の激しい街道を<龍の吐息川>沿いに東へ進むと、河岸に木々が生い茂る一帯にたどり着く。橋を渡った対岸の森は、昔から憩いの場として市民に愛されてきた場所だ。永らく人の手の加えられなかった原始の香気を放つ森。その中央部に、緩やかなすり鉢状の広場があった。
その底に当たる部分に立つ彫塑は、父母神の降臨後に来格した六助神それぞれの姿をしている。地の礎、森の知、炎の律、光の癒、風の伝、水の廻を表したそれらは央を向いて対峙しており、世界を支えるさまを示しているのだそうだ。その像を子供たちともども、太陽のめぐる順にヴェルジから一礼して回り、再び彼と対峙したアーツは、その雄姿に身が引き締まる思いを確認して子供たちに目を向けた。
「よぉし、何して遊ぶ?」
「兄ちゃん、鎧は?」
くすくすと笑う子供たちに、はっと胸当てを見つめる。
「そうだったな。じゃぁ外してくる間に何して遊ぶか決めとくんだぞ」
皆が一様にうなずくのを見てから、すり鉢の縁――石段に腰掛けていたシリアのところへ来ると、胸当てとマント、それに腰に佩いていた剣を外した。
「これ、頼むよ」
「あまりはしゃぎ過ぎないようにね。お昼までには帰さないとご家族が心配されるから」
ああ、と笑って駆け出していく彼。無邪気な笑顔を見せて子供たちと戯れるところなど、まるっきり自分も同世代であるかのようだ。普段の張りつめた表情から一変したそれを、傍らで見つめているのがシリアは大好きだった。
自分も彼も小さい頃から大人の世界に足を踏み入れていたせいか、感情を表に出すのが上手くないように思う。それは彼自身も少なからず感じているらしく、子供たちといるときだけはと努めているようだ。そうすることで騎士団の一個士団を預かる自分と、本来の年相応の自分との均衡を保っているのかもしれない。
「あら」
たたもうとして手を伸ばした彼のマント、その襟がほつれているのに気付く。ここのところ忙しかったものね、とシリアは腰に下げた小袋から針と糸を取り出しそれを繕い始めた。
かくれんぼをしている彼の、数を数える声を聞きながら。