第Ⅴ章 ふたつなの英彦(えいげん)(6)
白い月の光が、世界を照らし出している。
気だるい朧宵がひととき失せた王城の屋上、しんと静まり返ったそこで一人月を見上げていたアーツだったが、ふと思い至ると、腰に吊るした剣の鞘に手を触れた。
養父クレード・ラスターシュ愛用のひと振り。刃を収めるそれは予想以上にしっとりとして滑らかだ。カマランのような環境下にあって、その質を維持するのは容易ではなかったろう。行き届いた手入れに、ニィルゥ族の期待の大きさが窺えようというものだ。
そうして自然、柄に手がかかる。直後一気に抜き放つと、冴え冴えとした光を返して、刃が銀色の軌跡を描いた。静かな湖面のように滑らかな刀身、手にほどよく馴染む握り。そのまま軽く振ってみると、するりと型へ流れた。下ろし、薙ぎ、切り上げ、突き入れる。それらを複数の型に則って行なった後で、目を閉じ相手を思い浮かべた。
まず始めに現れたのは、兄弟子であるウィラードの姿だった。器用で覚えが速く、常に自分の先を行く彼。黒を基調とした<鷲>のいでたちも手伝ってか、死に近しい暗闇をその身にまとっているように思えてならない。
それは次いで浮かんだ剣の師ザイガンにも通ずる。相手を飲み込む重苦しい気迫と、背後から回り込んでくるかのような恐怖。両者共にその繰り出す切っ先には死がちらつくが、その向こう側には、確固たる生きる意志と刃に対する真摯な思いが垣間見えるのだ。命を左右する場に迷いがあってはならない。生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、迷うことがどんな結果を生むのかを、自分もこの目でよく見知っている。
『己の中の兄を支えとせよ』
ゆえにザイガンがよく口にする言葉が沁みる。迷い、問い、繰り返す中でただ一つの揺らがぬもの。ヴェルジの教えを教授した中で培った信義こそが、己の柱であると信じたい。
とはいえ、人が一生を混迷の中で生きねばならない定めなのだとしたら、神はよくつくりたもうたものだと思う。時に安らぎ癒す優しき存在、剛の男神と対なる柔の女神の存在を。
そしてふいに青い髪の乙女の姿が脳裏をよぎり、直後振り切った切っ先に違和感を覚えてアーツは目を開けた。それから背後の気配に気づくと、振り向きざまに切っ先を向ける。
そこにはひとりの青年が立っていた。濡れ羽色のマントが意味するものは『密かなる探査』。彼が足音を消して背後に歩み寄ったのも、身体に叩き込まれた技術の一つだ。
「ウィラード」
「よ」
そう答えた彼から、動揺した様子は微塵も窺えなかった。鼻先に突きつけられた切っ先を、差し指ひとつで押しのける。
「俺も、お前にとっては敵ってことか」
「まさか。君をそんなふうに思ったことはないよ」
心からの言だったのだが、彼はどこか困ったような表情を浮かべた。
「なぁ」
「うん?」
「お前の癖、教えてやろうか」
「癖?」
「そうだ。お前自身は気づいちゃいないかもしれないがな」
唐突で思わせぶりな言いよう。いぶかしげに見やると、彼は直後にやりと笑いはぐらかした。
「ま、そいつは後でもいいさ。ところで、親父さんとお袋さんにはちゃんと報告できたのか」
思いもしなかった言葉に驚く。今朝、日の出前のまだ人通りの殆どない時間。アーツは一人養父母の墓に向かった。この数巡りのうちにめまぐるしく変化した身辺を報告し、胸の内に抱いたさまざまなことを二人に聞いて欲しくなったのだ。渋るザイガンをなんとか説き伏せ、一人でそっと王城を出たはずだったのに、いつの間にか尾行されていたとは。にやにやと得意げに笑う彼への感嘆も束の間、あの時の思考に返り至って、アーツはそれを口にしてみようと思った。
「ウィラード」
「なんだ?」
口火を切ったものの、未だ何かを逡巡している様子。ウィラードは目を細めてじっと言葉の続きを待った。
「頼みがある」
「お断りだ」
やっと口にした一言だったのに、間髪いれずに拒絶されてしまう。アーツはあっけにとられ、すぐに苦い笑みを浮かべた。
「まだ何も言ってないだろ」
「一体何年付き合ってると思ってるんだ。お前が口にするのを躊躇するような頼みごとなんて、この世にひとつしかないだろうが」
大げさに肩をすくめ、やれやれとばかりに溜息をつく。
「全く損な役回りだぜ。フォルメールの代わりにいくら伝言を届けてやっても、役得のひとつもありやがらねぇ。真面目にやる気も失せるってもんだ」
「まさか」
「馬ァ鹿。そんな危ねぇ真似するかよ。手を出した途端に、問答無用でばっさり斬られるなんて俺は御免だね」
その言葉に思わずほっとした顔を見せたアーツに、ウィラードは再びの溜息をついた。そして言葉にしなければと同時に思う。
「なぁ、アーツ」
「なんだい」
「お前、いい加減にしろよ」
それははっきりとした非難だった。普段のやんわりとした皮肉とはうって変わった鋭さに少し困惑する。
「お前が俺を信頼してくれてるのは分かる。それは有難いことだとも思ってる。けどな、世の中には人に頼んじゃならねぇことだってあるんだ。お前はそれをまだ充分に理解してないみたいだな」
ぐっと胸を突かれたような顔に、ウィラードはなおも畳み掛けた。
「他ならないお前の頼みだ、大抵のことは引き受けてやるつもりさ。けどよ、さっきお前が口にしようとしたことを、俺は絶対に請け負うつもりはないね。多少腕に覚えがあるヤツなら、身を護るぐらいはできるだろう。だが心を支えることは、おいそれとできることじゃない。それはお前が一番よく知ってるはずだろ」
共有してきた時間は長くとも、かなわぬことはある。自分が責めているのは、それを知っていながら委ねようとした彼の弱さだ。それが一瞬の気の迷いでは済まされないこともあるのだと、今ここで教え込まねばならない。
「いつまでも気づかぬふりもしてられねぇだろ。今が道を定めるときじゃないのか。お前も、彼女も」
握り締められた拳、そして強張った表情になおも言葉を継ぐ。
「しがらみなんてものは、当人がそう思わなきゃ、案外どうにでもなるもんだ。それに絆されて道を選んでいたんじゃ、到底真実にはたどり着けないと思うぜ。少なくとも自分をごまかしていることは確かなはずだ。逃げ口上を考える前に、捨て身の努力をしてみな。そうすりゃ、どんな結果だろうが自負をもって前に進めるはず。お前ならその決断ができるだろ」
「そうはいっても……応じてくれなかったら」
「馬鹿言うな。俺は<鷲>の隊員だぜ。請け負った仕事は完遂する。それができねぇようじゃ務まらねぇよ」
弱気な言葉に叱咤を被せ、いいざま振り返る。背中で促され視線を追ったアーツは、その先に捉えた人影に驚いた。
「シリア」
月の光の中、美しく儚げな姿で立つ乙女。まさか幻ではあるまいなと名を呼ぶと、少し緊張しているらしい彼女は、硬い表情のままで小さく頷いた。
「ま、しっかり頑張んな。ここまでお膳立てしてやったんだ、下手なんかやらかしたら承知しねぇぞ」
最後にそう言い残し、ウィラードはアーツの肩を叩くと身を翻した。そうしてシリアとすれ違う瞬間、ふと足をとめて小声で囁く。
「いつものまっさらな心で向きあえばいい。大丈夫、シリアちゃんならできるよな?」
そうして頭に載せられた手に、シリアは顔を上げた。どこか複雑なものをにじませたその表情に、心がかすかにざわめくのを感じながら、階段を下りていく背中をしばし見送った。
そうしてしばしの間を置き心の整理をつけると、意を決して踏み出す。一歩また一歩と近づくにつれ、彼の緊張した面持ちが認識できた。
「ありがとう、応えてくれて」
もう二歩も進めばその手に引かれよう距離。だがこうして向き合うこと自体が数巡りぶりのことで、上手く言葉が出てこない。そんなもどかしさに気をもんでいるうちに、彼が先に口を開いた。
「明日の朝、リシリタを発つよ」
「え」
驚いて思わず問い返す。ああ、と彼は頷いた。
「もう耳に入っているかもしれないが……俺は士団長を退く。総団長にはもう辞表を渡してあるんだ」
やはり本当だったのだ、とシリアは小さな手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
「受理してもらう代わりに、ひとつ仕事を請け負ってね。最後のそれが済んだら俺は……」
「ヴィージへ、あなたの母国へ戻るのね」
存外きっぱりと放たれたそれに、アーツは夜空を見上げ、小さく息をついてから続けた。
「とはいえ<使者>とどうやって接触したものか。イエンスに戻ってから毎日その方法を考えていたよ。そしてニィルゥの族長の言葉を思い出したんだ」
「族長の?」
「呼び声を導に辿れ。それに沿うかどうかはわからないが……ともかく、過去の記憶をひと通り辿ってみようと思ったんだ」
「それで、何か?」
「ああ。多分こちらに到ってから一番古い記憶なんだろうと思うけど……暗闇の中、進む馬車から見上げた天上に、白く輝く円いものが浮かんでいてね、じきに峰峰の向こう側に消えていった。いったいあれはなんだろうとぼんやり考えながらいつの間にか眠ってしまってね、そうして次に気がついたとき、眩しい朝が森の向こうからやってきたんだ」
夜空に浮かぶ輝くもの――おそらくは月だろうそれが沈む方向に、高峰が連なっていたという。脳内の地図と照らし合わせてしばし考え、はっと思い至る。
「それじゃあなたは、少なくとも南の方角から、この国に向かって移動してきたということ?」
彼が見た山々というのは<大陸の脊梁>ではあるまいか。もしもそうなら、それらを望める高地が、リシリタとハイラストの国境にある。
「他に覚えていることはないの?」
「それが……こちらの世界に至った直後の記憶がかなり欠けていてね。覚えているのはそれと、王城に入ってからの出来事くらいなんだ。路程なんて分からないし、正直混乱もしていたんだと思う」
さもありなんとシリアは納得した。
「でもこちらの世界に到ったおかげで、俺は空の青さを知ることが出来た。そして母神の、女神シリュエスタの髪の色を映しているのだと語られている所以が、初めて理解できたよ」
そうしてシリアをじっと見つめる。見つめ返してくる、天の果て、水の底に通じるその青がうっすらと揺らいでいることに、アーツは重く胸を衝かれた。
「すまなかった」
突然の謝罪に、彼女がぎくりと身をこわばらせる。
「いつかは話さなければならない、君には誰よりも先に真実を伝えなければならないといつも思っていたんだ。でもなかなか言い出せなくて……結局、君を長い間ひどく欺いてしまった。糾弾したいというのなら、いくらしてくれてもいい。それだけの罪を、俺は犯したんだから」
その言葉に込められた贖罪の意志。シリアは彼に向けていた目を少し伏せた。
「それは……私だって同じだわ」
「え」
「私も、あなたに言えずにいたことがあるもの」
少々訝しげな表情が返される。
「私、ここ半年の間、ずっと同じ夢を見つづけていたの」
「夢?」
うん、と頷く。
「夢の中で、私は一人の男の子の背中をいつも見つめていた。その子は炎の中をかいくぐって、自ら剣を手に戦っていた。鳶色の瞳のあの子……私、本当は気づいていたのかもしれない」
そうして再び顔を上げ、鳶色の双眸を見据える。それは確かに、夢の中の少年に通じていた。
「どうしてあんな夢を見続けるのか、その理由はわからない。でも心のどこかで、あの子があなたじゃないかって気がしていた。けれどそれを認めてしまったら、あなたの前でそれを口にしてしまったら、これまでの毎日がすべて消えてなくなってしまいそうな気がして、真実を問う勇気が出なかったの」
言葉にさえしなければ、すべての杞憂は時間の流れにかき消される。そうして変わらぬ日常が送れるのだとそう思っていた。それにすがった己の弱さ。シリアは胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。
「私、夢の中でも迷っていた。先に向かうあなたと、すがりたい過去の狭間で。あの黒い長衣の人は、きっと私の弱さの投影なんだわ」
「黒い長衣の人?」
「ええ。その人がいつも私とあなたを呼んでいる。それにもう一人、私にそっくりな年格好の女性がいつも隣に立っているの。誰なのかは分からないけれど、ずっと昔から知っているような気もして……」
その言にアーツはふと思い出した。聖女ニーリエの娘、ノーマの双子の妹たるアス・ラーサのことを。
「やっぱり、君にはガンダルモートの素質があるのかな」
カマラン滞在中にも感じたが、最近ことに彼女の直感が鋭くなっているような気がする。少々のからかいを含んだ声色に、シリアの表情も自然に和らぎ、普段の二人の雰囲気が少しだけ取り戻せたような気がした。
「俺は戦闘のさなかに『国を脱せよ』と命を受けた。我らが王都が、そうやすやすと敵の手に落ちるものかとは思っていたが、父上は万が一を見越して俺をこちらに向かわせた。リシリタに入った後、俺は陛下の英断を受けて君の両親のもとへと預けられて……あとは知ってのとおりだよ」
そうしてアーツは何かを思い出したように表情を和らげた。
「初めて君に会ったあの朝」
その言葉にシリアの胸がどきりと弾む。
「あの時身体が自然に動いていた。そして思ったよ、俺の中に流れるラクレインの血は本物なんだって。君を前にして、きっと彼の血がああさせたんだと思う。主の背を護ると誓った彼と同じように、俺も君を護りたいと直感的に思ったんだ」
その想いは、単なる血で繋がれた忠誠なのか、それとも。
シリアはそう問いかけたかった。もしも返ってくる答えが自分が望むものだったなら、きっとこの先迷わないだろう。しっかりと彼の顔を見つめ、寄り添って生きていけるはずだ。けれどもし否定されたら? そう考えると口に出す勇気が湧いてこない。
「ヴィージに何が起こったのか、今は具体的には分からないが、状況が芳しくないことだけは確かなはずだ。それに<追手>の存在も警戒し続けなければならない。それでも俺は、前を見て歩みを進めるしかないんだ。そんな俺でも……もしも君が、俺の想いを汲んでくれるというのなら」
彼の声は真剣だ。顔を上げた自分を鳶色の瞳でまっすぐに射抜いて言う。
「俺と一緒に、ヴィージへ行ってくれないか」
途端シリアの頬が淡く色づく。瞳が潤んで映りこんだ月の光が揺らいだ。
「何があっても君を護ると、俺はラクレインに誓った。あのとき抱いた気持ちは今も変わってはいない。けれど、どうするかを決めるのは君自身だ。どんな結果になろうとも、俺は君の決断を甘んじて受けるよ。明日、夜明けと同時に俺はハイラストへ発つ。もしも応えてくれるというのなら、出立の時間までに城壁の南門に来て欲しい」
言葉も発せず困惑を滲ませる彼女。アーツはそれ以上何も言わずに、着ていた外套を外してその細い肩にかけてやった。
「俺から伝えたかったことはこれですべてだ。ありがとう。最後に二人だけで話せてよかった」
言って柔らかに微笑む。それに答えようとしてか、一度は開きかけ、結局言葉にならずに閉じられた唇。そして揺らぐ青い瞳をしばし見つめてから、アーツは意を決したように身を翻すと静かに彼女から離れた。
月光の下、去ってゆく背中。
それを呆然と見送りながら、シリアは自分が一番失いたくないもの、そして自分が成したいと思うことがなんなのか、今になってはっきりとこの手に掴んだような気がしていた。




