第Ⅴ章 ふたつなの英彦(えいげん)(4)
動かしていた手をひととき止め、アーツは長い息をついた。
士団長執務室に入り込む風。萌ゆる緑の香りを運ぶそれは、そよそよと流れてカーテンをかすかに揺らした。
書き上げた文面に目を落とし、そのままざっと読み返す。そうして最後再び筆記具を手にすると、羊皮紙の右下の部分に署名をした。
『アーツ・ラクティノース』
士団長に就任して以来、この名において何度命令を下してきたことだろうと、少しの感慨が湧く。
こんなふうに署名するのも、もう幾度もあるまい。
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イエンスには、大陸街道と直角に交わる大通りが3本ある。北大通、南大通、そしてもっとも広い中大通と、それぞれにさまざまな商店が軒を連ねている。その中でも、イエンスから東の海岸都市ミューレルへと続く一級街道として認定された中大通は、途中にあるシリュエスタ総本山<デ・ヴィサティローマ>への巡礼者などが多数利用するため、通称シリュエスタ通りと呼ばれていた。
「おやシリア、今日はアーツと一緒じゃないのかい?」
街道に面して並ぶ商店のひとつ『ディルマの果物屋』。そこの女主人が道を行く乙女――シリアに声をかけてきた。
「むさい年寄りが一緒で悪かったな」
隣に並んだドワーフのカガンがふてくされたように言う。背中には客に納める品が入った、身の丈ほどもある袋を担いでいた。
「はっは。いいご身分じゃないか。昼間っからアス・ノーマと連れ立って歩くなんて、アンタも隅に置けないネェ」
客に渡す果物を袋に詰めながら、ディルマは頬肉を揺らして豪快に笑った。
「あんたあとでウチによってくんなよ。野菜包丁の切れ味が悪くて困ってるんだ。砥いどくれな」
また野菜包丁で肉を切ったのか、とカガンが呆れたように呟く。ディルマは聞こえぬふりをしてシリアに向き直った。
「ところで、アーツが騎士団を辞めるって話は本当なのかい?」
その問いに、果物を注文しようとしていたシリアの動きが止まる。
「彼、最近忙しくて全然家に戻らないの。直接聞いたわけじゃないから、本当かどうかは私にもわからないわ」
そう言う横顔を、カガンは心配そうに見つめた。
『アーツ・ラクティノース、士団長勇退す』
ここ数日イエンスはこの話でもちきりだ。ザイガンが「身内のことなのだから」と隊員たちに一応の緘口令を布いたらしいのだが、流石に人の口に戸は立てられない。フォルメールの情報網にも乗って、今や市井の隅々にまで広まっている。先日カマランで急遽発動された『共闘協定』の話題とも相まって、急遽参戦したその時受けた傷が思わしくないせいだとか、最近姿を見せないのは、勇退に向けた残務処理のせいだとかいう憶測まで流れている。
「まったく勿体無い話だよ。あんな見込みある若者はそうそういないってのに」
将来を嘱望される青年をむざむざ取り逃がすなど、音に聞こえたザイガンらしからぬというのが一般的な見解だ。
「折角サフィール様のおめでたい話がまとまって、これでますます国も安泰だって皆喜んでいたところだったのにねぇ。未来の総団長がいなくなるってんじゃ嬉しさも半減だよ」
そう、つい先日、国王セロルースの長子サフィールと、かねてより許婚の間柄にあった隣国ハイラストの第二王女シーナ姫との婚約が正式に発表されたのだ。きな臭いカマランの事件と同時期にもたらされた祝事に、市民は好んでそちらを取り上げ、遠い地の出来事に対する杞憂は薄らいだようにも見えた。が他ならぬアーツの退団話によって一件は再び俎上に載せられ、つかず離れず人々の心に印象付けられているようだ。5年前の――クレードとレティシアの時と同じように。
「あんたたちも、お二人にあやかって話をまとめたらいいんだよ。そうすりゃ万々歳なのにさ」
つり銭と品物を渡しながらディルマが陽気にからかってくる。
「ひとつ余計にいれといたからね。元気だしな」
こっそりと言い片目をつぶってみせた心遣いに、シリアはありがとうと笑顔を返して店を出た。既に歩き始めていたカガンの背中に小走りで駆け寄り並ぶ。
「ごめんなさいねカガン。つき合わせちゃって」
「かまわんさ。ついでに昔馴染みの顔も拝んだしな。それよりも、大丈夫か」
自身も含めてのことだが、アーツと離れ離れになってから数巡りが経つ。満足な会話も成さぬまま、逢瀬も叶わず過ぎてゆく時間に、シリアは少なからず焦りを感じていることだろう。実際に自分たちの手の届かぬところで、彼の身辺はあわただしさを増しており、まるで蚊帳の外の現状に、心が乱れぬはずがない。
「大丈夫。気にしていないから」
強がりな答えだと直感的に思う。しかしそれ以上の追求はせず、カガンはわざと話を逸らした。
「ところで、今日は遅くなるのか」
「特段何もないから、普段どおりに帰れると思うけど……なにか用事?」
「うむ。明日までに仕上げにゃならん仕事がひとつ出来てな」
彼が悩んでいるのは夕方の迎えのことだろう。困ったような顔に、先手を打って申し出る。
「私なら大丈夫。ナタリフの家までだもの、明るいうちならなんの心配もないわ」
シリアは今、キリムと共にナタリフの家に厄介になっていた。ザイガンの言いつけを守ってできるだけ誰かと一緒に外出するように心がけているが、皆それぞれに仕事をもっているのだから都合が合わないときもある。
「子供じゃないもの。一人でも平気」
「そうか、すまんな」
余計な心配をさせまいとしての笑みに、カガンの胸がちくりと痛んだ。
「……本当に大丈夫か」
やがてデ・ヴィサティローマの正門前に着くと、もう一度シリアを覗き込む。
「ええ」
「そうか。じゃぁくれぐれも気をつけてな」
最後に優しく手を握り、カガンは神殿前の広場を南に下っていく。自分を心配してわざわざ遠回りをしてくれたその背中を見送ってから、シリアは神殿の中へと入った。
行きかう同僚たちと挨拶を交わしながら、ふと思いついて大礼拝堂へと足を向けた。たどり着いたそこは珍しく人気がなく、そよそよと初夏の風が舞い込み遊んでいるだけだった。大礼拝堂の正面にある壇、その中央に位置するシリュエスタの像の前に歩み寄り、シリアはその姿を見上げてしばし女神と対峙する。
「シリアや」
そのとき突然傍らから声をかけられ驚いた。慌てて目を向けると、デ・ヴィサティローマの大司教であり、大陸すべてのシリュエスタ信者を統括する人物――シリュエスタ最高司祭ルセウスがそこにいた。紅い聖衣に丸眼鏡をかぶせた、いつもとかわらぬ柔らかなその雰囲気に少し安堵する。
「大司教様」
「こんな時間に、一人ここにおるとは珍しいの」
「大司教さまこそ、お一人でこちらまで?」
「うむ。少しばかり手が空いたのでな、運動がてら神殿の中を散歩してみようと思うたのじゃ」
のんびりとした口調につられて顔が自然にほころぶ。そうして促され、二人で近くの長椅子に腰を下ろした。
「ところでシリアや」
「はい」
「最近、そなたが沈んでおるようだと聞いておったが」
柔らかな問いに、シリアが瞬間身体を強張らせる。それからうっすらと苦笑した。
「押しとどめていたつもりだったのに……皆には気づかれてしまっていたのですね」
自責をあらわにした表情に、ルセウスはひとつ息をつくと優しく語りかけた。
「そなたも、あの子の真実を知ったそうじゃな」
え、と驚きの声が上がる。
「では大司教様もご存知だったのですか」
「うむ。まぁ……の」
少々居心地が悪そうに髭を撫でる様子に、シリアは少しの間を置いて口を開いた。
「私……彼は父が言ったとおりの人なんだとずっと思っていました。不幸にも家族を失ったのに、真摯で明るくて頑張り屋で、それでいて優しくて、いつも私を支えてくれて……だからいつか、私も彼を支えることができたらいいのにって思っていました。でもそうじゃなかった。彼はどうして……そんな大切なことならもっと早くに話してもらいたかった。もしも、もっと早くに知っていたら」
「気持ちを止められたというのかの?」
思わず頬が熱を帯びる。出会ったその時から抱きつづけてきた想い。いつか彼が受け止めてくれるだろうと、期待とほんの少しの確信を得るたびに心が温かくなったものだ。けれども真実を知ってからは、ずっと心が震えつづけている。
「分かりません。分からないんです。私はこの気持ちをどうしたいのか。どうすればいいのか分からないんです」
ルセウスは眼鏡の奥から苦悩する横顔を見つめ、小さな手に皺の刻まれた手をそっと重ねた。
「シリアや、そなたはそれほどまでに」
白い面が真っ赤に染まる。
「わかっておったよ。そなたのあの子をみつめる目を見ればすぐにわかる。まるでクレードに出会った頃のレティシアを見ているようであった」
「かあさまも?」
「うむ。そなたは最後まで知らされなかったようじゃが……実は、そなたの父クレードは、あるとき以前の記憶を無くしておったのじゃよ」
思いもよらない告知に、シリアの顔に驚愕が散る。
「あの雨の日……彼が神殿に現れたとき、不憫なほどに心も身体もくたびれておった。己の名前以外の記憶を失い、けれど身体に染み付いた何かに焦り、葛藤のたびに傷ついていたクレードに献身的に寄り添ったのがレティシアじゃった」
懐かしげに語る声はあくまで優しい。昔語りにシリアもほんの少しだけ表情が和らいだ。
「やがて自立が可能なほどに回復を遂げたクレードは、身についた武によって、自ら志願しこの国を護る騎士になった。忙しい任務の合間をぬってはここへ顔見せに通ってきてな、レティシアをつかまえて取り留めのない話をして帰ってゆく。レティシアはいつしか、彼の来訪を心待ちにするようになっておったよ。姿を見つけると途端に笑顔が花開いてな、見ているこちらが幸せになったものじゃ。血は争えぬものよ、後に娘もまた同じ道を歩み始めたのじゃからな」
そうして一呼吸置き、女神像に視線を移す。
「13年前のある夜、儂はセロルースに突然呼び出された。『どうしても伝えておかねばならんことがある』とな。国の、そしてディスリトの行く末に関わるという危機感に、儂はやつの元へすぐさま赴いた。そこにいたのがあの子だったのじゃ」
シリアはじっとルセウスを見つめ、話の続きを待った。
「初めて会うた時、あの子は既に物分りのよい大人であったよ。ふるまいの全てに国を預かる身としての素質をうかがわせておった。一旦は感心もしたが、すぐに本来あるべき姿を失いかけているのだと思い直した。わしはセロルースに言ったよ。『あの子にもっとも子供らしい生活を与えよ』と。平穏な暮らしの中にある慎ましやかな幸せを知らぬ者が、将来どうして国の安寧を維持することができようか。かの国の真の盟友として在り続けたいのならば、このリシリタにあるほんのひと時でも、ただ一個としての時を与えることが肝要なのじゃとな。かくしてセロルースは、クレードとレティシアにあの子を委ねることを決断した。儂が自ら推したゆえもあろうが、二人が選ばれた理由はそれだけではないのじゃよ」
「え?」
「そなたはレティシアがなぜクレードと一緒になったのか、その理由を考えたことがあるかの?」
唐突な問いに、シリアは軽く首を振った。
「儂らは突然現われた幼いレティシアを養護し育てた。ゆえに同志の中には、人心の拠り所たるアス・ノーマは純潔を護らねばならぬと主張するものもおった。さまざまな意見の飛び交う中、レティシアは教義とクレードへの想いの狭間で苦悩しておったよ。後に儂はあの子に言った。『迷いし時には己の中の姉に問いかけよ。諦めることは楽にできよう、だがそのためには、己のうちにある想いをすべて無に帰さねばならぬ。そなたはそれを納得づくでできるのか?』とな」
シリアは視線を外しうつむいた。青い瞳に淘々(とうとう)とたたえられた涙が今にも零れ落ちそうだ。
「シリアや。儂はな、アス・ノーマという存在はひととき女神から『預かりたもうたもの』だと思うのじゃよ。そのひとときの間に、人々は彼女が自分たちと何ら変わらぬ『人』であることを知ったはずじゃ。人を愛し、伴侶を得、妻となり、子をもうけ育む。それはまさしくシリュエスタの光たる姿そのものではないかの? 考えてみるがよい。そこにそなたが進むべき道への示唆が含まれているやもしれぬ」
ルセウスはそう言ってゆっくりとした動作で立ち上がった。
「口にせぬことは、時として誤解を招く。しかし真実をすべて率直に語ることが最良というわけでもないのじゃ。ゆえに迷いし時には己の中の姉に問いかけよ。さすればそなた
を光で照らしてくれよう」
言うやおもむろに礼拝堂の入り口を見やる。
「どうやら、使者が参ったようじゃな」
視線を追うと、大礼拝堂の入り口に人が立っているのが分かった。ルセウスは唇の端に笑みを浮かべ、シリアにもう一度視線を向けて目を細めた。
「たった一つの己の真実に拠って道を定めるがよい。運命に従いて生きるのが人間ならば、運命に逆らい生きるのもまた人の常なのじゃからな」
青い髪を撫で、彼はゆったりと神殿の奥へと戻っていった。それと入れ違いになるようにして、入り口にいた人物がこちらに歩み寄ってくる。
「ウィラード」
背中で揺れる長い黒髪、そして漆黒のマント。名を呼ぶと彼は小さく笑みを返してきた。
「さっきそこでおっさんと会ってよ、夕方の迎えを頼まれたんだ」
カガンの心遣いにシリアは小さく感謝を捧げた。しかしそれにしては来る時間が早すぎる。何か他に用があるのだろうかと首をかしげた瞬間、彼が先に口を開いた。
「シリアちゃん」
自分をじっと見つめる鳶色の瞳。真剣なまなざしが彼のそれに重なったような気がした。
「話があるんだ」
その言葉に逆らいがたい何かを感じ、シリアはただひとつ頷いた。




