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第Ⅴ章 ふたつなの英彦(えいげん)(3)

 むかしむかしヴィージという国がありました

 そこは地の果て天の果て

 あたりまえの景色が広がる場所

 あたりまえでないものが同化した場所

 平静として限りなく広大な国土

 青々(あおあお)と豊かに生える木々や草花

 なめらかに頬を撫でる穏やかなる風

 湧き出でて川を満たす金色の水

 はるかに望むは光輝く岩の山

 燦々とした光が降り注ぎ、神々しさにあふれている

 すべての生き物が互いを思いやり、すべての豊かさがそこに在る

 争いも、諍いも、過ちも

 生まれ出でようことのない平和な楽園


 ほら、地図をごらんなさい

 あなたには、ヴィージが見えますか



*******



 短い芝生の上にじかに腰を下ろして、キリムはぼんやりと空を仰いだ。

 抜けるような青空である。任務の間もこんな天気が続いていたが、やはりまったく別物のように感じた。街の雑踏が近く四方を建物で囲まれたこの場所からの方が、より空が高く遠く思える。手の届かない、高貴な天上の青だ。

 カマランから戻った次の日から、キリムはナタリフの家に厄介になっていた。十数年前まで貸部屋を営んでいたこの建物に、転がり込む部屋は余るほどある。隣に住む雑貨屋の小母さんは「やっと決心がついたのかい」などとからかってくれたが、ここに世話になっている理由は、彼らが考えているほど色っぽいものではなかった。

 向こうで過ごしたごく僅かな期間に、自分たちは様々な体験をした。生まれて初めて訪れた土地、魔物相手とはいえ紛うことなき本物の戦場。さらには数百年分の歴史の真実を目の当たりにしその肌で直に感じたのだ。ふた巡りが経った今でも、思い出すと震えが走る。魔法的に作られた異質な空間もさることながら、自分が歴史のうねりの中ではほんのかすかな存在でしかないこと、そして普段目にしている歴史は、まったくの表層にしか過ぎなかったのだということを痛感し圧倒されてしまう。

 そんな自分の目の前では、ナタリフの妹弟子であり事実上の娘でもある栗色の髪の少女――イチゴが、花壇の花に止まった蝶にじっと見入っていた。しばらくしてひらひらと飛び立った白い花弁を追ってその視線が空に向く。高く舞い上がり雲の白に溶け込んでしまったそれを見送って、今度は庭を散歩している夕焼け色のフェレットを捕まえようと走り出した。無邪気に駆け回る様子をぼんやりと眺めていると、静かに歩み寄ってきた青年――ナタリフがゆっくりと隣に腰を下ろした。ふわりと鼻先に漂った薬草の匂いに、ほんの少しだけ安心感が湧く。

「何を考えているんだい」

 いつもと変わらぬ調子で問われ、胸の中の澱を溜息と一緒に吐き出しながら答える。

「別に、何にも」

「なんにも、って顔じゃないだろ。はっきり言わないなんて君らしくもないなぁ」

 同じように木の幹に背を預け、彼は葉擦れの向こう側に広がる空を見つめた。

「ホントに何にもないの。考えることが多すぎて、どこから整理すればいいのかわかんない。だったら余計なこと考えないでいる方が疲れないし気楽でいいわ……」

 珍しく弱音を吐く様子に、そうだね、と一度は同意を見せて呟く。

「でもそれは、ただの逃げじゃないのかい」

 決して悪気はないのだろうが、彼の言葉はいつも自分の痛いところを突いてくる。自覚しているだけにむっとして、キリムはいささか挑戦的に切り返した。

「だったら、あんたはあそこで聞いた全部を、納得づくで受け止められるって言うの?」

「そんなこと、出来るわけがないじゃないか」

 ほらみろ、といわんばかりの顔にナタリフは苦笑を向ける。

「真実を聞くことがこんなに恐ろしいなんて、今までそんなふうに感じたことはなかったよ。真実はいつも、自分に正しい道を示してくれて、同時に知識欲を満たしてくれるものだと思っていたからね」

 そうして、きゃいきゃいと楽しそうに笑う娘に視線を移す。

「夕べも久しぶりにイチゴにせがまれて、寝かしつけに話してあげたばかりだって言うのにね。僕はもう、あの話を豊かに話す自信がなくなったな」

 当惑がありありと浮かんだ横顔に、キリムはもとより抱いていた不安が一層増すのを覚えた。

「あたしたちがこんな調子なんだもの。あの子なんか尚更だわ」

 そうしてひととき回想する。

 カマランから戻った次の日、アーツとともに『特命』を授かった面々はザイガンに呼び出された。始めは任務の詳細を報告する為に呼ばれたのかと思ったが、行ってみると意図は違っていた。報告自体もさることながら、彼は自分たちに一つの厳命を下したのだ。

『しばらくの間、おまえたちの身柄は私の名において保護させて貰う。別に石牢に閉じ込めようというわけではないから心配するな。普段どおりに生活してもらって構わん。ただし条件がある。分かっていようが余計な動作を起こすな、そして余計なことは口にするな』

 事実上の緘口令、そして綱紀に厳ぜよというその言葉には、命に従わねば命の保証はないとの示唆があった。すべてはいらぬ混乱を避けるため、そしてなにより彼の身を護るため――それを思えば全員が頷かざるを得ない。ザイガンはさらに加えて、しばらくの間は複数人で行動し王都から出るなと念を押した。

『アーツは? この子はどうなるんです』

 思わず聞いた自分の目の前で、ザイガンは彼に王城での無期限待機を命じ、その間は自分たちにも引き合わせぬと断裁した。

 当然自分はそれに真っ向から反発した。誰あろうシリュエスタの乙女を慮ってのことである。隠された真実に曝されて傷ついた彼女に、同時にたった一人のよりどころでもある彼との間を引き離すなど、こんな仕打ちはむごすぎると訴えたのだ。そうして総団長の後ろに控えて押し黙ったままの彼にも同意を促した。

 けれども彼は鳶色の瞳を伏せ、ただ一言『すまない』とだけ言った。

 その言葉に瞬間頭に血が上り、自分は怒りに任せてその頬を思い切りひっぱたいた。乾いた音が響いて皆が驚いた表情を見せたが、それでも彼は何も言わなかった。対峙した悲しげな鳶色の瞳。振り切った右手のじんじんとした熱さが、今もこの手に残っているような気がしている。

「あたし、あの時シリアの気持ちを代弁したつもりだったけど、それってただの驕りだったんじゃないかって思うわ」

「どうしてさ?」

「だって最後まで何も言わなかったもの。恨み言の一つも、懇願も。それをさしおいて、あたしなんかが……」

「じゃぁ君は、殴ったことを後悔してるのかい?」

「違うわ。ひっぱたいたことを後悔はしてない。あのぐらいやって当然よ」

 きっぱりとした物言いに、ナタリフは救われたような気がした。相手が誰だろうと理不尽さに立ち向かう――彼女らしい一発だったと自分も思う。

「でもシリアはそれをしない。前から思ってたけど、あの子本当に優しすぎる。負の感情を言葉にしたり行動に移したり、そういう術を知らないんだと思う。相手を思いやりすぎて、その分だけ自分に我慢させて、これでいいんだって納得させようとして苦しんでるんだと思う。でもそういう自覚すらもきっとないんだわ。だから、もしかしたらあの子、自分の気持ちまで……」

 最悪の考えに至って、キリムがぶるっと身体を震わせた。

「あの二人は、本当に似たもの同士だよ」

 ナタリフが呆れたような、それでいて羨ましそうに言う。

 アーツにも通じるところがある。人を思いやるがあまり、自分に必要以上のことを課している気がするのだ。それを成そうとするひたむきさと勤勉さには頭が下がるが、あまりにも厳然とした己への仕打ちに、傍で見ていて時々心配になる。年齢以上の物分りのよさに、危ういものを感じるのだ。

「どうしたらいいのかしら。どうしたらあの子たちにいい風を呼び込めるかしら」

「そうは言っても、僕らが間に入ってとりなすなんてことはできない。結局、二人次第にしかならないと思うよ」

 相棒の言葉に、非力さが改めて身に沁みる。ぐっと下唇を噛みキリムは膝を抱いて縮こまった。それが自己嫌悪に苛まれているときに彼女が見せる癖だと、長い付き合いの間にナタリフは悟っていた。

「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」

「なんだい」

「あんたは許せるの? アーツのこと」

「許せるわけがないだろ」

 およそ返ってくるまいと思っていた怒りを含んだ言葉に、キリムはぎょっとして顔を上げた。

「確かに特殊な事情だし、それが公になることで内外に与える影響が凄まじいってことはわかる。この世界の歴史を揺るがしかねない事態だ、軽軽しく口にすることではないってことも分かるよ、でも……」

 ナタリフはそこまで言って口をつぐむと、苦笑してゆるく頭を振った。

「止めておこう。どんな言葉を並べたところで恨み言にしか聞こえないからね。友人として話してくれなかったことを悔しく思う気持ちはあるけど、シリアちゃんをさしおいて責めようとは思わないよ。それにね」

「それに?」

「誰しも胸の中に秘密を隠し持っているだろうと思うとね。あんなものを一人で抱えて、今まで過ごしていたなんてと思うとね」

 時折大人びて感じることがあった。ふとした瞬間の表情に、手の届かないものを感じたことがあった。今になっては、戦場での落ち着き具合にも頷ける。彼は叫喚の満ちる戦場を幼くしてくぐらざるを得なかった、そうして実際くぐり抜けてやってきたのだ。その身に使命と国民の希望を抱いて。

 途切れた言葉の間に風が一陣吹き抜ける。さわさわと青葉を揺らす風に、キリムはふと己の信ずる女神の教えをそらんじた。

「我は伝えん、汝が抱く思いのすべてを。我は糧、汝が迷える背中を押さん」

 フォルメールの教義は『伝達』に重きを置く。伝えることで人は何かを感じ、人に感じさせることができるのだ。その行為がなければ何も始まらない。

 どうしたらいいの、あたしは。

 まるで真実を知ったときのシリアと同じ言葉を、心の中でつぶやいたそのとき

「ねぇパパ! ふぃりーつかまえたの!」

 突然ふってわいた少女の声に二人して驚く。目の前に立った彼女の腕の中では、夕焼け色がじたばたともがいていた。

「イチ、こっちおいで」

 うん、と少女は返事をし、キリムの膝の上に腰を下ろした。栗色の髪を撫でてやると嬉しそうに微笑む。

「ねぇ、イチゴ」

 問い掛けると、「なぁに? ママ」と振り向いた。

「もしもアーツが王子様だったら、イチはどうする?」

「キリム」

 ナタリフが思わずたしなめる。

「あーちゅおにいたん、おうじさまなの?」

 不思議そうに首をかしげ、うーんと唸って少し考え込む。眉間に皺が寄ったその表情を見つめ、二人で答えを待った。

「じゃぁイチはおひめさまになりたいな!」

 ぱっと輝いた表情にナタリフが驚く。一方キリムはその回答がしごく当然であるかのような表情を見せ、ぎゅっとイチゴを抱きしめた。

「そうよね。あの子も、そんなふうに言えるようにならなきゃ。自分のしたいことをしたいって、言えるようにならなきゃね」

 自分は心をつなぐ風の乙女。思いを伝え、そして後押しをするのが役目だ。

 混乱が失せ、やっと自分のすべきことが見えてきた。背を押してくれた少女と、傍らの青年、それから風の女神に心の中で感謝を捧げ、キリムはもう一度空を仰ぐ。

 後押しする風の援けを得て、高く青い空に今度こそ手が届きそうな気がしていた。



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