第Ⅳ章 青き潺湲(せんかん)(1)
ふた巡りほどが過ぎた。
まるで先般の魔物の急襲が夢であるかのような、そんな感覚さえ起こさせるほどに穏やかな日々が続き、市民にも安堵感が広がりつつある。
だがリシリタの駐在軍内は、共闘協定の発動に向け日に日に慌しさを増していた。
予測していたとおり、ヴェルジと駐在を悩ませていたカマラン市中の殺人事件は、シリアが倒れていた現場に残されていた、黒い獣の歯形と被害者の傷口の形が一致し、正式に解決したものとして周知されるに至った。それに伴い捜査本部は事後処理要員を残して解散され、神殿の捜査員達も駐在の特派員らも元の持ち場に戻りつつある。
そんな中、アーツ達特務隊には新たな任務が与えられることとなった。
イエンスから早馬に乗って届けられたザイガンの書状。それは駐帥であるマーラックに宛てられたものであり、その内容は特務隊の全員を駐在軍の指揮下に置き、マーラックに命令権を委任するというものであった。
元来特別領区の駐帥は、総団長の直下、副総団長と同等位の地位に当てられている。よって一行は正式に魔物踏破にかかる軍勢に参加することと相成った。
「総団長は私に、君等をひととき任せるとおっしゃった。国の要人である君とシリア嬢、君の友人達の命、そして我が駐在軍の精鋭たちの命――私が果たすべき責務はこの地の平安とそこにある命を護ること。そのためには共闘協定の再度の発動が不可欠だ」
駐帥執務室でマーラックはそう令達し、期待を込めた瞳をアーツに向けた。
「これは私の勝手な思い込みかもしれんが、総団長はクレードの意志を継ぐものとして君を送り届けてくれたのやもしれんな。頑なな砂漠の民を懐柔し得る人物……残念ながら私では力不足のようなのでな」
苦笑が浮くが、次の瞬間には統率者の顔に戻る。
「アーツ・ラクティノースと一隊に命ずる。共闘協定の発動にあたっての最後の障壁を排除せよ。今後は私の指示により、ニィルゥとの交渉とそのための情報収集任務に当たってもらう」
「心得ました」
「期待しているぞ、ラクティノース。どうかクレードの再来となって我等に希望を与えてくれ」
アーツは無言で一礼し、踵を返すと部屋を出た。
*******
ヴェルジ神殿の待合室には人気がなかった。長椅子が何台か置かれただけの待合室はいつもならごった返している時間だが、登記や届出などの受付日でない今日はがらんとしている。
仲間たちは再度情報を収集するべく市井へ散っている。アーツに付き添ってやってきたシリアは、彼が神殿長に面会している間、待合室へやってくると長椅子に腰を下ろした。大半が警邏に出ている神殿内は極めて静かで、およそ戦時下とは思えないほどにゆったりとした空気が流れていた。
このひとときの平穏を日常のものとして取り戻せるかどうか、それはすべて一部族の返答にかかっている。協定の発動か民の離間かの際にあって、友愛を司るシリュエスタの一信徒として何かできることはないだろうか。そして、その狭間に立った彼を支える手立てはないのだろうか。そんなことをぼんやり考えているうち、にわかに神殿の表が騒がしくなってきた。
「離せよ! ここにあの人が来てんだろ。ちょっと会うぐらいいいじゃんか」
「駄目だ。ここは子供の遊び場じゃないんだぞ」
突然の子供の声と制止する大人の声。何事かと気になって待合室から顔をのぞかせると、10歳ぐらいの少年が神官に両腕を掴まれてじたばたともがいていた。日焼けした肌に黒い髪と緑色の瞳。厳しい自然の中を生き抜く鋭さを持ったそれが、ふとこちらに向けられる。
「あの子は……」
シリアも思わず呟く。先の事件の夜、同じ現場に居合わせたあの少年に間違いない。すると彼もこちらを見止め動きを止めた。観念したと思ったのか、神官たちは皆ほっとした顔を見せて腕の力を緩める。
その次の瞬間、少年が勢いよく戒めを振り払って駆け出した。
「あ、こらッ、待て!」
伸ばされた手を軽やかな身のこなしでかわし、少年はこちらへ駆け寄ってくる。そうしてシリアの数歩手前で立ち止まると、それ以上何をするわけでもなくまっすぐに見つめてきた。母親と妹を同時に殺害された彼――一度きりの接点のはずなのだが、その緑色の瞳に映る光を遥か昔から見知っているような、そんな不思議な気持ちにさせられる。
「いったいなんの騒ぎだ、騒々しい」
突如ホールの中に響いた大声に皆が一斉にそちらを向く。奥から進み出てきたのは神殿長のブロッホだった。
「申し訳ありません。子供が神殿に押し入って参りましたので」
「子供?」
彼の後ろについていたアーツが進み出る。シリアの前に立つ少年を見止めると、興味深げに歩み寄った。
「神殿に一人で来るなんてどうしたんだ。度胸試しというわけでもないんだろう?」
何処の部族の者かは分からないが、悠悠とここに入れるほど親しげだとも思えない。頭を撫でながら笑いかけると彼はじっと見つめ返してから口を開いた。
「あんたがアーツ・ラクティノースだね」
「え? ああ。なぜ君が俺の名前を?」
「そんなことはいいからさ、おいらと一緒に来てよ。案内するから」
いぶかしげな表情でシリアが傍らから問う。
「案内って、一体どこへ?」
「あんたはアス・ノーマだろ。あんたも来てよ。会いたがってる人がいるんだ」
思いがけない要求に二人は顔を見合わせて思案する。しばしの間を置いたあと、アーツは彼に向き直った。
「いいだろう。君が俺たちを嵌めるために嘘をついているようには見えないしね。だが相手の名も知らずについていくことはできないな、そうだろう?」
柔らかに促す口調に、少年は一瞬大人びた苦笑を口許に浮かべた。
「<愚者>たる定めを継ぎし者。我らはニィルゥ」
「わかった。俺たちでなければならないんだな」
こくりと頷きが返ってくる。アーツは彼の頭に手を乗せて二三度撫でてやると、ブロッホに駐在への伝令を願い出た。
「どうやら機会が巡ってきたようです。父の名に恥じぬよう、努めてまいります」
そういったアーツの横顔にかすかに現れた憂いと不安に、シリアは神の御許にいるだろう母に願った。
父を支えたその力を、自分にも分け与えてくれるようにと。




