第Ⅲ章 愚者の刻印(3)
通りには人影がまばらだった。時を追って深まる闇に昼間の惨事が思い出られるらしく、普段なら書き入れ時の酒場でさえ早々に店を閉めてしまっている。所々に灯された共用ランプの明かりだけが道を照らし、昼の焼けるような暑さとはうってかわった肌寒い風に、羽織った肩掛けを胸元に手繰り寄せてシリアは身体を震わせた。
アーツを送り出した後、どうにも収まらない胸騒ぎにいてもたってもいられず、じきに戻ってくるだろうキリムに置手紙を残して外へ出たのだ。なぜこんなに心がざわつくのか自分でもよくわからなかったが、ともかく彼の姿を確認したい一心で小路を走る。
宿から屯所のある広場までは、ここを抜けて大陸街道に出ればあとはまっすぐだ。目前に迫った街道の明かりにほっと胸をなでおろし、ずり落ちた肩掛けをもう一度羽織りなおしたそのとき。
べちゃり。
耳に生臭い物音が届いた。左手の路地から聞こえたそれに不穏なものを感じて立ち止まると、闇に沈む路地の奥に目を凝らしつつそっと足を踏み入れた。
二歩三歩と進み目が暗がりに慣れてくると、何かが地面に散らばっているのが分かった。徐々にその輪郭がはっきりとし、そうしてそれが人の身体の形をしていることが分かったと同時に、鼻先に錆びた鉄の臭いが漂った。
おびただしいほどに流れ出た血の海に、どっぷりと浸かった人の腕や足。大きさ太さからすると子供のようで、散らばったそれらの傍には首のない胴体も転がっていた。
「な……に、これは」
「ぐるるるる」
呟いた瞬間聞こえた唸りに、はっと身構えそちらを向く。そこには体長が3メイズ(m)はありそうな全身黒毛の狼がいた。喉が喰い破られた女性の体を爪の下に組み敷き、引きずり出したはらわたを咥えている。
その口元の毛を伝って滴る生血の臭いに、シリアは吐き気を催し口元を押さえたが、ここでみすみす殺されるわけにはいかないとぐっと気を引き締める。もしかするとこの獣が、アーツが言っていた連続殺人事件の鍵を握るかもしれないのだ。砕けそうになる足腰を支え、唸りつつ微動だにせぬ獣を正面から見据える。血と同じ色の瞳は、じっとこちらを見つめ、額に埋められた黒い宝石もまた、まるで三つ目の眼であるかのようにこちらを見据えていた。
「おやおや、危ないねぇ」
そのときだ、背後から突然降って湧いた声にシリアは驚いて振り返った。街道から漏れ入る光の中にたたずむ影。それは特徴的な長い耳をもつ森の種族のそれに他ならなかった。
「いけないなぁ、女の子が一人でこんな暗いところを歩くなんて。恐ぁい人食い狼に襲われちゃうかもしれないよ?」
華奢と言えるだろう体躯に、肘に届く長さの髪。身なりからして男性であろうが声は随分と高い。
「あなたは」
警戒しつつ尋ねる。けれども彼はそれに答えず、困ったように口許に笑みを浮かべただけだった。
「見ちまったんだよね? お嬢さん」
発せられたそれに身の危険を感じて、シリアは咄嗟に身を翻した。がそれよりも先に彼が動き、瞬時に間合いを詰められて手首を取られる。続いて口に手をあてがわれそのまま近くの壁に身体を押し付けられた。
冷たい壁の感触と共に背中に襲ってきた鈍い痛み。歪んだ表情を覗き込むように彼が顔を寄せてくる。眼前に迫った端正な顔立ちの中に漂う冷徹さに全身をあわ立たせながらも、シリアはじっと彼の瞳を見据え続けた。
「今は何もしないから安心していい。でも次に会う時には俺と一緒に来てもらうよ。あの方もそれを心待ちにしておられるしね」
にこりと微笑み耳元に唇を寄せて小さく囁く。
「お付きの騎士殿にもよろしくね」
その言葉にシリアは慄然とした。どうして彼のことをと尋ねようと身をよじった瞬間、みぞおちに鈍い衝撃を感じ体がぐらりと傾いて意識が闇に落ちていく。青年の腕に倒れ込みながら、シリアは最後の抵抗にと耳の感覚を砥ぎ澄ました。
「もう撒餌は充分だろ。お前はお払い箱だ、いっそひと思いに逝きな」
「約束、ちガぅぞ!」
訛りのあるそれに共鳴する唸り。どうやら今の言葉は獣が発したものであるらしかった。
「うるさいんだよ。石の力で知能を維持してるだけのくせに」
直後青年が呪文のような文言を呟く。するとなにかがぱんと弾け、びちゃびちゃと飛び散る音が続いた。
「獣風情が、知ったような口をきくんじゃねぇ」
憎憎しげに吐かれた言葉。しかしシリアに与えられた猶予はそこまでであった。嫌が応にも暗闇に飲まれる瞬間、転がっていた女性の白い手が瞳に映る。
引き裂かれた手袋の下に覗いた手の甲。
そこには血潮のごとき紅い龍の舞い姿があった。
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「……ア、シリア」
遠くから自分を呼ぶ声がする。それに招き寄せられるようにシリアは覚醒した。ゆっくりと目を開けると、黒髪の青年が自分を抱え、心配そうに覗き込んでいるのがわかった。反対側にはドワーフの顔もある。
「アーツ。それにカガンも」
かすれた声で言うと二人はほっとした表情を見せた。
「大丈夫か」
うん、と答えながらみぞおちに鈍い痛みを感じ、自分の身に起こった出来事を思い出してはっとする。
「そうだわ、あの人たちは?」
そうしてすぐさまアーツの腕の中から身を乗り出す。彼の背の方を覗くと、路地の奥で数名のヴェルジ神官があちこちに布をかぶせていた。そこから担ぎ上げられた担架。そのには何かが焦げた跡がある。周りを取り囲むように広がる黒く変色した血溜まりに、シリアの体から力が抜けた。
その肩を支えてやりながら、アーツもカガンもかける言葉をひととき失った。生命を守護するシリュエスタの信徒にとっては目の前の命を救えぬことは耐え難い悔恨であり、許されざる罪と同義なのだろう。
「それにしても、なぜここにいる? 宿にいたんじゃなかったのか」
カガンが少しだけ怒ったような声色を含ませる。アーツも苦笑して続けた。
「ノイル駐帥次のところへ面会に行った帰りに伝令が飛び込んできてね。また事件が起こったと言うから直接現場を見にきたんだ。丁度カガンも屯所に来ていたから一緒にここまできたんだけど……君もいるとは思わなかったな」
その言葉にシリアはばつがわるそうな顔を見せる。
「宿で待っててくれって言ったろ? 犯人の狙いすら分かってないんだから、迂闊に出歩いたら危ないじゃないか」
「ごめんなさい。なんだか嫌な予感がして。あなたによくないことが起こるんじゃないかって気が気でならなかったから」
「まさか君にガンダルモートの素質があるとはね」
森から生まれし知識を司る男神ガンダルモート。理知と背中合わせにある第六感を冗談めかしたアーツの言葉に、シリアの表情が和らぎ少し生気が戻る。
「おい、こら入るな!」
そのとき突然捜査員の声が上がり、数名が誰かを取り囲むべく動いた。
「なにすんだ、放せよ!」
「現場に入るんじゃない! まだ保持作業中なんだぞ」
「そんなの知るかよ! 身内かもしれないんだ、邪魔すんな!」
大人たちに制されてじたばたともがいていたのは10歳くらいの少年だった。褐色の肌に黒い髪、緑色の瞳の少年は、持ち上げられた担架が目に入ると顔をこわばらせ動きを止めた。
「身内? お前がか」
捜査員のひとりが彼の様相を油断なく観察した後、大小それぞれの担架をこちらに呼び寄せた。
「いいか、気をしっかり持てよ」
ごくりと唾を飲み込む少年の目前で、二つの担架にかぶせられた布がそれぞれめくりあげられる。中のものを目にした瞬間顔から血の気が失せ、彼は口元を押さえて壁際へと走った。数度こみ上げるものを吐き出して、捜査員に背中をさすられながら次第に嗚咽を漏らし始めた。
「何で……なんでだよ。どうして母さんとミネアが……」
その後ろで布を元に戻された担架が運ばれていく。これからシリュエスタ神殿のいち部署である<死の司>へと移動するのだろう。そこは亡骸を安置し、魂が天に昇るその日まで現世での安住を約束する場所。殺人事件に関する遺体は一旦収容された後、ヴェルジの鑑識とガンダルモートの有識者によって検死される手順になっているのだ。
それを見送り、アーツは壁に力なく背を預けた少年に視線を移した。吐いたもので胸の辺りを濡らし、双眸から頬を伝った涙が、現場を照らす魔法の明かりを返して膝へと落ちていく。見るも哀れな様相に心が痛んだが、同時にかすかな違和感を覚えた。
「あの子」
同じように見ていたシリアが、ふと怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたんだ?」
「どこかで会ったような気がするの」
その言葉に、アーツは少年をもう一度くまなく観察し、自分の記憶と照らし合わせてみた。イエンスで砂漠の民を見かけることなどそうそうないはずだ。シリュエスタの聖地でもあるデ・ヴィサティローマの巡礼者に、似たような風貌の者がいたのだろうか。
「俺には覚えがないけど、誰か似ている人を知っているとか」
「それが自分でもよく分からないの。どこでどんなふうにして会っているのかも思い出せないけれど、雰囲気が誰かに似ている気がする」
その時咄嗟に浮かんだのは夢の中で見た少年だったが、髪の色などの特徴がまったく異なっている。それに彼の場合、むしろ似ているのはと、シリアは自分を支えてくれている横顔をそっとうかがった。そうするうち、少年は捜査員に腕を持ち上げられ、事情聴取のためか神殿へ連れて行かれようとしていた。
「ラクティノース殿」
突然背後からかけられた声に振り向くと、中年のヴェルジ神官が直立していた。
「捜査主任のジャミールです。ノイル殿よりお話は伺っております」
ああ、とアーツはシリアをカガンに任せて立ち上がる。
「アーツ・ラクティノースです。こちらは仲間のカガンとシリア・アス・ノーマです。こんなところでご挨拶申し上げることになろうとは。もっと早くに神殿に伺うのでした」
「いやいや。まさかこれほど早くに次が起こるとは、我々も予測しておりませんでしたから」
苦い笑いに、こちらも苦笑を返して現場を見渡す。
「正直度肝を抜かれました。まさかこれほどまでに大胆な手口とは」
「ええ。おおっぴらに事を起こしながら、犯人の痕跡がこれまでひとつも残らんかったのです。過去の検視結果で、傷口のありようから獣の類の仕業であろうとの予測までは立っていたのですが……まぁ、今回はそれが実証されたというわけですな」
彼の部下であろう捜査員たちは、横たわった黒狼の死骸保持に当たっている。下顎以外頭部のないそれに鑑識が目を凝らしているが、本格的な現場検証が始まるのは夜が明けてからのことになるだろう。やれやれといった表情で現場を見つめていたジャミールだったが、思い出したようにこちらに向き直った。
「そうそう、シリア嬢に神殿までご足労願いたいのですが」
確かに彼女は事件の唯一の目撃者である。事の始終とまでは行かなくとも何かしらを見ているはずだ。
「もしよろしければラクティノース殿もご一緒に。直接聴取をご覧になっていただいたほうが手っ取り早いでしょうし、シリア嬢にもその方がよろしいでしょう」
「そういうことならワシは一足先に宿に戻るとしよう。あいつらに色々と言い訳もせにゃならんだろうしな」
一向に戻ってこない自分たちを仲間達が心配しているかもしれない。言うなり歩き出したカガンの背中に、アーツは「よろしく頼む」と声をかけて見送った。
「では、参りますか」
「ええ」
ジャミールの後について二人は歩き出す。
人込みの中から密やかに向けられた視線――歪みを映したそれには気付かずに。




