第三章 『魔界の歴史』③
ルシファーが人間界より送ってくれた夕食は、ミカがこれまでに味わったことのないご馳走であった。皇帝専用となっている食卓でそれをすませると、彼女は、再び王座の間へと戻った。
「お待ち申しておりました。ミカ様」
王座の間に入るなりルキフグスが、丁寧にお辞儀をして彼女を迎える。
ルシファーからの叱りがあったからか、これまでの酔いは完全に醒めているようだ。
そのため、玉座についたミカの、
「あの、今、何時ぐらいですか?」
との問いにも、
「午後八時にございます」
と、すらりと彼は答える。
頼れる宰相の復活を、ミカが心より歓迎したことは言うまでもなかった。
「そうですか。もう夜なんですね」
食後で眠気を催したミカは、両手を上げて大きく伸びをした。
「はい。魔界の空はつねに赤紫色ですから、時刻の判断がつきにくいですな。ところで、ミカ様、こちらをご覧くださいませ」
ルキフグスが、手に持つ樫の杖を振る。
次の瞬間、床の上に六畳ほどはある大きな紙が現れた。
もちろん、この程度の魔法でミカが驚くことはもうない。玉座から下りてそちらへと近づくと、紙を指差し、彼女は尋ねた。
「これ、何ですか?」
「こちらは、魔界の全形を描いた地図にございます。ご覧のとおり、魔界は、横長の菱形に近い形となっておりまして、ミカ様の城の位置は、ここ。顔を西に向けて建っております」
「ここ」とルキフグスが杖で示したのは、地図の東側だった。
「じゃあ、あの仔犬がいたところは?」
「ケルベロスは城の裏手ですから、さらに東です。そこから、大門を通ってカーブした螺旋状の階段が天界まで続き、ちょうど魔界の中心の真上に、神が鎮座しております」
菱形の右の頂点に杖の先を当てると、ルキフグスは、それを浮かせてくるくると回しながら移動させ、地図の中央で止めた。
その途端、ミカの動きも止まる。
「そこって、もしかして……」
「お気づきになりましたか。そうです。屋上テラスにて、ミカ様が赤炎魔法を放たれた場所にございます」
「ということは……」
「はい。ミカ様の魔法は、見事、神に命中致しました」
「え、ちょっと待ってください。じゃあ、神様は、神様はどうなったんですか?」
焦るミカとは対照的に、落ち着いた様子でルキフグスは返した。
「ご安心ください。ミカ様がお使いになったのは、赤炎魔法の中でもごく軽度のもの。神にしてみれば、尻に針刺された程度にしか感じておりますまい」
「でも、いきなりお尻に針なんか刺されたら、私でも怒りますよ」
「まぁ、誰でもそうでしょうな。いくら寛容なだけが取り柄の神とはいえ、さすがに怒るかもしれません。さりとて、ここは魔界にございます。天界より神が降りてくることなど考えられません」
「そんなこと言って、相手は神様ですよ。あそこに撃つように指示したのはルキフグスさんなんですから、怒られたら、きちんと責任を取ってくださいね」
ミカが頬を膨らませる。
小さく笑ってルキフグスは答えた。
「はい。この命を賭してでも必ずお守り致します。何せミカ様は、ルシファー様のお気に入りでございますから」
「私がルシファーさんのお気に入り? それはないですよ。だって、私は、そのルシファーさんの代理で魔界に送られたんですよ」
ミカが大きく首を振る。
だが、それでもルキフグスは、言を曲げようとはしなかった。
「確かに、ミカ様のお立場からすれば、今回の件は、人間界に戻ることと引き換えに、魔界統一という面倒を押しつけられた。そのような形となることでしょう。しかしながら、それは間違いにございます」
「間違い?」
「左様。何故なら、私ども魔物は、基本的に人間を嫌っておりますから。進んで拘うことはございません。それは、魔物を呼び出す『召喚大図』を、ルシファー様が灰になさったことからも、お分かりになるかと思います」
「じゃあ、どうしてルシファーさんは、ルキフグスさんの代わりに病院の屋上に現れたんですか? 人間が嫌いなのなら、そんなことをする必要は……」
「そこでございますよ。私が、ミカ様をルシファー様のお気に入りだと申し上げたのは」
「どういう意味ですか?」
ミカが首をかしげる。
「実は、ルシファー様や私は、昔は天界に住む天使でございました。そのため、人間の伝えてくる念の波長というものに、今でも敏感なのでございます。まぁ、“念のフィーリング”とでも申し上げましょうか」
「ルシファーさんと私は、その“念のフィーリング”が合った」
「そのとおりです。それゆえ、ルシファー様は、ミカ様に会いにこられたのです。そして、念の波長の合う理由が、貴女様のお名前にあることにも、ルシファー様はお気づきになりました」
「私の名前?」
「はい。天音ミカというお名前です。それは即ち、天来の福音を齎す天使、ミカエル」
「あ、その言葉、ルシファーさんも言っていました。でも、その時は、何だか怒っていたような……」
ミカが、屋上での出来事を想起する。
ルキフグスは言った。
「いいえ。お怒りだったのではなく、戸惑っておられたのでしょう。ミカエルの“エル”を取った人間が、自分を呼び寄せたことに」
「ミカエルの“エル”を取る? どういう意味ですか?」
ミカが大きな瞳をぱちくりさせる。
すると、ルキフグスは、
「これは、人間界の神話にも登場するほどに有名な話で、多少長くなりますが……」
と前置きし、魔界のその誕生について話し始めた。




