逃れられない運命
気がついたとき、おれは自分の部屋の布団で寝ていた。
頭が混乱している。あれは夢だったのだろうか。
カーテンの隙間から、細く光の粒子が部屋のなかへと注いでいる。目を細めてしばらく埃がキラキラと舞っている様子を眺めていると、思わぬ方向から声が聞こえてきた。
「気がつかれたんですね」
後方を振り返ると、キッチンのところで宮下さんが立っていた。慌てておれが起き上がるのを、宮下さんは手を目の前で広げて制した。
「ああ、そのまま。ゆっくりしていてください。すみませんね。勝手に部屋のなかまでお邪魔してしまって」
「あの、どうしてここに……? ここ、おれの部屋ですよね?」
「ええ。そうなんですけど、あなた、自分の身に起きたこと、覚えてらっしゃらないんですか?」
「おれの身に起きたこと……?」
おれは記憶を反芻する。昨夜は早めに床に就き、そのまま眠ってしまったはずだ。しかしその後、夜中に目が覚めてしまって……。
そこまで考えたとき、おれの記憶は急に靄がかかってしまったように曖昧模糊となってしまった。
なにかものすごく恐ろしいことがあったような気がするのだが、詳しいことが思い出せない。
「あの、おれ、なにかしでかしたんですか? いまいち記憶がはっきりしないんですが……」
おれの言葉に宮下さんは目を何度か瞬かせた。
「あなた、夜中に202号室で倒れていたんですよ。叫び声が聞こえたので、びっくりして駆けつけたんです。幸い、あなたも寝ているだけだったようなので、酔っ払ったか寝ぼけてしまったのだろうと、203号室まで連れてきて寝かせたんです。朝になったので、また様子を見にきたところなんですよ」
それを聞いて、おれはここ最近奇妙なことが身の回りで続いていることを思い出していた。そこで念のためにと、思いきって宮下さんに尋ねてみた。
「あの、このアパートってもしかしてなにか曰く付きだったりするんですか?」
「え? さあ? よく知りませんが、なにかあったんですか?」
「なんか、ここに越してきてから奇妙なことが続いているんです。カリカリと物音が聞こえたり、金縛りにあったり。そういえば、昨夜隣の部屋からなにか水の滴るような音を聞いたんです。その前も、ドンと壁を蹴るような音がしていました。……隣の部屋、誰も住んでいないはずですよね?」
「ええ。誰もいないはずですけど……」
「そうですか。そうですよね。だけど、だとしたらあれはいったい……」
言葉を続けながら、おれは少しずつ昨夜のことを思い出していた。
どこからか聞こえる水の滴るような音。それを確かめるために、おれは202号室の部屋の扉を開いた。
そしてそこでおれが見たものは――。
そこまで思考が及ぶと、またなぜか記憶が白くかき消された。
なにか大変なことがあったような気がするのに、それがなんであったのか思い出せない。
「石田さん? 大丈夫ですか? やっぱり体調が思わしくないのかもしれませんね。幸い今日は土曜日ですし、石田さんも会社休みですよね。今日は出掛けるのは控えて、部屋でゆっくりなさったほうがいいかもしれませんね」
「ええ。そうすることにします」
「では、私はこれで。お大事になさってください」
そう言い残すと宮下さんは去っていった。
しばらくしてから、おれはむくりと布団から立ち上がった。すると、酷い倦怠感のようなものが全身を襲ってきた。なんだか酷く疲れている。どうしたというのだろう。
おれはとりあえず顔を洗おうと、洗面所へと向かった。
重い頭を持ち上げ、壁にかかっている鏡を見つめる。
そこには、とてもやつれた顔をした男の顔があった。そんな顔をぼうっと見ていると、ぎょっとおれは目を剥いた。
カリカリカリ。
耳障りな音が聞こえる。
ぴちょん。
またどこかで水の滴るような音。
すっと部屋の温度が下がったような気がした。
つうっと、右側の肩を誰かの指が滑っていく。そしてそれは首もとへと移動し、やがておれの顔を撫でていった。
鏡に映っているその手は青白く、血管が浮き出ていた。爪はボロボロで、生きているものの手ではありえなかった。
恐怖が背筋を駆け上がる。
しかし鏡からどうしても目が反らせない。なにかに魅入られたように、おれは少しずつ姿を現そうとしているソレを見続けていた。
吐息が耳の裏を撫でていく。生温かい腐臭が鼻をついた。
見たくない見たくない見たくない!
おれは懸命に目を閉じようとする。しかしそんな努力を嘲笑うかのように、ソレは言った。
『あなたが悪いのよ』
鏡のなかで、目が合った。