滴り落ちる音
夜がきた。
今日は昨日の妙なことが夢だったのかどうか確かめるため、酒は飲んでいない。
電気をつけたまま、布団に寝転がる。
天井の木目はただの木目だ。昔よく祖母の家で木目が人の顔のように見えると怖がっていたことを思い出す。
隣の202号室との間の壁に耳を澄ます。
今はなにも聞こえない。
当たり前だ。隣には誰も住んでいないのだ。
やはり昨日のあれは自分の気のせいだったのだろう。きっと疲れて変な夢を見てしまったのだ。
おれはそう納得し、電灯を消した。
やはり明るいままでは寝るにも寝られない。
ぴちょん。
夢うつつのなか、なにか水が落ちるような音を聞いた。水道の蛇口でも締め忘れていただろうかと、寝ぼけ眼のまま、おれは布団から起き出した。
キッチンの流し台の蛇口はちゃんと締まっていた。トイレも風呂も確かめたが、どこも水が落ちている様子はない。しかし、先ほどから水の滴り落ちる音はずっと続いたままだった。
「この部屋でないということは、隣の部屋から……?」
思い付きで口にしたが、その推測の気味の悪さに、思わず身震いが走った。
「隣の部屋は空き室のはずだ。水道だって止められているはず。水の音なんてするわけがない」
しかし、だとしたらこの音はいったいなんなのだろう。
ぴちょん。
ぴちょん。
雨も降っていないのに、雨漏りなどしているわけがない。
だとしたら、どこからこの音は聞こえてきているのだろう。
おれは耳を澄まし、水音の響く方向を探した。
ぴちょん。
近い。けれどこの部屋ではない。
ぴちょん。
壁に耳を当てる。
ぴちょん。
気のせいか、先ほどより音が大きく響いたように感じた。
おれはどうしようもなくなにかに急き立てられるような気持ちになり、ついに玄関を出て、隣の202号室の部屋の前に立った。
鍵は締まっているはずだと頭では思うのに、手はなにかに操られてでもいるかのように、その部屋のドアノブへと伸びていく。
心のどこかでいけないと訴えている。開けてはいけない。この先に行ってはいけない。
なのに体は勝手にドアノブをひねり、ガチャリという音を聞いていた。
202号室の扉は開いた。
部屋のなかは当然のように真っ暗だった。おれは自分の部屋から懐中電灯を取ってきて、 部屋のなかを照らしてみた。
ぴちょん。
水の音がさっきよりもはっきりと聞こえてくる。
やはり音はここから響いてきているのだ。
勝手になかに入ることに多少抵抗はあったが、どうにもこの音を止めないと気がすまない。さもないとこのあと寝られる気がしなかった。
おれは意を決し、202号室の部屋のなかへと足を踏み入れていった。
懐中電灯で照らす部屋のなかは、殺風景なものだった。
当たり前だ。ここには現在誰も住んでいないのだ。殺風景でないほうがおかしい。
ぴちょん。ぴちょん。
先ほどから続く水の音は、この部屋に入ってからはっきりと聞こえてきた。
やはりこの音はこの部屋から聞こえてきているのだ。
おれはキッチンを探した。おれの部屋と同じ間取りの部屋である。すぐにそれは見つかった。
しかし、シンク内を懐中電灯で照らしてみるも、水で濡れているどころか乾ききっているように見えた。
ではトイレか浴室だろうかと、そちらも確かめてみた。だがいずれも水が滴っているところは見つからなかった。
他に水のあるところなど、なにかあっただろうかと、おれは部屋の真ん中に戻り、考えていた。
するとそのとき、
ぴちょん。
大きな水の音が、すぐ近くから聞こえてきた。
はっとして、おれは周囲に懐中電灯を巡らせた。
なにもない。
そう思ったその瞬間。
ぴちょんと、おれの首筋になにかが滴り落ちてきた。
おれはびくりと反応し、首筋に手を当てた。恐る恐るその手についたものを懐中電灯で照らす。
そしてそこで見たものは、おれの背筋を氷点下に凍りつかせた。
「血……!?」
赤い色が、手のひらに滲んでいた。足の先からなにかが這い上がってくるような感覚がし、おれの体をがくがくと震えさせていった。
ぴちょん。
音はすぐそこから響いていた。
床を懐中電灯で照らすと、先ほどまで気づかなかったのが不思議なくらいに、辺りには赤い雫が散らばっていた。
見てはいけない。身体中が警報を鳴らしている。これ以上ここにいることは危険だ。
そう思うのに、首は意志とは反対に、上へと持ち上がっていった。
ぴちょん。
滴り落ちる雫。
ぴちょん。ぴちょん。
それは赤い雨のようで。
視線が天井まで移動したとき、おれの全身は、恐怖が支配した。
ぴちょん。
おれの頬を生温かいなにかが濡らした。
それは、天井にいるソレから落ちてきていた。
長い髪を下に垂らしながら、天井にへばりついているのは、女のようだった。赤と白の斑模様のワンピースを着ている。
その胸には、深々と包丁が刺さっており、そこから赤い雫が先ほどから滴り落ちていた。
それが赤い血であることを理解し、女が着ている斑模様の赤が血の色であることに気づいたおれは、いつの間にか止めていた息をひゅっと吸い込むと、喉の奥から恐怖の叫びを迸らせた。