裏野ハイツの住人
ピチュピチュ。
鳥のさえずりがどこからか響いてきた。カーテンの隙間から、明るい日差しが部屋に差し込んできている。
おれは朝が訪れたことに気がついて、ゆっくりと目蓋を開いた。
身を起こすと、全身がびっしょり汗で濡れていることに気づいた。
そして、夜中のことを思い出していた。
あれは夢だったのだろうか。
あの不快な物音と、金縛り。
まったく体を動かすことができなかった。
きっと疲れていたのだろう。だから奇妙な夢を見てしまったのだ。
おれは自分自身に言い聞かせるようにうなずいていた。
部屋を出ると、前日と同じように201号室のお婆さんが玄関の外の廊下を箒で掃いていた。おれの存在に気づくと、これまた昨日と同じようにこう話しかけてきた。
「おはよう。昨日はよく眠れたかい?」
その質問に思わず言葉に迷う。
結局無難にお茶を濁す感じでごまかした。
「……まあ、ボチボチです」
「そうかい。それならいいけど、前の住人だった人がね。夜眠れなかったという話を聞いてたからね」
それを聞いて、おれは思わず食いついた。
「前の住人が? やっぱりあの部屋なにかあるんですか?」
おれの反応にお婆さんは先ほどより目を大きくしておれの顔をじっと見つめてきた。
「なにか気になることでもあった様子だね」
「え、えーと、いや……。実は昨夜はあんまりよく眠れなくて。妙な夢を見たせいかもしれませんが」
「妙な夢?」
「はい。夢だったのかどうかもわからないんですが、金縛りにあって、カリカリと気味が悪い音がずっと耳元で聞こえるんですよね。まあ、これといって他にはなにもなかったんですけど」
お婆さんはおれの話を聞き、ちらりとおれの後方に目をやった。
「やっぱりあれかしら……」
「え? なにか心当たりでもあるんですか?」
すかさず尋ねると、お婆さんは困ったように眉を寄せて、首を振ってみせた。
「ああ、なんでもないんですよ。それよりあなた、そろそろ行かないといけないんじゃ?」
「え、あ! そうでした。早く行かないと電車に乗り遅れる!」
おれはお婆さんの様子に不審なものを感じたものの、そのままその場を後にした。
夕方、なんとなくアパートに帰るのに足が進まない気持ちだったが、帰らないわけにもいかない。
せっかくの新居なのだ。昨夜のことは単なる気のせい。きっとそうに違いない。
アパートの前までくると、また昨日と同じように宮下さんに会った。
「こんばんは。また会いましたね」
ニコニコと愛想よく笑いかけてくる。
「こんばんは」
「会社帰りですか。私もです。お互い疲れますな」
「そうですね」
おれはなんとなくほっとした気持ちになり、彼と世間話に興じることにした。
「どうですか? 少しはこのアパートにも慣れましたか?」
「ああ、まあ少し。ですが、まだまだわからないことだらけですね」
「例えばここの住人のこととか?」
宮下さんがそう言うので、思わずうなずいていた。
「そうなんです。まだちゃんと挨拶にもうかがってなかったので、どの部屋にどんな人がいるかとかまだよくわかっていなくて」
「ああ、そうなんですね。良かったらこの裏野ハイツのことお教えしますよ。私がわかる範囲でですが」
「それは助かります。是非お願いします」
そして宮下さんは話し始めた。
宮下さんの話では、101号室には宮下さん、102号室には一人暮らしの男性、103号室には小学生の子供のいる親子三人が住んでいるということだった。
そして201号室にはあのお婆さんが住んでいる。
「202号室には誰か住んでいるんですか?」
「いえ。あそこも空き室になってたはずですよ」
「え……?」
おれは宮下さんの言葉に耳を疑った。
「それ、本当ですか? 202号室には誰も住んでいないって」
「本当ですよ。なんなら大家さんに確認しましょうか?」
「あ、いえ。いいですいいです。ただのおれの思い違いで」
「そうですか」
宮下さんと別れたおれは、アパートの階段を上りながら、気味の悪さを全身に覚えていた。
昨日確かにおれは隣の壁がドン! と鳴るのを聞いた。あれは隣の住人が壁を蹴ったかなにかした音かと思っていたが、今の宮下さんの話を信じるなら、その部屋には誰も住んでいないということになっている。
では、あの音はどうして鳴ったのだろう。ただの家鳴りにしては大きすぎる音のように思えた。
階段を上りきると、そこには各部屋のドアが並んでいた。
その真ん中の部屋。202号室。
不穏な思いを抱きながら、おれは自分の部屋へと帰っていった。