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引っ越してきた男

 裏野ハイツ203号室。


 今日からここがおれの住み処だ。築30年と建物は古いが、最寄り駅まで徒歩7分、近くにはコンビニもあり、利便性が高い。家賃も他の物件と比べたら安くて手頃だ。

 他の物件を探すのも面倒に思ったおれは、すぐにその物件を契約した。

 だが、入居してすぐ、おれはこの物件を選んだことを後悔することになる。






「おはようございます」


 おれが勤務先の会社へ行こうとドアを開けると、201号室のお婆さんが気さくに挨拶をしてきた。


「おはようございます。今日もいい天気ですね」


 おれは無難にそう返し、そそくさとお婆さんの脇を通り抜けようとした。


「よく眠れたかい?」


 お婆さんはなおもおれに話し掛ける。早く行きたいのはやまやまだが、入居したての身としては、長年ここに住み続けているお婆さんを無下にするわけにもいかなかった。


「はあ、まあ」


 一応返事をすると、お婆さんは意味ありげに後方を振り返った。その視線をたどると、202号室のドアが見えた。

 なんとなく不気味なものを感じたが、おれは急いでいることもあり、「じゃあ」と言い残して階段を降りていった。






 午後7時過ぎ、会社からの帰りの際、近くのコンビニで弁当を買ってアパートへ帰る。敷地内に足を踏み入れた途端、同じ裏野ハイツに暮らす101号室の宮下さんという50代くらいの男性が待ち構えていたように声をかけてきた。


「こんばんは」


「こんばんは」


 そのまま通りすぎようとすると、おれを引き留めるように宮下さんはこんなことを言ってきた。


「どうですか。この裏野ハイツの住み心地は」


「え? あ、まあまあですね」


 無難な答えを返すと、宮下さんは愛想の良さそうな笑みを浮かべた。


「そうですか。それは良かった。実はなかなかあの部屋の住人になった人、長続きしないんですよ。せっかくこうして同じ屋根の下に暮らしているんですから、仲良くしたいなと思ってるんです。石田さんはそんなに引っ越しが好きとかそういうんじゃないですよね?」


「ええ、まあ……」


「そうですか。それなら良かった。これから仲良くやっていきましょう」


 宮下さんが手を差し出してきたので、一瞬ためらったが握手を交わした。

 随分気さくな人だが、悪い人ではなさそうだ。自分はそんなに人付き合いが得意なタイプではないが、同じアパートの住人とは仲良くやっていたほうが後々のためにもいいだろう。


「宮下さんは、こちらにはお一人で?」


 そう訊ねると、宮下さんは一瞬間を開けたあと、こう話した。


「実はもう一人いるんですよ。でも、かなりシャイなやつでね。なかなか外に出たがらないんですよ」


 なんとなく宮下さんがその話題に対してあまり触れられたくないような感じがして、おれはそれ以上そのことについて尋ねるのをやめた。


「それじゃまた」


「おやすみなさい」


 おれは宮下さんと別れると、階段を上って自分の部屋へと入っていった。






 部屋でテレビを見ながら弁当を食べる。三十路を過ぎての独り身の寂しさを、こういうときに無性に感じる。コンビニで買ったデミグラスソースのハンバーグ弁当は、しかしながらそれなりに美味しい。一緒に買ったビールのプルタブを開けると、プシュッといい音がした。

 ここは、おれにとっての新天地だ。貧乏暮らしでも、ここには自由がある。きっとおれの人生は、ここからいい方向へと向かっていくはずだ。


 ドン!と隣の壁から音が鳴った。また隣の住人がなにかしているらしい。隣との壁が薄いのか、よくそんな物音が聞こえてくるのがこのアパートの難点だが、まあ家賃の安さと利便性を考えればそのくらいのことは我慢せねばなるまい。

 ビールを飲み干し、畳に寝転がる。視線の先には、古びた天井が見えた。木目模様がなんとなく気味が悪い。


 そのとき、視界の端で、なにかが動いたような気がした。思わず目を擦るが、特に天井になにかがいるということはなかった。


「ちょっと酔いでも回ったか?」


 今日はさっさと寝たほうがよさそうだと、その日はいつもより早めに風呂に入り、布団に入ることにした。


 夏の夜は寝苦しいものだが、この部屋には備え付けのエアコンがついていた。それもこの物件を選んだ理由のひとつだ。

 さっそくおれはエアコンの電源を入れる。タイマーをセットし、適度なところで切れるようにしておく。

 寝る準備が整ったところで、部屋の電気を消した。






 あなたが悪いのよ。


 彼女は言った。もうおれにはなにも期待していないという顔をして。

 そうさ。おれにはもうなにもない。ひっそりと、町の片隅で微かに息をしているしかない。

 そんなのがおれにはお似合いだ。


 さよなら。

 そういった彼女の後ろ姿を思い出す。なんの未練もなく、なんの躊躇もなかった。


 悪いのはおれ。きっとそうなのだろう。

 どこでどう道を間違えたのか、今となってはもう考えても意味のないことなのだが。






 夜半に目が覚めた。じっとりと体が汗ばんでいる。

 エアコンのタイマーが切れてしまったのだろう。もう少し切れる時間を遅くしておけば良かった。

 喉に渇きを感じ、水を飲みたいと思った。体を起こそうと力を入れてみる。しかし、なぜかぴくりとも体が動かなかった。

 そのとき、なにか物音が聴こえてきた。




 カリ。

 カリカリ。




 なにかを引っ掻くような微かな物音。




 カリカリカリ。




 耳の奥に響いてくるそれは、背筋をむず痒くするような不快な響きで。

 おれは耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、依然として体の自由はきかなかった。




 カリカリカリカリ。




 嫌な音は続く。

 じっとりと全身から冷たい汗が吹き出す。

 苦しい。

 声が出せない。




 カリカリカリカリ。




 音は次第に大きくなる。




 カリカリカリカリカリカリ。




 耳のなかで虫が暴れているみたいだ。

 なんだ。この部屋になにかいるのか?




 カリカリカリカリカリカリカリカリ。




 天井の木目がグルグルと回っている。体が重い。自分の体の上になにかがずしりとのしかかっているようだ。




 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。




 やめてくれ。

 見たくない。聞きたくない。

 ここから逃れたい。

 おれがなにをした。




 いったいおれがなにを。





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