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アイランド  作者: 右利きのアイツ
1/2

プロローグ

1,



明日から夏休みだ。つまり今日は高校の終業式だ。現在午前十時である。おわかりいただけただろうか? そう。

「寝坊した……」

夏休み前の終業式である。


T県の南西に海を埋め立てて開拓された海上都市プルタウン。人口三千人弱の小さな町だがインフラ整備の徹底されたこのプルタウンではガス、電気、水道など全てのパイプラインが街のど真ん中に集められ維持管理されている。もちろんWi-Fiも全域カバーだ。

小学校三年生のときに家族三人で移住してきた当初はそれなりに胸は高鳴った。

まだ出来たばかりで道も建物も新しく、少し自転車で走ればどこからでも海がみえる。それまで田んぼと山ばかりの田舎暮らしだっただけに感動はひとしおだったが、冷めるのも早かった。

海が嫌いなわけではないがもともと山暮らし的なライフワークだったという事もあって八年経った今でもこの街に馴染めていないでいる。眺めはいいし、水平線の向こうに沈んでいく夕日を綺麗だとは思う。しかしどうしても違和感が拭えない。清潔な街。整備された公園の緑。抜けるような青い空。何もかもが用意されていてまるで……。

「飼われてるみたいだ」

口に出して無気力に笑ってみる。飼われてるって誰にだよ。国か? それとも総理大臣か? なんなら宇宙人ってのもおもしろそうだ。

そんな馬鹿なことを考えながら学校に向かう俺の顔には感情らしいものがまったく浮かんでなかった。飼育ケースのなかでもがくマウスが頭にこびりつく。

「相変わらずつまんなそうな顔してんな。なにが楽しくて生きてんだお前」

字面に直したら品のない野郎の言葉だが驚くことなかれ。これは十七歳の現役女子高生の言葉である。

「うるせぇよ、ほっとけ。ってか、お前も寝坊かヒカル」

「馬鹿いえ。心優しいヒカルちゃんは名前負けしちゃってる勇村くんを待っててあげたんだよ。どうだ嬉しいだろ」

「そうか寝坊したのか」

「あ、おい、流すな! 恥ずかしい!」

「名前負けとかいうからだ。バーカバーカ」

「ぅううーっ!」

そんなこんなで子供っぽい言い合いをしながら校門の前までいくとあら不思議。生活指導の田上先生が真っ赤なお顔で立っておられます。先生。いま終業式中では?

「勇村ぁ! 伊緒利! 寝坊したうえイチャつくなぁ! うらやましい!」

なににキレてんだこの体育教師は。じゃなくて。

「先生! イチャつくならもっとオッパイ大きい方がいいです!」

「私ももっと顔のいい男を希望します!」

「立ってろ!」

言い残して鼻息荒く去っていく生活指導のニラレバこと田上幸雄先生。たぶん今日の朝食もニラレバだったのだろう。おっさんくさいし暑苦しいが、割と後腐れなくあっさりしている四〇代の男だ。きっと俺らのことを待ってくれていたに違いない。

「あいつ結構いい奴だよな」

寝癖のついた長い金髪をわしゃわしゃしながらヒカルがいう。俺や彼女のようないわゆる劣等生に構ってくれる教師は、この学校には珍しかった。

「ユウもヒカルも馬鹿だよな。最後の日くらい寝坊すんなよぉ」

途中参加した式を終えて野球部の部室に顔をだすと、学校一の馬鹿に馬鹿といわれた。刈りたての坊主頭が憎らしい。

「そういうお前はどうだったんだよ。どうせ千田のことだからぎりぎりだったんじゃないのか?」

「ふっふっふっ。そんなこともあろうかと思って、昨日は部室で夜を明かしたぜ!」

「…………」

泊まったのかコイツ!?

「馬鹿だ! ここに馬鹿がいるぞぉ!」

「なんでだよぉ。これなら絶対に寝坊しないし天才だろぉ?」

ゲラゲラと爆笑するヒカル。自慢気に胸を張る千田。俺ってコイツらと同じ学校通ってんだよなぁ……自信なくすわぁ。

「もう、びっくりしたわよ。朝練の準備しに来たら千田くんが寝てるんだもん。とうとう自分の家もわからなくなったのかと思ったじゃない」

マネージャーの由樹が呆れて溜息をつく。さっきまで式に出ていたはずだが既に学校指定の青ジャージに着替えて髪をポニーテールに結わえている。新設の弱小野球部には仕事のできるマネージャーは心強い。

「由樹、、今年は試合勝てそうか?」

「難しいわね。夏の大会も地区予選敗退で私達はもう終わっちゃってるし。一年生も今年は二人しか入ってくれなかったし。せめて勇村くんが登板してくれればねぇ……」

さりげなくジャブをいれてくる辺りなかなか気を許せない。幽霊部員の俺には少し苦手な子でもある。

「べつに俺がいたって変わらねぇって。どうせ野球部建ちあげるときの頭数だろ。そもそも練習もしてない奴をニラレバが出しちゃあくれねぇさ」

「またそうやって逃げる。この部で一番上手いのは勇村くんじゃない。たしかに田上先生は厳しいけど、あなたがベンチにいるだけでもみんなの士気ってあがるのよ」

そうはいってもなぁ。チームプレーの下手な俺は曖昧に笑ってうやむやにする。連携自体が出来ないわけではないが、マウンドに立つと自分のことで頭がいっぱいになってしまうのだ。やはり野球は横からみてるかゲームにかぎる。寂しくなんかない。

「それより他の奴ら遅くないか? いくらウチの部がゆるいからって一年が遅れるのはマズイだろう」

「そうだぜ。早く練習したいぜ。みんな誘って筋トレしようぜ」

いや、そうじゃなくて。っていうか、筋トレは一人でもできる。

引き留めようとして言葉を呑み込む。千田の相手をまともにしてたらこっちが保たない。馬鹿の相手は一年生に任せよう。

バットとグローブを提げてスパイク履きのまま千田が校舎に駆け込んでいく。お前、筋トレするんだよな。フル装備で。

「本当に馬鹿よねぇ。まぁ、野球が好きなのは伝わるけど」

「いいんだよ。千田は馬鹿で。あいつが眼鏡かけて真面目なこといってたら気持ち悪いだろ」

想像してみてたしかにと思う。気持ち悪いだけならまだしも、そんな千田を見てたら自尊心が傷つきそうだ。

「ヒカルちゃんもキツいこというねぇ。同感だけど」

「ははっ。とりあえず部員集めは千田に任せてボールでも磨いてようか」

「そうね。じゃあ私、ボール持ってくるから」

「手伝うよ」

「大丈夫。朝のうちに倉庫から出してあるから''二人は''ゆっくりしてて」

ヒカルに見えないようにグッと親指を立てて部室をでていく。変な気を遣って。やはりどうにも誤解されているらしい。

俺、勇村悠と伊緒利光は小三からの付き合いだが、それは友人としての関係だ。

この街に来てはじめて遊ぼうと誘ってくれたのがヒカルだった。あみだ被りの野球帽に日に焼けた肌。擦り傷だらけの膝小僧が印象的で最初は本当に男の子だと思った。真夏日に半袖短パンて駆け回ってる女子なんていまどき天然記念物だ。

男勝りな言葉遣いのわりに合理的な考え方をする所が一緒にいて居心地のいい理由だったろう。同年代の女子達は流行りのアイドルやファッション誌に熱をあげていたし、かといって男子は子供過ぎて野暮ったい。ヒカルには気を遣わなくてよかったのも大きいが、それイコール恋愛というのはどうにも首を傾げたくなる。だいたい女子は何かあるとすぐにそういう話に結びつけたくなる生き物だ。間に受けるだけ馬鹿である。

「なんだよ?」

こちらの視線に気付いてヒカルがスマホの画面から顔をあげた。さすがにあれから八年ともなると女っぽい面にはなってくる。身長も一六〇センチ代(それでも女子にしては高めだが)で止まって十分女の子で通用するはずだ。

「お前って好きな奴とかいんのか?」

情緒も感情の起伏もない声音。それに鼻を鳴らしてヒカルがシニカルな笑みをつくる。

「口説くんならもっとマシなこと言えよ。わるいけど、私は指絡めて手ぇ繋いでひとつのソフトクリームを分け合うようなのは死んでもごめんだ」

一瞬、自分と彼女がそんなことをしている光景を頭の中で展開して思わず吹き出しそうになる。茶番だ。そんなのはコントにしかなり得ない。

「俺もお前とそんなことはしたくない」

「くくっ。気が合うな。でも、なんで急に?」

おやおや、そうくるか。さて、どうしたものか。と、言い訳を考えていた時だった。


「きゃああああっ」


尋常ではない悲鳴。しかしそれよりもその声そのものに反応して立ち上がる。いまのは、由樹の声だ。

「ユウッ」

呼びかけると同時に、ヒカルがロッカーに立て掛けてあった木刀を放ってくる。去年の三年生が京都にいったときのお土産だ。重さのあるバットよりもこちらの方が軽くて使い易い。なにより''そういう用途''のために本来あるものだ。いままで市場に出回った幾億幾万の木刀のなかで実際に使われたものがどれだけあるだろう。なにか運命的なものを感じる(ウソ)。

「由樹っ、どうした!」

部室を飛び出したすぐの所に彼女はへたり込んでいた。身体が小刻みに震え、お尻の下、というよりも股の辺りが濡れて微かにアンモニアの臭いがする。俺はわざとそれから視線を逸らして由樹の顔を覗き込んだ。

「しっかりしろっ。なにがあった!?」

カチカチと歯を鳴らしてぎゅっとワイシャツにしがみついてくる。言葉が出ないのか。しかしそれでも由樹は持ち前の意志の強さを発揮して人差し指をテニスコートの方へ向けた。

「ぁ……あれ」

「あれ?」

彼女の細い指が示す先にそれはいた。

ウインドブレーカーのポリエステル生地に身を包んだ瘦せ型の男子生徒。べつにおかしな格好をしているわけではない。変質者でもでたかと思って心配したが、よくみれば見覚えのある顔だ。瘦せ型の方がB組の宮島で……そいつが右手にぶら提げてる生首が三年生の広田だ。

「どこだよぉ。おれのラケットどこだよぉ」

宮島がどこか虚ろな声を出して生首を振り回す。これだけで十分明日の朝刊で大々的に取り上げられる凶行だが、どうもそれだけでは収まりそうもない。振り回されてる生首が、目を見開いたまま口を動かした。足元に落ちてるよぉぉぉぉ……。ロメロ作品かよ。

「おいおいなんだありゃ? 目ぇイっちゃってるぞ」

追いついてきたヒカルが相変わらずの調子でそう評する。さすがに顔は強張っているがまだなんとか動けそうだ。

「ヒカル。由樹を頼む。俺が道を作るからしっかりついてこい」

「え、あ、ああ。でも大丈夫か? なんか、いっぱい集まってきたぞ?」

言われてみてようやく気がつく。宮島や広田だけじゃない。校舎の中から、体育館から、あちらこちらから血塗れの人間が歩いてくる。いずれもゆらゆらという足取りで、喋っていなければ本当にゾンビのようだ。


「おなか痛いよぉ」

「歯磨き粉くっとけ。歯磨き粉」

「ブラジルの人ぉぉぉぉ! 聞こえますかぁああっ!」


……サバンナ?

「この学校ってこんな奴ばっかだったか?」

「いや、どうだろ。でも千田がかよってるからなぁ。よっと」

言いながらヒカルが由樹を背負って立ち上がる。気を失ったのか、彼女の背中で由樹はぐったりとして瞼を閉じていた。

「よし、いくぞ。なにが起きてるのかは知らねえけど、とにかく千田と合流するぞ」

「ほっといても大丈夫だろアイツは」

「アイツはな。けど俺が大丈夫じゃない」

「あぁ、なるほど。たしかに頼りないか」

……こいつ。

「とにかくいくぞ! はぐれるな!」

言い終えると同時に地を蹴って走り出す。ゾンビは頭を潰すのが相場だが仮にも同じ学校の仲間である。そもそも相手がどういう状態なのか把握できていないのだ。軽はずみなことはできない。


「勇村のパンツ、赤率高すぎんだろぉぉ」

「なんで知ってんだよっ! うわぁぁあぁあっ!」


振り抜いた木刀がこめかみに直撃してサバンナがゴロゴロとのたうちまわる。正当防衛万歳っ! 俺は無実だ!

「うおぉぉおおおぉっ!!」

「……やれやれ」

ヒカルの溜め息が背後で聞こえた。



2.



「なんだよ。プロレスはもう終わりかぁ?」

一年生のクラスにやってきた千田は最後の一人を全力で落とすと教室に横たわった後輩達を一瞥して高々と拳を掲げた。

俺って最強だぜ! なんてったって三〇対一だもんなぁ! でもなんでこいつらいきなり飛びかかってきたんだ? 腹でも減ってたのかな。

「あっ! そんなことより野球だぜ! 起きろ! 岡崎!」

荒々しく抱き起こして肩を強く揺さぶるが返事はない。本人は気付いていないが、千田の左フックによって岡崎の脊椎は小枝のようにへし折れていた。力だけが取り柄(本人は気付いていない)の彼の握力は七〇代。絶望なまでの不器用ではあるが筋トレや走り込みになるとぶっ倒れるまでやり続ける。生まれたときからそうだったのか、それとも後天的なものなのか。掛け値なしの脳筋男だ。

「ダメだ。起きないぜ。きっと寝不足だったんだな。昨日は練習きつかったもんなぁ。よし、わかった。ニラレバには俺から頼んでやるから今日はゆっくり休んどけ。早寝早起きだぞ!」

やさしい言葉はかけてもやはり何もかもが雑だ。抱き起こしていた岡崎を硬い床に放り投げる。まくらがないと辛かろうと掃除用具から雑巾をだして頭の下に敷いてやる。布団はないのでカーテンを引きちぎって完成だ。

極めて善良な男である。ただ足りないのだ。そのことに、本人は気付いていない。

「やっぱり俺って天才だぜ! これなら寒くないだろ! じゃあな!」

それから十分後。

「……千田だな」

「あぁ、千田だ」

俺たちが一年生のクラスに足を運ぶと、そこには完璧にのされたゾンビ(?)と黒板に大きく書かれた「オレゆう勝!!」のきたない文字。高校生にもなって”優勝”を漢字で書けない奴なんか一人しかいない。

「馬鹿だなぁ。たぶんアイツ、この状況にも気付いてねぇぞ」

「だろうなぁ。だいたい、「オレゆう勝!!」って。オレって誰だよ」

溜め息ご二つ重なって沈黙。まあ、あいつなら大丈夫だろ。なんだかんだ力だけはあるし。

「とりあえず由樹を降ろそう。何をするにもそれからだ」

「だな。あ。おまえ、ちょっとあっち向いてろ。着替えさせるから」

「おう」

冷静に。なんでもない風を装って黒板の方を向く。すると背後から肩を叩かれて耳元でヒカルの声が囁いた。

「見たら奴らの餌だからな」

「……はい」

この女なら、やりかねない。




「ごめんね。私のせいで……」

すっかり日も暮れた頃に由樹は目を覚ました。窓の外から依然としてさまよっているゾンビをみて泣きもした。

「気にすんなよ。どうせ外に出てもあいつらでいっぱいだし、千田も回収したかったし」

結局それはできなかったが。

「そっか……千田くん、無事なんだ」

由樹は黒板の字を見てホッとした顔になる。こんな時でも他人の心配をするのが彼女の良い所だ。

「でも、これからどうする。さっきは結果オーライでよかったけど、もし千田がここを片付けてなかったら私らも全滅だったぜ」

たしかにヒカルの言葉はもっともだ。これからはもっとよく考えて行動に移さないと危険だろう。

「次は気をつける。悪かった」

「……妙に素直だな」

「そりゃ俺だって考えるっての。実際ヒヤヒヤしたのも一度や二度じゃなかったし」

それもそのはず。こちらは多少手加減して戦わなくてはならないのに、向こうは本気で殺しにやってくる。しかも喧嘩なんてしたのは今回がはじめてだ。とてもじゃないが誰かを守りながら戦うなんてそうそうできるものではない。

「けど本当にどうしようか。すぐに警察や自衛隊がくればいいけど、映画じゃ島の外でもパンデミックってのがお約束だよな」

「よせよ。縁起でもない。B級ホラーのヒロインなんてマジ勘弁だぞ」

「んなこと言ってもなぁ。現に目の前にいっぱい歩いてるし」

ついでにいえば昼間よりもだいぶ増えている。食糧もないし、この先どうなるのか。

「ねぇ……本当にあれってゾンビなのかな?」

知らねえよ、そんなの。喉元まで出てきた不機嫌な言葉をなんとか呑みくだす。

「さぁ、どうだろうな。でも、アレがなんだとかはこの際どうだっていいよ。問題なのは、”治せるのかどうか”だろ」

「治せるか? え ……それって」

言葉を選んだつもりがみるみる由樹の顔が曇っていく。あぁ、どうして俺はこうなんだ。自己嫌悪と彼女の目に溜まった涙に押し潰されそうになる。そんなとき、いつもさりげなくフォローしてくれるのがヒカルだった。

「大丈夫だよ。医学も日々進歩してんだろ。仮に自衛隊が乗り込んできてもいきなり発砲なんてのはねぇって」

「ヒカ……うん。そうだよね。大丈夫だよね」

自分に言い聞かせるような声。ヒカルはその小さな肩に手をまわすと、由樹の身体を優しく抱き寄せる。

「まずは自分のことだ」

「っ……うん」

こらえきれない不安が頬をつたって流れていく。ヒカルの肩に顔を埋めて声を押し殺す由樹に、俺は何も言えなかった。


「どうした。なんか元気ないな」

教卓にもたれかかってスマホをいじっているとヒカルが声をかけてきた。見れば由樹は窓際の席で眠っている。

「別に、なんでもねぇよ」

「なんでもなきゃなんで使えねえスマホとにらめっこしてんだよ」

「う……」

Wi-Fiも捕まらずネットも通話も繋がらず、いま俺の手の中にあるのはただの箱である。どういうわけかこの状態がずっと続いている。

「ま、こんな状況で元気なのは千田くらいか。けどユウにはしっかりしてもらわねぇと。私らには貴重な男手だからさ」

「貴重って……俺なんかよりずっとヒカルの方が役に立つじゃないか」

卑屈になった俺の言葉に彼女は腕を組んで瞼を閉じる。昔から変わらない、頭を回転させるときの癖だった。

「役に立つとか立たないとか、そういうことじゃなくてさ。こういう時は男子がしっかりしてくれると安心できるんだ。女にはない父性ってやつかな」

「俺はおまえらのパパかよ……」

「いいだろ別に。おまえは人を遠ざけ過ぎなんだよ」

見てないようでよく見てる。やはりこいつにはかなわないと内心で溜め息をつき俺はようやく本音を吐き出した。

「遠ざけてるわけじゃない。ただ、みんなといると自分が嫌になる」

「嫌になる?」

「ああ。例えばさ、野球部の練習とかでニラレバがすっげぇ気合い入ってノックするだろ。そんで言うのさ。そんな球も捕れないで試合に勝てるか! て。んでみんなが触発されて叫び出す。ばっちこーい。もう一球。合わせはするけどああいうノリについてけない」

言葉にしてみると小さな悩みに聞こえるが俺にとっては長年に渡る悩みだ。

「わかるか。俺の言ってること。みんなはこうなのに俺は違う。自分から踏み出してもどうしても染まりきれない。むしろそれが原因で他人がしかめっ面をすることさえある。どうしたらいいのか、わからない」

尻すぼみになった声を笑いもせず、ヒカルは真剣な表情で相槌をうつ。視線が、声が、何気無い表情が、相手に話したいと思わせる。

「疎外感。わかるよ。他人と繋がりたいって気持ちはあっても、おまえには受信用のアンテナがないんだろ。だからなにをするにも微妙にピントがぼやけてる」

「それが嫌で、いまみたいな中途半端な立ち位置を行ったり来たりしてる」

「誰かを不安にしたり、怒らせたり。自分が傷付くのも嫌で深く相手と付き合えない」

「そんな自分も嫌いだ」

引き出されていく言葉の中には自分自身でも気付いていなかったものまである。まるで鏡を見ているような気分。と、不意に鏡がやわらかく微笑んだ。

「いま、繋がっただろ?」

「ぁ……」

知らないうちに、暖かな何かが胸の奥で息づいていた。



3.



一年生の教室で一夜を明かした俺達は空が明るくなる前に動き出した。目的地は教室のベランダを経由して渡れる理科準備室だ。

「よし、いいぞ」

先頭を俺が務め、殿をヒカルに任せて由樹を間にはさむ。各教室に行き来できるベランダ通路にはゾンビの姿はなく、窓から身を隠せば教室内からもこちらの目視は難しい。移動には最適の経路だった。

「よくこうやって隣のクラスにイタズラしにいったよな。こっそり近付いていきなり窓から驚かしてさ」

「やったやった。千田は図体デカくて下手だったけど、忠太はめちゃくちゃ上手かったよな」

「あいつはすばしっこいからな……他のみんなは大丈夫かな」

「まだ、あれから半日しか経ってないいんだよね」

ささやき声で交わす言葉はどうしても暗い方向へ進んでいく。ユウにはしっかりしてもらわねぇと。昨日のヒカルが俺の中で微笑む。

「行こう。一人でも多く助けるんだ。……みんなで力を合わせれば、やれるさ」

「え……ぅ、うん」

すこし戸惑った由樹の返答。その後ろからは一拍おいてしっかりとした相槌がかえってくる。

「なんだかんだ言って、やっぱ男の子だな」

「なんのこと?」

「いや、こっちの話さ」

コンクリートとリノリウムの通路を通り一般教室を三つ通り過ぎると、目的の理科準備室はすぐ目の前だった。

「まずは中を確認しないとだな。奴らゾンビっていっても普通にドアとか開けやがるし」

「そのうち歌でも歌いだすんじゃない……か……て、なんか、聞こえるぞ」

ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。

ささやき声なんてものじゃない。いままで気付かなかったのはおそらく間奏に入っていたためだろう。理科準備室の暗がりの中から響いてくるのは、厳かで凜然としたフランツ・リストの代表曲"死の舞踏"をモデルにしたアップテンポ。ハミングとビブラートを利かせた独唱で、腹に突き抜けてくる歌声には揺るがない芯が確かにある。以前聞かされた時よりも数倍上手くなっているが、今は褒めてやる余裕がなかった。

「おい、よせ! 美海! 奴らが集まってくるだろ!」

「わぁっ!? 勇村くんのゾンビぃ! せ、センセーッ!」

窓を引き開けると中にいた少女が切羽詰まった声をあげて助けを呼ぶ。センセー? と、準備室の奥から血相を変えたニラレバが拳を握り締めて走ってきた。待て。待て、待て、待てっ!

「許せ勇村っ!」

「わぁぁあっ!! ぉ、俺は正気だぁ!」

その悲鳴は一歩遅く、俺の顔面には岩のように硬い正拳が叩き込まれた。視界がブラックアウトし、意識がふっと遠くなる。

そして次に目を覚ますと、俺は理科準備室の硬い床のうえでだらしなくのびていた。鼻の中に乾いた血がこびりついている。お目覚めソングは相変わらず死の舞踏のアレンジだ。

「誰かこの状況を説明してくれ」

頭のうえから降り注ぐソプラノを聞きながら俺はゆっくりと上体を持ち上げた。まだ少しくらくらする。

「悪かったな勇村。てっきり俺はおまえもおかしくなったとばかり思ってな」

ニラレバがあまり悪いと思ってなさそうな顔でいうので噛み付く気も無くなってきた。こいつ、一応は教師なんだよな?

「しかし不思議だよなぁ。美海がこの唄歌ってるとゾンビが寄ってこないんだよ。あいつら本当になんなんだ?」

訝しげな表情でヒカルが窓の外を眺める。俺はその言葉の意味を理解するのにたっぷり十秒フリーズしてから盛大に驚きの声をあげた。

「な、ななっ、なんだと!? 本当かそれ!」

「どうもそうらしい。俺が音楽室に逃げてきた時に小此木が歌ってたんだが、目の前で凶暴化した生徒が逃げてった。まったく。なにがどうなってるのかさっぱりだ」

ニラレバの補足情報を聞きながら歌い続ける美海の横顔をみた。長い睫毛に白い肌。軽くウェーブのかかった栗色のロングヘアーとの組み合わせが日本人離れした美しさを際立たせている。

「じゃあ、もしかしてこいつ夜通し歌い続けてんのか?」

「ああ……一曲終わればしばらく奴らも近づいてこないから多少休めるんだが。小此木がスイッチ入っちゃってなぁ」

小此木美海はそういう少女である。

幼い頃からピアノやヴァイオリン、オペラなどのクラシックミュージックに傾倒し、最近では若者向けのアレンジ曲までネットにあげていたりする。高校もその才能を遺憾なく発揮して一芸入試を難なく突破したそうだ。

「……美海。その曲終わったら一息いれてくれ。作戦会議だ」

何時間も歌い続けただろうに。彼女の表情は未だに生き生きとしている。本当に好きじゃなければ今頃へばっているはずだ。

「ああ! 楽しかった! こんなに歌ったの久しぶりだったよ!」

はつらつとした笑顔を振りまき美海は鞄の中からミネラルウオーターを出して喉を潤す。歌ってる時はなかなかの迫力だが、普段は無邪気なやつだ。

「どれくらいやってたんだ?」

「ん〜? 七、八時間? かな」

「そ、そうか。おつかれ」

フルタイムのパートさん並みに働いてやがる。なかばあきれた声で労うと、俺はあらためて全員の顔を見回した。

理科準備室にいたのはニラレバと小此木美海。そして隅の方に痩躯の男子生徒が一人。見覚えはあるが名前までは覚えてない。

「これで六人か。クラスのやつだけでも連れてければと思ったが……むずかしいな」

「無茶はしない方がいい。人が増えれば増えただけ移動も厳しくなる。先生、とにかく今はここを出ようぜ。待っててなんとかなるならいいけど、そんな保証ないだろ」

俺とヒカルの会話に目を白黒させていたニラレバが急に話を振られて返事がおくれる。角刈りの頭と太めの眉はいつもなら近寄りずらい雰囲気を醸しているが、このときはそれが感じられなかった。

「どうかしました?」

「いや……なんでもない。おまえ達のいう通りだな。先の事なんてわからん。なら動けるうちにしばらくの食糧と安全な場所を確保するべき、か」

言いながらも、ニラレバの目の奥には別の何かが映っているようだった。しかしひとつよしと気合いをいれるとすぐにいつもの監督の顔付きにもどっていく。マウンドからベンチを覗き込んだときに見えるこの顔は俺には恐怖の対象にすらなっていたはずだ。だが。

「なんか、ニラレバのやつおかしくないか?」

おなじ違和感を感じたのか、ヒカルが小声で聞いてくる。

「きっとつかれてるんだろう。こんな大事になりゃ仕方ないさ」

口ではそう言ったが、俺は自分の言葉を内心では否定していた。いまのニラレバの目は疲労からくるものじゃない。あれは、なにか理解できないものを見た時の人間の目だ。

「けど、逃げるにしてもどこへ逃げるの? さっきまでながれてたラジオじゃ街中もゾンビで溢れてるみたいだよ」

作戦会議を終えたあと、美海が小首を傾げて聞いてきた。その指摘に俺はすこし考え込んで宛を探す。脱出ルートは決まったものの、まだ安全地帯の確保ができていない。どこか人気のない、雨風を防げる所がベストだが。

「ユウ。あそことかいいんじゃないか? ほら、このあいだ一緒に行っただろう」

「あ、そうか。あそこなら誰もいないしすぐ近くだ」

ヒカルの進言ですっかり忘れてた物件を思い出す。先週二人でいったその小さなビルは完成間際に事故を起こして工事が停まっていた。

「え、なになに? 二人って一緒に人気のない所にいくような仲だったの?」

「ばか。そういうんじゃねぇよ。その、なんだ……」

反論しようとしたがすぐに口ごもる。あまり褒められた理由ではないのだ。

「そんなことより美海は大丈夫なのか。脱出にはおまえの歌が頼りなんだぞ」

「大丈夫大丈夫。いまの私はこれまでないくらい絶好調だから。みんな大船に乗ったつもりでいてよ!」

本当に大丈夫か?

ふと彼女の軽快な声音に不安を抱く。ただの思い過ごしならいいのだが……俺は口にしかけた言葉を呑み込んだ。

「じゃあ三十分後に脱出だ。それぞれ準備を済ませたら自分の班と合流地点、目的地へのルートを確認しておいてくれ」

いつの間にか自分が指揮を執っていることにいまさら気付く。ニラレバがいるのだから彼に任せてしまえばいいのだろうに。なんだかこれじゃヒカルに焚き付けられたみたいで癪である。だが、それにしても。

「……」

部屋の薄闇に双眸だけが浮き上がったような男子生徒が気にかかる。


「付き合わせて悪かったな勇村」

食糧の調達に向かう道中、ニラレバが柄にもなくそんなことを呟いた。声に妙な重さがある。

「なに言ってんすか。監督の指示に従うのは当たり前でしょう」

「ははっ。まさかお前の口からそんな事が聞けるとはな」

うっすらと目を細めて柔和に笑う。こんな顔もできるんだな。人付き合いを避けてきたせいか比較的接点の多い相手のことすら自分で思っているほどよく知らない。ニラレバは一拍間をおいてから続ける。

「お前らは、怖くないのか?」

お前らというのは俺とヒカルのことだろう。その話をするためにわざわざ俺を指名したわけか。

「怖くないわけじゃないっすよ。痛いのは嫌だし、喋る生首とか正直マジでムリっすわ。けど……やらなきゃやられるでしょう? 家族やみんなは心配だけど、とにかく自分が無事じゃないと先がないし」

もっともな理由を並べてみる。けれど本当のところはただ流れに任せているだけだ。相手が襲ってきたから迎撃する。ヒカルに言われたから指揮を執る。結局、すべてが受け身である。

「やらなきゃやられる……たしかにそうだが。おまえは、やれるのか?」

眉間に深い皺を刻んでニラレバがそんなことをいう。俺は怪訝な表情で彼を見、即答した。

「やるに決まってるじゃないですか。だって、自分の命がかかってんですよ? 生きるか死ぬかなら、当然やるでしょう」

なんでいまこの話なんだ。射抜くような真剣な眼差しのニラレバに俺の声も多少の熱を帯びる。と、不意に俺の肩にゴツゴツとした大きな掌がのせられた。

「勇村。よく聞け。普通の人間は、そんな風には割り切れない」

冷たいものが、全身を駆け抜けた。

「自分の身を守ることが悪いとも、襲ってくる奴らを迎え撃つのが悪いともいわない。だが、それでもお前にはいわなきゃならない。人の道から、絶対に逸れるな」

「……」

なにを言っているのか、理解できなかった。

自分を守ることが、敵を叩くことが、どうして人の道から逸れるんだ。やらなきゃやられるんだから、仕方ないじゃないか。仕方ない。仕方ない?

「お前は、いままで人を避けて生きてきたんだろう。二年近く。お前を見てきて俺は理解しようとし、またそれをよしとした。人には人の生き方がある。それぞれでいいと。しかしやはり……もっと人との関わりを持たせるべきだった。勇村にも、伊緒利にもな」

「……急ぎましょう。予定が押してます」

冷ややかな、感情を抑えた声でうながす。裏切られた。そんな苦い思いが口中に広がった。


「じゃあ私らも動くぞ」

予定の時刻になり、ヒカルは準備を整えた面々にそう声をかけた。

由樹は小型のガスバーナーやアルコールランプなどを詰め込んだナップサックを担ぎ、美海は譜面の入った鞄とヴァイオリンケースを。もうひとり、西尾と名乗った男子生徒は手ぶらだった。

「ええっと、西尾くんは、なんにも持ってかなくていいの?」

苦笑いしながら由樹が聞いても西尾はこくりと頷くだけで彼女の荷物を持とうともしない。愛想がないうえ気が利かないとは。男としてどうなんだと言いたくなる。名前を聞いた時も学生証を渡してきただけだった。

「まあ、いいんじゃねぇの。その方が"逃げるときは"楽そうだしな」

言葉の裏に最大限の皮肉を被せてみる。が、相も変わらず西尾の反応はなかった。その静けさに不気味なものさえ感じられる。

「とにかく脱出だ。作戦は頭に入ってるな?」

確認のためにもう一度聞いてみる。まず応えたのは普段の調子を取り戻した由樹だった。

「勇村くんと先生が職員室の非常食を回収して裏手の駐輪場で待機。私達は安全なベランダ通路から非常階段を降りて二人と合流」

「私が歌うのはそれからだよね」

後を引き取った美海がやる気十分という声音でいう。どうやら本当に彼女の歌はゾンビ共に有効らしいが、こちらから逃げていった分がユウ達の方へ流れたんじゃ話にならない。

「よろしく頼むぜ。いくら私でもバット一本で三人も守れないからな」

「任せといて! 私の歌で逃げてくってのは癪だけど、あんな奴らみんな追い払ってあげるから!」

褒められて伸びるタイプの典型だが、美海の自信には危うさがある。単純に言ってしまえば調子にのるというか、若干天狗になる節があるのだ。しかし、そういう人間は失敗を経験しないとその先には進めない。

結局、私がフォローしろってことか。

一年生の教室から拝借した金属バットのグリップを握りなおす。マジックで小さく"久遠"と書かれたそれは言うまでもなく野球部の一年生二人の内の一人のものだ。何度か顔を合わせたことはあったが、ヒカルのなかにある印象は線の細い中性的な少年といったところだ。野球部にしてはなかなか可愛い顔をしていたが……果たしてまだ無事だろうか。

「そんじゃあ行くぜ。美海は私の後ろでその次が由樹。西尾は殿だからな」

こくりと、やはり西尾は頷くだけ。大丈夫かこのメンバー。溜め息を押しとどめながら、ヒカルはベランダの戸を静かに開いて外に出た。

時刻は午前八時二十分。いつもならHRがはじまってヒカルとユウが息を切らして教室に駆け込んでくる頃だ。今日は間に合うかとか、どっちが先に出席するかなどと賭けをする奴なんかもいたりして……もうあの教室には戻れないのかと思うと寂しさが込み上げてくる。ロクに授業も受けていない自分がこうなのだから、毎日通っていた由樹達は相当なものだろう。

本当になんなのかねぇ。空に昇り始めた太陽を仰ぎ見て目を細める。今日もまた、暑い一日になりそうだ。

各教室から突き出している小さなベランダ通路はその両端が非常階段になっている。例のごとく腰をかがめて窓から身を隠して五〇mほど行けばたどり着くわけだが、そこには昨日までなかった分厚いベニヤ板が道を阻んでいた。ご丁寧に周りに有刺鉄線まで巻き付けられていてベランダの手すりから乗り越えるのも難しい。

「どういうことだこりゃ。まさか奴らが建てたのか?」

にわかには信じられないがゾンビが喋ってる時点でなんでもありだ。頭数はいくらでもいるのだからこんな壁など十分もあれば作れるだろう。

「どうしようか。いまから中の階段まで戻る?」

由樹の提案にヒカルはいやと首を振る。

「今から戻ったんじゃ時間もかかるし危険だ。たしかここの廊下に防災訓練で使った脱出シューターがあったよな」

その言葉に由樹の顔色がサッと変わる。そういえば訓練のときも青ざめていたか。

「あれ使うの?」

「命にゃかえらんねぇだろ。腹決めな」

無慈悲に突き放すと彼女は少し唸ってから観念したように溜め息をつく。美海はそれをみてころころと笑ってみせた。

「なんでそんなに溜め息つくのぉ? 面白いじゃんあれ」

「だって、アレ上から見たらほとんど直角じゃない。それに人には向き不向きってのがあるの。ヒカが勉強出来ないのと同じで、美海はダイエット下手でしょう?」

「ふ、太ってないもん!」

なんの話をしてるんだか。

緊張感のない会話を聞きながらヒカルは記憶を手繰り寄せる。たしか脱出シューターは理解室と音楽室の間辺りに設置されていたはずだ。すぐ目の前が音楽室だからここから中に入ればいいだろう。

「おしゃべりはその辺にして、さっさと合流しよう。私らが遅れたらあいつらもゾンビの餌だからな」

「餌……うっ、変なの想像しちゃった」

やれやれ。



4.



現生種の生態調査中途報告。

既存のデータベースへアクセスし調査圏内の言語をトレース。以降、報告にはこの言語を使う。ジャックした現生種の携帯端末を経由しているためダウンロード完了後に調査と並行して置換動作を開始、ネットワークへリンク。

現在現生種の雌三体と共に行動中。なお、個体識別、勇村悠、伊緒利光、小此木美海の三体は要警戒。

小此木美海の歌声は我々や彼らが"ゾンビ"と呼んでいる我々のジャックした現生種に良くも悪くも多大な影響を及ぼすらしい。まだ考察の段階だが、おそらくは強烈な感情の昂りが我々の思考回路に直接叩き込まれた結果だと思われる。言語に頼らない思念体にはかなり面倒な存在だ。

他二体の現生種、勇村悠と伊緒利光は身体能力がなかなか侮れない。前者は精神面において未発達な部分もあるが機転がまわり、後者は統率力に長けている。しかし二体一組なら相当手強いが単体なら数で押し切れるだろう。仕掛けるならいまだが、焦りは禁物というやつだ。気が熟すのを待つ。

それにしてもゾンビという言葉は面白い。定義としては自我を持たない存在ということになっているが、拡大解釈すればまさにそれそのものだと言える。低俗で無駄の多い手段だと思っていただけに使ってみると言語伝達も悪くない。

多少の私見が入ってしまったがこれで中途報告を終わりにする。引け続きプルタウン全域の観測を続行。勇村悠、伊緒利光、小此木美海、他二体は早々に処理する。




5.



食糧調達を終えた俺とニラレバはゾンビの徘徊する渡り廊下を迂回して合流地点の駐輪場に身を潜めていた。予定時刻まではあと四、五分だが、ヒカル達が非常階段を降りてくる気配はない。

「何かあったのか? くそっ。なんでこんな時に電話が通じねぇんだ」

押し殺した声の中にも切迫した焦りが読み取れたはずだ。握り締めた木刀がギリギリと手中で震え、抑えきれず立ち上がりかける。そこへニラレバの低く抑制された声が待ったをかけた。

「見ろ、あそこだ」

示された先に視線を向けて頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。それまで何気ない校舎の壁面だった部分から妙な蛇腹が垂れ下がっている。

なんだ、あれ? その様相は極限まで経費を削ったウォータースライダーという感じで、だいぶ急な角度にみえるがそれでも着地点とおぼしき蛇腹の出口は緩くカーブしていて落下速度の減衰にはなっているようだった。

「脱出シューターだ。防災訓練、次からはしっかり出ておけよ」

「あ、ああ、はい。まあ……次があれば」

余計な一言にはとくに触れず、ニラレバはシューターの出口付近へ俺を促した。ゾンビの姿はまだないが人があの中を滑ってきたらさすがに気付かれるだろう。彼女達が降りてくるまでは二人で露払いだ。

「あ! 勇村くんだ! おーい!」

……美海ッ!

「前から落ち着きのない奴だと思っていたが、こんなときくらいなんとかならんもんかなぁ」

「とりあえず回収しましょうか。そのあとで泣くまで説教してやりましょう」

はやくもぞろぞろ集まりだしたゾンビ達を一瞥してニラレバに背中を任せる。まだ内側では彼への不信感が拭いきれずにいたがいまは窮地だ。考えるのは後でいい。

「ヒカル! その馬鹿さっさと降ろして歌わせろ! こっちは保っても五分かそこらだ!」

「了解! ってなわけで、どーん!」

「ちょ、わっ!?」

勢いよく突き飛ばされた美海が脱出シューターのなかをごろごろ転がりながらかなりのスピードで降りてくる。大丈夫なのかこれ。はじめて見る緊急脱出を横目で見やるが人の心配ばかりしてられない。すぐそこまできていたゾンビに向き直ると、俺は身体の正中線を隠すように左足を引き木刀を片手で構えた。

奴らは数こそいても動きが鈍い。人語を解しているあたり多少の思考能力もあるようだが基本的には掴んで、殴って、噛む。戦闘に関してはこの三つの動作くらいしかしてこない。一対一の勝負なら万が一にも負ける気はしないが、ゴキブリ並みの量と生命力である。上手く立ち回らなければすぐに仲間入りだろう。

やらなきゃやられるんだ。俺は、なにも間違ってない。

口中で転がした言葉は苦味が否めない。背後に視線をやるとニラレバも職員室で調達した竹刀を構えていた。

「あんなこと言っといてなんだが。いまは自分のことだけ考えてろ」

……うるせぇよ。馬鹿にしやがって。右手の木刀に力が入る。それを実感するよりも早く、切っ先が鋭い軌道でゾンビの喉元を抉る。

「そっちも簡単に食われないでくださいよ。俺はもう、吹っ切れてますから」

「……そうか」

ニラレバの竹刀が綺麗な弧を描いてゾンビの右膝を打ち払った。


「ひっ、わっ、ぃやぁああぁあっ!」

絹を裂くような悲鳴をあげて由樹がシューターを滑り降りていく。ヒカルは窓の外からそれを見降ろし、先に降りていった美海が回収するのを見届けてから最後の一人に向き直った。

「あんたで最後だ。早くしねぇとこっちにも集まってくるぞ」

急かしたつもりだが、西尾は同じ調子でこくりと頷きゆっくりとシューターに歩いていく。切迫した状況でこの振る舞い。本来なら既に手が出ていてもおかしくなかったが、彼女は冷静だった。

「?」

不意に突きつけられた金属バットを見て、西尾が不思議そうに首を傾げる。その無機質な表情。まず間違いないだろう。

「おまえ、とっくに喰われてたんだろ? あんまり人をなめるもんじゃないぜ」

低い声で威嚇する。その言葉の意味を理解しようとする動作、眼差し、表情筋のぎこちない動きがそれを物語っていた。

「……いくつか、誤解があるようだ」

ようやく西尾が吐き出した言葉はそんなものだった。細い見かけによらず声は穏やかな低音。しかしその静かな響きには刃物を思わせる不気味なものがある。血に錆び付いた幅広の鉈。そんなイメージが、ヒカルの肌を粟立たせる。

「誤解?」

「ああ。まず、我々は貴様らを食べたりはしない。食べるのは、お前らだ」

「は?」

なにを言ってんだ、こいつ。

努めて理解しようとするが、あまりにも相手の言葉が少なすぎる。加えてこの痩せた身体から滲み出してくるプレッシャー。いったいいつからだ。気付くとヒカルの中には抗いようのない動物的な死への恐怖が渦を巻いていた。

「牧畜を飼えばどうしても餌代が発生する。これが牛や豚なら飼葉として仕方ないが、貴様ら人間は雑食だ」

もはや隠す気もないのか、西尾の言葉の端々に自分が人間ではないことを示す言い回しが散見される。構えたバットがやけに重い。

「だったら、なんなんだよ」

喉の渇きを感じながら、ヒカルは意識的に強い語調でいった。心臓が狂ったように早鐘を打つ。そして。

「だから言っているだろう。食べるのはお前らだと」

「!」

全身に、震えが走った。

「資源はどの星にも限られている。ならばリデュース、リユース、リサイクルは当然必要だ。更に牧畜同士の交配を繰り返せば飼葉の心配もなくなるうえ安定した新兵の供給もできる。ある程度の戦闘力と知能を持った貴様らは、我々にとって非常にコストパフォーマンスの良い家畜というわけだ」

家畜。なんて生々しく聞こえる単語なのか。高速で回る思考に脳みそが焼ききれそうになる。これ以上踏み込めば、容赦なく飲み込まれる。そうはわかっていても、人としての恐怖と焦燥感が両の足をがっちりと固定する。ヒカルはもはや抜き差しならない所まで引き込まれていたことに、今気付いた。

「……なんなんだよ、アンタら」

至極シンプルな問いに、西尾ははじめて笑みを見せた。が、それに人間らしさは一切ない。口角を歪めて釣り上げた笑いに体中の毛が逆立った。

「ヒカル!!」

幼馴染の声が信じられないくらい懐かしく感じてすぐにハッとする。

こんな所で死ねはしない。止まるな。走れ。瞬間、彼女の身体は弾かれたようにアクセルを踏み、最小の動作で金属バットが円弧を描く。狙いは違わず、銀色の側面は西尾の左脇から入り込み勢いよくその身を硬い床にすっとばした。

「……!?」

虚をつかれた西尾の表情に驚きの色があらわれる。ヒカルはそれを見て、今までのプレッシャーと圧迫感の何割かが自分自身が生み出したものだと悟る。こいつらは、ゾンビや化け物であっても生き物だ。神や悪魔なんかじゃない。

「ユウッ! 逃げるぞ!」

叫んでシューターに身体を滑り込ませる。凄まじい体感速度。血が沸騰しているせいだろうか。オレンジがかった暗闇に、足元の方から光が差す。と、頭から唐突に血の気が引いて世界が暗転する。

「無事か!?」

ほんの数秒。どうやら意識が飛んでいたらしい。テレビのチャンネルが切り替わるように、ヒカルの視界に泣きそうなユウの顔が飛び込んでくる。なんつう面してんだこいつは。

「馬鹿野郎。お姫様を起こすのは王子様のキスだろうが。頭が高ぇ」

いつも通りの憎まれ口にユウは安堵して胸を撫で下ろす。手のかかる弟だね本当に。

「安心すんのは早いだろ。ここからが本番だ」

肩を借りて力強く口にしてみる。だが頭の芯が痺れているようで思った以上に身体が動かない。こうなってしまえばあとはもう美海の歌だけが頼りだ。

「美海!」

「まかせて!」

張りのある声音が反響するはずのない空の下で鳴り響く。曲はリストの死の舞踏アレンジ。厳かで排他的な重いサウンドが空と大地を震わせる。


「うっ、うにぃいああぁぁあっ!!」

「わ、わ、わ、わっ!! こここ、怖いよおぉおっ!!」


どこか幼い悲鳴を発してゾンビ達の動きが止まる。がくがくと身体を震わせるもの、頭を抱えてしゃがみ込むもの。一様にして美海の歌声に怯えているのは明らかだった。

「いいぞ。これならいける!」

肩を借りていたユウが木刀をベルトに差してヒカルの脚に手をまわす。え? おい。なにする気だ? 冗談だろ?

「!」

なんということだ。子供のころ何度もいじめっ子から守ってやった奴が。一人でうじうじ塞ぎ込んでいたハナタレが。いま私にお姫様抱っこなんていうこっぱずかしいことをしてやがる。

何故だがまた心臓の鼓動が早くなってきた。汗に濡れたシャツの匂い。それまで気付かなかった躰の硬さが、否応なく認めさせる。こいつは弟でもハナタレでもなく、もう一人前の男なのだと。

「先生! 全員回収した! 逃げるぞ!」

ほとんど咆哮に近い声で言うと、ニラレバが応とこたえて由樹と美海に合流する。あとは全力で逃げるだけ。しかし、敵もそんなに甘くはなかった。

「少し遊ばせすぎたか。まあいい。直々に引導を渡してやろう」

幾分機嫌の悪そうな顔つきで呟くと、西尾はなんの躊躇いもなく窓から身を乗り出してするりと宙にその身を躍らせる。校舎の三階から飛び降りることもあり得ないことだが、それよりもあり得ないのはその落下速度。まるで鉄の塊が航空中の飛行機から落とされた。そんなあり得ない速度だった。

激しい地鳴りと衝撃音。舞い上がる砂埃に周囲は煙に包まれる。少し離れた辺りから美海達の悲鳴が聞こえたがはっきりとした位置までは読み取れない。

「ぐぅっ!? ま、マジかおい!? なんでもありかよ!」

ユウが咳き込みながら悪態をつく。視界は一向に晴れないまま美海の歌も止んでしまい、聞こえるのはゾンビの蠢く音とその呻き声。まさに万事休すといった具合だ。

「美海! 由樹! 先生っ! 無事か!?」

切迫した彼の問いかけに応える声はない。まさかいまのでみんな……。嫌な予測が脳裏を掠めたとき、更にヒカルの内側を嫌な予感が駆け抜けた。

「あ、誰だ!? 美海か!? 由樹か!?」

砂埃のなかを、小柄な人影がゆっくりと歩いてくる。確かにあのサイズなら女子と見間違えても仕方ないが、この時ばかりは命取りだった。

「ダメだ! 逃げろ、ユウッ!」

「え?」

必死の思いで発した警告はもはや遅く。煙の分厚い膜を切り裂き、異形の凶刃が彼に振り下ろされる。馬鹿野郎……こんなの……私はごめんだぜ!!

感情にまかせるまま、ヒカルの身体はやるべきことをやってのけた。




6.


なんでこんなことになったのか。今日一日だけで何度も繰り返したその言葉を、絶叫にかえて吐き出す。目の前で鮮血を散らして崩れ落ちる彼女の名を。俺は気がおかしくなるんじゃないかというぐらい強く叫んだ。

「ヒカルッ!!」

抱きとめた身体からは力が抜け、顔色はすっかり血の気が失せている。俺を庇って切り裂かれた背中は傷口が開き、制服のワイシャツはどす黒い赤に染まっていた。

「なにやってんだ馬鹿野郎!」

口からでた言葉はそんな荒々しいものだった。どうして俺なんかを庇うんだ。いつもいつも……どうしてお前はっ。

「はは……やっぱ、手がかかるな」

唐突に、血に濡れた手のひらが俺の頬に添えられる。唇に感じるやわらかい、けれど冷たい感触。頭の中を様々な感情が暴れ回り、思考が僅かな時間フリーズする。

「悪い。けど、死ぬ前に、してみたかった。最後、くらいは……な」

青ざめた微笑。瞼がゆっくりと下がっていく。あ。まて。ダメだ。まってくれっ。思いもむなしく、腕の中で、彼女は深い眠りに落ちていった。

「あ、ぁあ……ぅ、あぁぁあああああっ」

怒り。悲しみ。抑えきれない憎悪。いままでに感じたことのない激情が慟哭と共に溢れ出す。許さねえ。こいつだけは、俺が、俺が殺してやるっ。

「理解できんな。別の個体のためにその身を差し出すとは。不合理極まる行動だ」

無機質な声を響かせて、晴れ始めた土煙のなかを西尾が悠然と歩いてくる。その右手はもはや人間のそれではなく、肘下から先が巨大な鉈のように変化している。本来手首のあるべき箇所には鉤爪を思わせる返しがついており、ヒカルの血潮に濡れた先端には小さな肉片が引っかかっていた。

「殺す……ぶっ殺してやるっ」

「ほぅ。いい目だ。優秀な駒になりそうだ」

脱いだワイシャツを下に敷き、ヒカルの身体を横たえる。余裕のつもりか、その間も西尾が動き出すことはなかった。

「うぉおおおおおおっ!!」

犬歯を剥き出して木刀を勢いよく引き抜く。焼けつくような感情が俺の闘争本能を掻き立て思考を鈍らせる。必要以上の力が身体に入り、肉が、骨が軋む。

踏み込みは深く、下から上に斬り放った剣閃は鋭いものだった。捻転を意識するまでもなく、幼い頃から積んできた何万回ものバットの素振りがそのまま木刀の一閃に応用される。重心移動。肩の入れ。グリップの返し。完璧な一撃。だが、敵はさらにその上をいく化物だ。

「!?」

カァァアアンッ!! 硬い鉄を打ったような鈍く重い反動が両の掌を痺れさせた。

たしかに今の一太刀は西尾の首を捉えたはずだった。しかし樫材の硬質な木刀が打ったのはコンマ何秒かでパリィする左の手のひら。こちらはまだ人間の容姿を備えているが、木刀から伝わってくる感触はまったくの別物だ。

「わかるだろう。我々とお前達では基本的なスペックが違いすぎる。無駄な労力は使わないことだ」

「ぅるせえっ!!」

右手を木刀から離し、鋭く細かくジャブを放つ。その全てがことごとく硬い手のひらで受け止められ、皮が削がれていくのがわかる。それでも走り出した激情は止められない。スピードで敵わないなら、手数で勝負だ。骨が砕けようと、血が流れようと、死ぬまで突っ走る覚悟だった。

挿絵(By みてみん)

「らぁぁあぁぁあっ!!」

蹴り、拳、木刀の連打。コンビネーションもくそもない乱撃ちに西尾が憐憫を込めた瞳で俺を見る。自分の血で顔が赤く染まり、やがて痛覚すら感じなくなってきた。


「壊してくれるな。大事な身体だ。少し手をかければ兵士長くらいにはなるだろう」

「!」

左手が俺の拳を捉える。すぐさま木刀を突き込みにかかるが肉を押し潰される痛みにふっと力が抜けていく。痛みのあまり固めの地面に膝を着いた。

「ぁっ、ぐぅっ!?」

めきめきと軋む拳。裂けた傷口から血が果実を絞るように滴っていく。

「さて……出番だ"ジャニス"。しくじるなよ」

はらはらと解けた筋肉繊維。鉈のように変異した右手が糸を編むように形を変えていく。節足動物の脚を思わせる鋭く尖った三本の触手。それは数秒で組みあがり、関節を曲げ伸ばしして作動確認を済ますと器用に制服のポケットから何かを取り出した。

「痛みはない。自我は残るが精神年齢を低下させるから恐怖もない。お前は楽しい夢の中で永遠に生きていくのだ。素晴らしいだろう?」

鋭利な爪を備えた触腕。三つの爪に挟まれた銀色の小さな円盤は中心に黒光りする玉を抱えていた。

おそらくは、あれを身体に埋め込んで洗脳するのだろう。円盤の接着面と思われる面からずるりと気味の悪い音を立て細い触手が伸びてきた。

ふざけるな。内心で激しく悪態を吐くが声には出ない。締め上げる万力は人の形を成してはいても全くの別物だ。


こんなところで、やられていいのか?


わけのわからないまま、わけのわからないものを埋め込まれて永遠にこいつの駒として利用されていく。唯一気を許せた仲間も救えないまま、今度は俺自身が誰かの大切な人を奪っていく。そんなこと……受け入れることなんかできるのか?

「ぉ、おぉっ、ぅおおおぉおおおおぉおおおっ!!」

できるわけがないだろっ。

「……健気なものだ」

なんとでも言いやがれ。

無様でも、醜くても、お前だけは殺してやる。だから……そのまま間抜け面さげて奢ってろよ。

潰されそうな拳の痛みを堪え、持てる精神力の全てを木刀を握る腕に込める。耳からではなく骨を通して軋みが伝わってきたが、俺は構うことなく腕を振り抜いた。

「!」

わずかな距離から放たれた木刀は遠心力で一度回りきる前に西尾の目前に迫る。左手は俺の拳を。右手はあの円盤を握った状態では防ぎきれはしない。いや、仮に防げたとしても、どちらかの手を離すはずだった。

はっ。やっぱり化け物か。

拳を締め上げていた力がなくなり支えを失った右腕がだらりと落ちる。その手が地に着く直前。俺は最後の力を振り絞って飛びかかった。

「あぁぁあ!!」

弾かれる木刀。身体ごと突き込むような二本の指。完全に虚を衝かれた西尾の目が大きく見開かれる。そうだ。よぉく目ん玉引ん剝いてろ……抉り取って脳味噌掻き出してやる!

「ぐぅあっ!? がっ!?」

目頭の粘膜を裂いて突き込んだ二本の指は勢いを止めずにぐりぐりと奥へ入っていく。血潮が散り、指先を不快な感触が満たしていく。後ろに倒れた奴に馬乗りになると痛みで痺れた拳を無理矢理開いてそちらもねじ込む。

「目ん玉は、柔らかいみてぇだな」

「あっ、ぎっ、こっ、のっ、猿がぁっ!」

左手が、右腕の触腕が両の二の腕を掴みへし折りにかかる。円盤を放り出すということはそれだけ奴も必死なのだ。

離すかよ。

ぶちぶちと、ごりごりと、両腕を押し潰す力が進行を妨げる。だがそんなもの、死を覚悟した人間には無意味なことだった。

「ぁあっ!! 痛ぇか?! 苦しいかぁっ!? はっ! はははっ!! 殺してやる! 殺してやる!」

「ぎ、ぢがいがぁ……」

呼吸が小刻みになり、痛みは限界に達して熱へと変わる。触腕の鋭い爪が肉に突き刺さりじわりと血が滲み出た。

あと少し。あと少しっ!!

俺は内側で渦を巻くどす黒い憎悪を爆発させる。はっきり言ってこんな街は嫌いだったけど、めちゃくちゃ少なかったけど、仲間がいる普通の毎日を、あくびが出るほど退屈な毎日を! (あいつ)が隣にいる日常を! 俺は好きだったんだ!! よくも……よくもぉっ!

「っ!? な、んだ!? これ、はっ!? 流れ込んで……これが、"怒り"!? よ、よせぇえええええっ!」

視神経がプツリと千切れ、押し出された眼球が宙に浮く。

勝った。これで、終わりだ……そう思った時だった。

「は?」

最初に聞こえたのはキィインという激しい耳鳴り。何かが空から急降下してくるような強烈な風圧。そして青白い光。その全てを俺の頭が理解すると同時に背中を凄まじい衝撃が突き抜けた。

なんだ? これ?

背骨がへし折れたのか身体の芯がぐにゃりと歪んで後ろに向かってくの字に折れ曲がっていく。不意に古い携帯電話の逆パッキンを思い出したが意識がゆっくりと遠のいていく。

あぁ。くそぅ。あと少し。あと少しだったのに。朧に霞む思考の中で無念がじんわりと広がっていく。プシュッ。背中から胸へと貫通した"何か"がそんな音を発し、今度は前から後ろへと衝撃が俺を襲った。

「……!」

肋骨が砕け、肺に突き刺さり、血反吐が気管から一気に逆流して口腔へと吐き出される。上体は糸を引かれたマリオネットのように持ち上がり、こうべを垂れた視界は赤く染まっていた。

……ちくしょう。

出来れば見たくなかったものが充血した目に映って悔しさを膨らませる。


胸に突き刺さった銀色の円盤。中心に収まった球体。それが発する青白い光。


意識を失う直前に目にした絶望と無念は、朽ちゆく俺の心に憎しみだけを残していった。








7.





宇宙(そら)から放たれた光は、暗黒物質(ダークマター)を吸収して青い星へと抵抗もなくすり抜け成層圏で実体化する。酸素、窒素、水素。鉄や炭素の豊富なこの星には、光が個をなし具現する材料は充分に揃っていた。


私は何のために生まれたのですか?


放たれる直前に問いかけた言葉に"彼"は答えてはくれなかった。

行き先も使命も告げられず独り暗い海に投げ出された光は静かな孤独の中でひたすら思考を繰り返す。何故? どうして? 私に何をさせたい? 私は何を成せばいい? わからない……わからないは……怖い。 それが全てだった。

実体を持たない思念体に時間という概念はない。暗黒の海を満たす物質を触媒に情報の相互伝達はスムーズに行われる。つまり相互伝達が可能ということは、銀河から遠く離れた別の銀河へと情報の置換が可能ということだ。その気になれば、光は別の思念体を索敵して接触することもできた。

それをしなかったのは"彼"の言葉があったからだった。宇宙に放たれれば、やるべきことはすぐにわかる。実体を持つ別の個体である"彼"はすぐにという言葉を使った。すぐにというのは何だろう。言語伝達における情報交換の難解さをこれほどもどかしく思ったことはない。

銀河を二つ三つ流れ、退屈で緩慢な暗闇を飛び続けた。星の寄り集まる銀河をまわる間は煌びやかな眺望を恍惚とながめていたが、再び何もない暗闇に差し掛かると静寂が孤独を呼び戻した。

どうして私だけがこんな目にあわなければならないんだ。そんな愚痴をこぼしたのは一度や二度ではきかない。インストールされていた同個体達の詳細な情報を咀嚼するとさらに腹が立ってくる。彼等はしっかりと使命や役割を与えられているというのに、私のこれは何だというのか。よほど引き返してがなり立ててやろうかと思ったころ、"すぐ"が来た。


これは……なんだろう?


思考回路を焼き焦がされそうな激しいエネルギー。そのストレートで根元的な情報が唐突にアップロードされたデータにより感情というものだと理解する。幾千幾万幾億の感情の瞬き。それは遥か彼方に見える小さな銀河から感じられた。

あそこに、私の為すべきことがあるのだろうか。私だけに与えられた、私だけの使命が。光は内側に喜びと期待という感情をかんじながら宇宙を駆け抜けた。

そうして見つけたのがこの青い星だった。間近まで来ると感情の瞬きはいっそう強くなり、たくさんの知的生命体が存在することがわかる。ただ不思議だったのはどこもかしこも絶望と悲しみに溢れていることだった。

これだけの数がいてどういうことだろうか。見渡す限りの負の感情。この星は酷く泣いている。酷く混乱している。試しにサーチしてみれば光と類似した個体達が大量に散見された。


と、いうことは。


私の為すべきことは彼等を補助することだろうか? 合理的に考えればそうなる。しかし、私を生み出した"彼"は非合理な個体だ。思考を共有してくれさえすれば何を考えているのかもわかるというのに接続(コネクト)を断固として拒絶する。

繋がることは全になるということ。全てを受け入れ、全てを理解し合う。孤独とは無縁の状態だ。それを何故拒むのか。光には理解できなかった。

不意に星の一点で強烈な感情エネルギーが爆発する。情報としてそれを知覚した光はその凄まじい熱量に圧倒された。

怒り、悲しみ、狂おしいほどの憎悪。そして突き刺すような鋭い殺意。それが最初に感じたあの感情エネルギーの正体だと光は確信する。

そうか……あそこ、なんですね? 私の為すべきこと、果たすべき使命は、あそこにあるのですね?

宇宙からでは米粒よりも小さな小さなひとつの島。そこに燃え上がる感情の主。そこまで行けば、きっとわかる。いや、わからなくても。


必ず見つけてみせる。


光は、暗黒物質(ダークマター)を吸収して青い星へと抵抗もなくすり抜け成層圏で実体化する。設計図面は元々インストールされていたものを使用し、材料はこの青い星から必要な分だけを拝借した。実体を得た新しい肉体はだいぶ小ぶりだが、質量はおそらくこの星に存在するどの物質よりも重かっただろう。







プロローグ 了

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