白い純情
Ⅰ
「あ、雪だ」
ひかるは窓の外を見てつぶやいた。
俺もつられて見る。確かに、白い粉雪がぱらぱらと舞っていた。
東京の雪はしょぼいな。地元の大学を中退し東京に出てから、東京の冬を四回ほど過ごした。雪国生まれというわけじゃないが、東京の雪はしょぼいというのが毎回の感想だ。灰色の街に降る白は、なんだか滑稽に見える。
「すげー。積もるのかな」
机の上に広がっている問題集そっちのけで、ひかるは目をきらきらさせながら雪を見ている。
「積もったっていいことねえよ。コンクリは滑るし、電車は止まるし」
「まったく、先生は冷めてんなあ。雪降ると楽しいじゃん。テンション上がる。あーあ、こんな時に勉強とかしたくねー」
「受験生なんだからしょうがねえだろ。雪なんかどうでもいいから続きやれよ」
ひかるは口をとがらせて渋々問題集に向き直った。
雪を見てはしゃぐ姿を見て、こいつはまだ高校生なんだと実感する。また、注意して静かになるあたり、子供らしく素直だとも。もうじき大学生になるなんて想像し難い。まあ、受かったらの話だが。
ひかるには高校一年の時に入塾してきた時から、英語を教えている。ひかるは基本的には素直で教えやすい生徒だ。生意気なところもあるが、わからないことをすぐに質問してきて理解するまで投げ出さない性格は、講師としてはとても助かる。こいつを受け持った時はまだ俺は新人の部類だったから、やりやすかった。
「先生、終わったから採点して」
渡された問題を受け取って採点していると、手持無沙汰なのかひかるはそわそわし始めた。
「ねえ、先生」
「ん?」
「おれ受かるかなあ」
「知るか。落ちまくったら浪人だろ。いやだったら勉強するんだな」
「ひどっ。そこはさー、こんだけ勉強したんだから大丈夫だとか言って励ましてよ」
「まあ、頑張った方なんじゃねえの。他の先生も順調に成績上がってるって褒めてたぞ」
「……先生は褒めてくんねえの?」
不満そうなひかるの顔の前に、採点した問題をつきつける。
「いつも注意してるとこ、またミスしてる」
「うそっ!? 気を付けてたのに~」
「気を付けても間違えたら同じだから。解き直し」
「あーもう!」
文句を言いながらも、なんだかんだ従う。こいつは課題などをいくら出しても、きっちりやってきた。他の教科は知らないが、少なくとも俺の授業は。やる気もあるし、集中力もある。本当にやりやすい、いい生徒だと思う。
ただ、問題がないこともない――
「先生、ここってさ――」
「何?」
のぞき込もうとすると、不意に顔を上げたひかるが、ばっと身を引いた。
「わっ!」
「……うるさ。でかい声出すなよ」
「いや、だって、いきなり来んなよ! びっくりすんじゃん!」
と言って、ひかるは顔を机にくっつける勢いで問題と向き合った。
「そんなに驚くことかよ」
ひかるを横目に見て、俺は窓の外を眺める。
駅前にあるこの塾の窓からは、外の賑わいがよく見える。電飾の取り付けられた並木。寄り添いながら歩くカップル達……皆、降り始めた雪にはしゃいでいるように見えた。
無性に、煙草を吸いたくなった。
Ⅱ
まだ雪が降っている。
塾が入っているビルの裏階段で俺は煙草を吸っていた。めちゃくちゃ寒いが、建物内は禁煙だから仕方ない。
息を吐くと、白い煙が冷たい空気へ溶けていった。それをぼんやり眺めていると、がちゃりとドアが開いた。
「うー、さむっ! おまえこの寒いのによく出てるよなあ」
「おまえもだろ」
村木の顔に煙をかけてやる。村木は大げさに咳き込みながら、自分も煙草に火をつけた。
「明後日はクリスマスイブだってのにみっちり授業入ってるとは。塾講は辛いよなあ」
「クリスマスとか言ったって、貴重な冬期講習の一日だからな。キリスト教徒でもねえのに休む道理もねえだろ」
見下ろすと、光に彩られた町並みがある。細々とした雪に降られて、それはますますおもちゃ箱みたいに見えた。
「おまえって冷めてるよなあ。キリストとか関係なくてもなんか特別な気分になるじゃん。ま、おれは彼女もいないしそんなに騒ぐ気分じゃないけどさ。おまえはどうなの? 皆気になってるぜ。おまえのクリスマスの予定がどうのって」
「皆って誰」
「女子大生。バイトの」
「ふーん」
「ほんっと冷めてるなあ、おまえ」
冷めてるも何も、本当にそう思うからだ。
「俺帰るわ」
「あ、そういえばさ。また待ってたぜ、あの子。ひかる君」
煙草を消そうとして、思わず手を止めた。
「さっきコンビニ行ったら、エントランスの脇にいるの見たぞ。おまえ待ってるんだろ。健気だよなあ」
村木はからかうように笑ったが、俺はなんとも言えなかった。
たまに、というか結構な割合で、授業が終わった後にひかるはおれが出て行くのを待っている。特に何をするわけでもない、話をしながら駅まで一緒に歩いて行くだけだ。
授業が終わってから三十分近く経っているというのに、まだいるのか。
自分の荷物を取ってエレベーターで下へ降り、エントランスから外へ出る。
「先生!」
案の定、声がかかった。振り向くと、鼻の頭を真っ赤にしたひかるが駆け寄ってくる。
「……まだいたのかよ」
「だって、傘ないからさ。先生のに入れてよ」
「俺も持ってねえよ」
「えー!? せっかく待ってたのに」
わざとらしく不満気な顔をするが、まったく不満に思っていないのがよくわかる。安心と期待と嬉しさのようなものが、ひかるの顔にいっぱいいっぱい広がっているように見えた。
ひかるは俺の斜め後ろをついてくる。コンクリの上に雪が薄く積もっているが、俺はすたすたと歩く。東京の人間より多少雪道は歩き慣れているつもりだ。
「ちょ、早いよ先生!」
「おまえさ、自分の立場わかってんのか? 俺を待って無駄に時間潰すより勉強してろ」
「だって、早く帰らないと電車止まるかもだし……」
「だったら尚更、待ってないで帰れ」
ひかるは滑りそうになりながら懸命についてくる。それでも俺との距離はどんどん空いていった。
「いいじゃん、別に……自分の時間をどう使おうが」
「おまえが落ちたら俺の評価が下がるんだよ」
その時、背後でべちゃっと派手な音がした。思わず振り返ると、漫画のようにひかるが地面にダイブしている。
「うえっ! つめたっ」
「おまえなあ……」
お約束かよ。
渋々手を貸して起こしてやると、口元が赤く滲んでいるのに気付いた。
「いってえ……先生のバカ、あんたが早歩きするから転んじゃったじゃん!」
「おい、血出てるぞ」
「――へあっ!?」
指で血を拭ってやったらひかるが変な声を出した。
「……痛かったか?」
「え、あ、いや、ち、違う、けど……びっくりした、だけ」
そう言う声はかすかに震えていて――目が少し潤んでいるのは転んだせいだけではなく、顔が真っ赤になっているのもきっと寒さのせいだけじゃないのだろう――
「……何考えてんだ、俺は」
「え? な、何?」
「いや、なんでもない。――気を付けろよ」
「う、うん……」
小さくなったひかるの声からは、さっきまでの元気にふざけていた様子は一切消えている。
俺は何も言わず歩き出した。ひかるも慌ててついてくる。転ばせてしまった手前歩く速度を緩めたので、ひかるは俺の隣にいる。
「ねえ、先生……」
ぽつりとひかるが声を出す。
「明後日、クリスマスだろ?」
「あー……そうだったな、そういえば」
「予定あるの?」
「……なんで?」
「なんとなく、気になったから……」
今まで聴いた誰のどんな声より、それはか細い音だった。
「普通に授業だよ、おまえの授業は入ってないけど」
「ふーん……そっか」
「――その後、飯食うけど」
「え?」
「彼女と」
「へー! 先生彼女いたんだ!」
大げさにはしゃいで、肩をぼすんと叩かれた。
「なんだ、知らなかった。ちゃっかりいるんじゃん。どうせ寂しいクリスマスを送るんだと思ってたよ。でも、彼女いたんだね。まあ先生イケメンだからなー。どこの人!?」
「おまえの知らない人」
「あはは、そりゃそうか」
小さく息をついてから、ひかるはうつむく。
「なんか、先生とこういう話したの初めてだね」
「まあ、生徒と話す話題でもないしな」
「そうだよね……」
柔らかそうな髪に隠れて、横からでは表情は見えなかった。辛うじて見える唇がかすかに震えているように見えるのは、気のせいだろうか。
気が付くと、もう駅の改札前まで来ていた。丁度帰宅ラッシュの時間帯。構内はせわしく歩く人々で溢れている。
「……教えてくれれば良かったのに」
ひかるの小さな声は、駅の喧騒によってほとんどかき消されていた。
ほんの少しだけ顔を上げて、俺の表情をうかがう。目元が赤くなっていた。
ぞくり、と心臓が奇妙な鼓動を一つ打った。
「なんで? おまえには関係ないのに」
いつもの俺はこう答えるはずだ。別に相手のことは考えちゃいない。ただ「おまえには関係ない」と思ったから、そう言うだけ。何も不自然ではない。
だけど、この時は、俺は確かに、ある意識を持ってこの言葉を吐き出したのだ。
「……うん……だよね」
揺れる大きな目から、今にも雫が落ちそうに見えた。
「――じゃあな。勉強しろよ」
適当に別れを告げて、俺はさっさと改札に入り人混みに紛れてしまった。ひかるはついて来なかったが、振り返りはしなかった。
Ⅲ
午後の授業がキャンセルになったので、俺は家に帰ってごろごろしていた。
もう冬期講習に入っており他の講師は休む間もないが、俺はそれほどがっつり仕事をしているわけではない。最低限、生活できるだけの収入を得るための仕事。職業塾講師とはとても言えない。ただのバイト――フリーターだ。
適当につけたテレビまでもクリスマス一色。そういえば明日がクリスマスイブか。
「……くだらねえ」
テレビを消して寝転がる。
スマホをつけると、メールが二件来ていた。一件目はサイトからの宣伝メール。もう一つは母親からだった。
母からのメールはいつもと同じ。実家に戻って来い。戻るのが無理なら、顔だけでも出せ――
どうせ帰っても、仕事を紹介してやるだの結婚しろだのうるさいだけだ。田舎に戻ったところで、何かを始めても続かないのは目に見えている。大学がそうだったように。
恋愛もだ。初めて彼女ができたのは中学生の時だったが、その時から今に至るまで二人目の彼女は存在しない。一人目の時に、“付き合う”という行為は自分には合わないと気付いたからだ。誰かと深く関わるのが、とてつもなく面倒なのだ。何かトラウマがあるわけでもないが、ただただわずらわしい。誰かが自分の領域に入るということも、それまでの過程も。
飽き性でやる気なし、マイペース。幼い頃からまったく変わらない性格。今更何か変化が起きるわけでもない――はずだった。
突然、インターホンが鳴った。
面倒なので無視していると、もう一度鳴る。約十秒後、また鳴った。どうやら帰る気はないらしい。
渋々ドアを開けると、甘ったるい香りが鼻腔をついた。
「久しぶり~」
リナだった。たまに俺の家に来る女。いつ知り合ったかはよく覚えていないが、月に一、二回の割合で家にやって来る。そしてやることをやって帰る。たまに料理を作ったりもするが、基本的にはやるだけだ。
「……何?」
「んー、なんか会いたくなったから」
「やりたくなっただけだろ」
「あはは、そうかも~。ね、とりあえず寒いから入れてよ」
「俺、今やる気分じゃないんだけど。帰ってくれない? 眠いし」
「えー、何ソレ。あんたがあたしに連絡した時はいつも来てるのに。あたしが来たい時に来ちゃだめなの?」
リナは俺を押しのけて中に入って来た。
「ねえ、あたしだって別にやりに来ただけじゃないんだけど」
「だったら何しに来たんだよ」
リナはにっこりと笑い、手に持っているビニール袋を見せつけてきた。
「色々買って来たから、何か作ってあげる」
「……意味がわからん。頼んでないし」
「いいじゃん。たまには彼女らしいことしたいの」
「彼女って――俺、あんたと付き合ってたっけ」
リナはさっさと台所で料理の準備を始めている。
「――付き合ってないけどさ。彼女の気分味わうくらい、いいでしょ」
「ふーん……まあ、飯代浮くからいいけど」
しばらく経つと、いい匂いがしてきた。ビーフシチューらしい。滅多に食べない豪華なメニューだ。
俺は特にすることもなく、つまらないテレビを見ながらぼんやりとしていた。
何も考えないでいると、意味もなくひかるの顔が浮かぶ。昨日の、大きな真っ黒の目、柔らかそうな色素の薄い髪、すぐ赤くなる頬。
あいつの俺を見る目の中の、何かの感情に気付いたのはいつだったか。そうした熱のこもった目を向けられたのは別に初めてじゃない。ただひかるのそれは、あまりにも真っ直ぐで、一切の穢れも知らないような――そんな目だった。
「もうすぐできるよー。ほんとはもっと煮込まなきゃいけないんだけど、手軽に済ませちゃった」
あいつと向き合うと、なぜか後ろめたい気持ちになる。ひかるの目、あいつが持っている空気や表情、あらゆるものが俺にはまぶしすぎるのだ。
「あんまりおいしくなくても文句は言わないでね。せっかく作ってあげたんだから」
しかし俺の挙動、言葉一つでくるくる顔が変わる。それをおもしろく感じていたのは確かだった。
後ろめたさと興味。そして、嗜虐心。
だから俺はくだらない嘘をついたのだ。――あいつがどんな顔をするか見るために。
「ねえ、聞いてる?」
「ん?」
「できたんだけど」
リナは大きくため息をついた。
「あたしが話し掛けても上の空なんだから。何考えてたの?」
テーブルに用意されたシチューは白い湯気が立っており、うまそうだった。台所を使った料理を食べるのは本当に久しぶりだ。
「別に何も」
「あんたって本当に秘密主義。あたし、あんたの住所とメアドと電話番号くらいしか知らないよ。あ、あと職業。塾講だったっけ?」
「隠してるわけじゃない。言わないだけ。塾講は職業ってほどのもんじゃない。ただのバイトみたいなもん」
「だったらさ、質問していい?」
「いいけど」
「彼女いる?」
「いない」
「好きな人は?」
「いない」
「じゃあ、あたしが今あんたの一番近くにいる女ってことでいいの?」
「近いだろ。今一緒に飯食ってる」
「そういう意味じゃなくて。親しいってこと」
「まあ、そうなんじゃねえの」
「じゃあさ」
向かいに座っているリナは机に身を乗り出した。
「彼女にしてよ。あたし、あんたのこと好き」
「……悪いけど、無理」
「なんで?」
「面倒だから」
「……あたしのこと嫌い?」
「いや。普通だけど。大体『付き合う』って何。たまにセックスして、今一緒に飯食ってるだろ。これ以上何すれば『恋人』になる? 付き合ったとしても、俺は今以上のことはするつもりないし、できない」
「へえ~……あんたみたいな考えの人、本当にいるんだ」
リナは怒った様子もなく、ただ驚いているらしい。
「あーあ、ビーフシチュー代無駄になっちゃった。牛肉高かったのに」
「…………」
「ねえ、これからもここ来ていい?」
「別にいいけど」
シチューはうまかった。めちゃくちゃうまいというわけではないが、たまには食べたくなる味だった。
「……あのさ」
「なに?」
「やたら俺と一緒にいようとして、なのに近寄ると顔真っ赤にして動揺したり、彼女がいるって言ったら泣きそうになったりするのって、どう思う?」
「ほぼクロでしょ。わっかりやすい反応」
「……だよな」
「それ、誰のこと?」
「いや、別に……」
ごまかすと、リナは不満気な顔をした。
「本当、あんたって何考えてるかわかんない。フツー、自分に失恋した相手に気になる子の話する? どんなことにも興味ないって顔してるくせにさ、残酷なことするよね。ま、そこが好きなんだけど」
興味。確かに、俺は他人に対しての興味は薄いと思う。ただ一人、ひかるだけを除いては。
どうしてひかるが気になるのかわからない。好意を寄せられたことは今までにいくらでもある。いつも気になることなんてなかったのに、なぜあいつだけこれほど気になるのか。
Ⅳ
「おまえ、最近上の空じゃねえ?」
また雪が降りそうな曇り空の下、煙草の煙を吐き出して村木が言った。
「いつもこんなだよ」
「そうかあ? なーんかさ、恋でもしてるんじゃねえの」
からかって笑う村木に、真面目な顔で答えてみる。
「そうかもな」
「え」
「って言ったらどうする?」
「――って冗談かよ! なんだ、本当に恋してんのかと思ったわ。こう言うのもなんだけどさ、おまえって恋愛しなさそうだよな」
「俺もそう思う」
「あ、そういえばおまえ、今日あの子の授業入ってた? えーと、ひかる君」
「いや?」
「あの子、自習しに来てるぜ。ちょっと声かけてやれば」
村木が言った通り、自習室をのぞいてみるとひかるの姿が見えた。ひかるはよく自習に来て、俺がいる時は質問もして来たりする。だが、今日は俺のところに来ていない。俺が出勤していることは知っているはずだが。
さっきの授業で、俺の今日の仕事は終わりだ。俺はコートを羽織り、荷物を持って下へ降りエントランスに出る。
雪が降っていた。午後六時を過ぎ、辺りはすっかり暗くイルミネーションがきらきら輝いている。コンクリートに落ちた雪は、そこに留まることなく消えていく。しかし道路の脇には昨日の雪の残りがあって、その上にはまた新しい白を重ねていっている。
ビルの壁に寄り掛かり、通り過ぎる人々を眺める。クリスマスイブなだけあって、見事にカップルばかりだ。
寒いな。こんな寒い日に何をするわけでもなく、一人でただ待つっていうのは思っていたより大変だ。顔が痛いし、足の指先が凍りついたように冷たくなる。指先もうまく動かない。
「――先生!?」
聞き慣れた、高い声。それを聞いてどこか安心した俺がいた。
「……おう」
今エントランスから出て来たひかるが、びっくりした顔でそこにいる。
「なんでいるの……?」
「待ってたから」
「え……」
「おまえ、この寒いのにずっとよく待っていられたな。何回も何回もさ。寒すぎて、もう帰ろうかと思ってた」
「お、おれを待ってたの?」
「ああ。たまには俺の方が待ってみようかと思って」
暖かい所から出て来たばかりのはずなのに、ひかるの顔は赤い。
「なんで……」
「とりあえず歩こう。寒いから早く動きたい」
人一人分の空間をあけて、俺たちは歩き出した。
「……先生、帰るの? 彼女と予定あるんじゃないの?」
ああ、そういえばそうだったっけ。
「まあな」
「あーあ、羨ましいなあ」
「おまえは受験生なんだから勉強してろ」
「……そうだけどさ。だってさっきからカップルばっかりじゃん!」
確かに、すれ違うのは恋人らしき男女の組み合わせばかり。ただの平日だというのに、ご苦労なものだ。
それからしばらく無言が続いた。深くうつむいたひかるが、頻繁に目をこすっているのが視界に入っている。何度も何度も。
なぜ? と訊こうかと思った。なぜ泣いているのか、と。
けれど聞かなかった。聞けなかった。そして言葉のないまま、駅に入り昨日別れた改札まで辿り着く。
「じゃあな……」
「ん……」
さっきまでは俺に気付かれまいとしていたひかるだったが、明るい所に出てもはやそれは無理だった。
「……なんで待ってたの……?」
喧噪にかき消されそうな小さな声だった。しかし、俺の耳には届いた。
「……なんでかな」
「おれ、会わないようにしてたのにさ。なんでこんな日に限って……」
手袋を取って、ひかるの頭にぽんと手を置く。意図してひかるに触れたのはこれが初めてだった。思っていた通り、柔らかい髪だった。
「先生……おれ……」
何十、何百の人が俺たちの周りを通り過ぎて行く。どこかからクリスマスソングが聴こえる。笑いあう恋人たちの声が響く。
何か言いかけたひかるは、次の言葉を紡ぐことはなかった。数分後に顔を上げたひかるは、いつもの笑顔だった。
「ごめん、なんか、カッコ悪いとこ見せちゃって。クリぼっちって寂しいもんだなーと思ったら、すげー泣けてきちゃってさ! 先生も彼女と楽しく過ごしなよ!」
目元が痛々しいほど赤かった。
「…………」
初めて、失望した自分に気付いた。
俺は何かを期待していたのだ。何か――ひかるが言おうとした、何かを。
「じゃあ、また次の授業で! メリークリスマス!」
ひかるは改札の向こうへ走って行った。あっという間に、その背中は見えなくなった。
「……何が、メリークリスマス、だよ」
くだらない。本当に、くだらない。クリスマスも、ひかるに失望した俺も、期待した俺も、何もかも。
俺は改札を通って走り出した。サラリーマンにぶつかった。手を繋いで歩いていたカップルの真ん中を通り過ぎ背中に悪態をつかれた。
走って、無様に汗をかいて、消えたあいつの姿を探した。
ひかるが使っている路線のホームに駆け下りる。電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。電車が来る。ドアが開く。
電車に乗り込む列の中に、うつむいたままの、あいつを見付けた。
「ひかる!!」
俺の大声に、皆が驚いてこっちを見るのがわかった。けれど、俺の目にはひかるだけが見えていた。
不思議だ。他の全部に色がないのに、ひかるの姿だけがこんなにも鮮明に見える。
俺に気付いたひかるは立ち尽くしていた。電車のドアが閉まり、走り出しても、そこから動かなかった。
濡れた黒い目から、涙をぼろぼろ溢れさせて。笑い泣きのような顔をして。
その顔を見た俺は、確かに安心したのだ。