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WILL  作者: 桜雪猫
一年目
5/13

一年目―春~秋 2

そこからの一週間は文字通り、あっという間に過ぎて行った。

午前中は幸と実技の訓練、午後からは麻生の仕事を手伝いながら組織についてを学ぶ。普通の人間なら到底無理だと思われる内容をルイは途轍もないスピードで吸収していった。Lackだからの一言で片付ける者もいるだろうが、身近で見ている者にはその努力の様がひしひしと伝わってくるような生活だった。

息抜きに外に行くか?と二人に問われてもがんとして支社のビルからは出ようとせず、暇さえあれば組織についてが記された資料を読み漁っている。着替えがないと不便だろうと気を利かせてくれた隊員の持ってきた荷物も結局は下着以外手をつけようとはせず、この一週間をあの黒いワンピース姿で通している。夜は夜で、隊員の仮眠室で休むように言ってもここでいいと究竟室のソファーで毛布に包まり小さく丸まって眠ることしかしなかった。

不安のあらわれであることは百も承知で麻生と幸はしばらく様子を見ることにするしかなかった。


そして麻生が幸に告げた一週間目の昼過ぎ……。


「ルイ、今日の夜は仕事に行くで」

「……人を殺すのね」


ついにその日が来たかというようにルイの表情に緊張が走る。それとまるっきり反対に幸は呑気そうな表情のまま真っ黒のファイルをヒラヒラと動かして見せる。


「的が生身の人間になるだけで、ここで一週間やってきたこととなんもかわらんし、そんな心配することないで」


そういう問題じゃないんだというルイの気持ちはたぶん言葉にしても伝わらないような気がして口にはしなかった。

そんなモヤモヤした気持ちのまま夜を迎え、時刻は安房支社の管轄が賑わいを見せ始める午後8時。


一応見せてもらった仕事内容を指示するファイルの中身は覚えた。といっても驚くぐらい何も書いていなかった。ターゲットの略歴と依頼に至った簡単な経緯、それから依頼内容。もっと詳しく色々書かれていると思ったので拍子抜けしたぐらいだ。特に依頼内容の欄に《要死亡確認》とだけ書かれていたので幸に確認してみると、「死にさえしたら方法は問わんってこっちゃ」となんとも簡潔な回答が返ってきてしまった。


ターゲットの中年男性の通勤路に面したビルの屋上でその時を待っているルイはそんな昼間のやりとりを思い出して何度目ともないため息をついた。


「ねぇ、幸……本当に殺すんだよね」


ルイはふと、幸に尋ねた。


「当たり前やろ。殺らへんかったら、ワイらが死ななあかんねんで」

「そうよね」


ルイはそう呟くと地上に再び視線を戻す。今までため息以外、物音を立てようとしなかったルイの言葉に幸が問い返す。


「恐いんか?」

「別に……怖くなんか……ないもん」


ルイは俯いてそう答える。幸はそんなルイの肩をポンと叩き微笑む。


「最初から平気な奴はおらん。それにこんなことするんが平気やったらあかんねん。そやけど、仕事やからしなあかん。ルイ、大事なんは自分自身が人を殺す狂気に飲み込まれへんことやで。飲み込まれたらただの殺人狂や……始末されるで。それは嫌やろ」

「うん……」


また二人の間に沈黙の時間が過ぎていき、30分ほどがたった。

二人の視界にファイルでみた写真の男が入る。


「きよったし、降りるで」

「えっ、降りるの?」

「当たり前やん。こっからどーやって殺すねんな」


そりゃもちろんゴ○ゴみたいに……とルイは言いたかったが、冗談を言っている場合でもなさそうなので言わない。

二人が立っているのは三階建てのオフィスの屋上で、幸が示しているのは地上の路地裏。

高さはゆうに10mを超える。階段はあるがもう既に施錠されている上に、外付けの非常階段は路地裏の逆側に面しており使うとなるとターゲットを見損なう恐れがある。悩むルイに幸はさらっと告げた。


「何言うてんねん、飛び降りるで」

「降下訓練まだとちゅ……!?」


確かにロープを使ってのビル等の上り下りをする練習はしているが、実用にはまだ程遠い状態だった。今日も一応の準備はさせられたが、あくまでも念の為だと思っていた。それなのにルイの背に手を当てて幸は言った。


「実践に勝る経験なし!」


背中を押され、手を引かれる。ターゲットを探すため安全柵の向こう側にいたので落下を止めてくれるものはなかった。上がりそうになる悲鳴を堪えたことは是非とも褒めてほしい。無我夢中で体勢を立て直したルイだったが結局は地面に激突するのを防げただけで、その着地は不格好そのものだった。


「あとであんた殴らせて」


盛大にめくれ上がったスカートを直しながらルイが頬を赤らめて言う。


「別にルイのパンツみたぐらいやとなんも思わんから安心しいや。これに懲りたら次からはスカートやめるこっちゃな」


本気で殴ろうと思い、ルイが幸に近づく。しかし拳を上げることはできなかった。何故なら幸の気配が明らかにさっきまでとは異なっていたからだ。


「来るで」


幸に短く告げられルイも無意識で息を潜める。ターゲットがビルの角を曲がり、目の前から歩いてくる。人通りがなく、街灯もほとんどないこの道は人の顔がようやく判断できるほどの明るさしかない。


「おっちゃん、ちょっと待ってもらおか」

「なんだ君は」


ターゲットは一見どこにでもいそうなサラリーマン風の男だった。


「おっちゃんは鴉の都市伝説って聞いたことあるか?」


幸は男の背後に軽やかに回りこむ。


「……何のことだ」


男が息を飲むのはルイにも分かった。男にしてみると仕事帰りにいきなりわけのわからない若者に絡まれたようなものだろう。


「こういうことや」


幸はにやっと笑うと男を後ろから羽交い絞めにする。男は必死に抵抗するが無意味に等しかった。


「今日はな、ワイのパートナーの初仕事なんや。そやしおとなしゅうしとらな痛い思いするで」


男は幸に耳元で囁かれ全身を硬直させる。


「何が目的だ!警察に……ふっ!?」


喚く男の口を幸の手がふさぐ。


「今もっとる銃でこのおっさんを打ち抜いたらいい。それだけや……」


ルイは何かに操られるかのようにゆっくりとした動きで拳銃を抜き、それを男の方に向ける。


「あたしが引き金を引いたらこの男は死ぬの?」

「そやな」


目の前の男はとても罪を犯したような悪人には見えない。依頼書は読んだ。それでも何処にでもいる普通の人にしか見えなかった。


「こいつが的や。人やと思いな」


動けないルイに幸が言う。それでも引き金にかかった指は動かなかった。


「まあ、最初はそういうもんやんな」


そう呟いた次の瞬間、幸の腕が一瞬緩んだ。必死に抵抗していた男がその隙を見逃すはずもなく、幸と男の形勢があっという間に入れかわる。


「ふざけんな、クソガキ!!」


それまでの何処にでもいそうだった中年サラリーマンが暴力的な姿を見せ、幸に馬乗りになってその首を絞めた。


「幸!!」


ルイは反射的に止めなくてはと考え、ブレスレットのワイヤーを飛ばした。それは的確に男の首を捉え、呼吸を奪われた男がそれを外そうと躍起にもがく。それが無理だと判断した瞬間、男の殺意がルイに向けられた。


「っ!!」


何度も向けられた馴染みのある気配にルイの神経がピリッと逆立つ。とっさにワイヤーから手を放して代わりに銃口を向けたのは自己防衛本能としか言いようがない。


「撃つんや」


強くはないその一言に今度はルイの人差し指が素直に従った。

サイレンサー付きの拳銃から放たれた弾丸はまっすぐに男の胸を貫く。男はその場に倒れて暫く痙攣し、そして動かなくなった。


「ルイ……」


幸が腕を緩めたのも不利な体勢になったのももちろんわざとで、ルイが引き金を引くきっかけを作ったにすぎない。その証拠に幸の手はいつでも男を殺せるように拳銃にかけられていた。全てはルイに人を殺めさせるためにうった芝居でしかなかった。

拳銃を握った手を見つめ呆然と立ち尽くすルイを見ると幸はいたたまれない心境になった。起き上がって男の首筋に手を当ててみるが既に脈はない。

仕事は完遂されていた。


「幸……人間てみんなこんな風に醜いの?普通だと思っていた人が誰かを殺したいと思うの?」

「そんなことはない。十人十色、いろいろおるっちゅうことや。あいつ死ねばええのにって考えたことのあるやつは結構おるやろけど、それを実行するまでにはなかなかいたらんってことちゃうか」


そういうと幸は携帯で何処かに連絡を入れる。


「安房支社神河です。予定地にて任務完了。事後処理お願いします」


ああ、仕事が終わったのだとルイが今さっき自分が殺した男に視線を落とす。人の命の終わりとはこうまでも呆気ないのかと思った。苦痛と驚きに満ちた顔はあまりに虚ろで、血だまりは思ったほど広がらなかった。それでもそこからは確かに嗅ぎなれない鉄錆の香りがするような気がした。

ふと依頼にいたる経緯に書かれていた言葉がルイの脳裏をよぎる。


《一事不再理により裁くことのできない殺人犯》


法をかいくぐり、のうのうと生きる犯罪者だったのだろうか?もしかしたら本当に勘違いされただけだったのではないだろうか?でも、男は自分たちに殺気を向けた。向けられたのは自分たちが危害を加えようとしたから身を守るため?

グルグルと思考のループから抜け出せずにいると段々自分のやったことがおぞましいような気がしてきた。人を殺すということは犯してはならない罪。それを自分は幸と自分の身を守らなくてはいけないという建前のもとやすやすと乗り越えてしまった。

考えるな。考えてはいけない。まだ崩れるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、ルイは拳銃をホルダーにしまうと顔をあげて笑ってみせた。


「帰ろ……麻生が待ってる」


携帯を片付けた幸は微笑みを浮かべて優しくルイを抱きしめてその耳元で囁いた。


「笑いな。無理して笑うたらワイみたいになるで。いっぺんに何でもできひんかってええんや。少しずつ憶えたらええんや。だから、自分をそんなに追い詰めたらあかん」


ルイが両手で顔を覆う。堪えきれなくなった涙が頬を伝った。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


ルイは幸の腕の中で謝罪(つぐない)の言葉を発し続ける。そんなルイを慰めるように幸は頭を優しく撫でた。


「何で謝るんや。なんも失敗してへんやろ」

「あたしは……っ」


ルイが突然口元を押さえてうずくまった。


「我慢する事あらへん。最初はみんなそうなんやから……」


幸はルイが落ち着くまでその背中をさすってやる。しばらくしてルイの呼吸が落ち着いてくると幸は静かに声をかけた。


「ルイは強いな」

「あたしは強くなんかないわ」

「なら、大切なもん見つけてみ。そしたら強なれるで、今以上に。ワイかて、独りやないからここにおるんやし」


最後の方は独白のようで、たぶんルイの耳には届いていなかっただろう。幸はルイにそっと手を差し伸べると尋ねた。


「歩けるか?」

「うん……」


ルイはふらつきながらも自分の足で立ち、幸に支えられながら麻生の元に帰った。





「麻生、帰ったでー」


相変わらずの軽い調子で幸が究竟室のドアを開ける。当然のように、そこでは麻生が事務机で書類の整理をしていた。顔を上げた麻生の視界に青白い顔でその場に立ち尽くすルイの姿が入る。


「もう少し、静かに帰ってこい。ルイ、大丈夫か?」

「お水……」


麻生は何も言わず奥の部屋に行き、グラス片手に戻ってくる。


「ほら」

「ありがと……」


麻生がルイにグラスを差し出した瞬間、彼女は腕の特殊ワイヤーを投げた。それは的確に麻生の首を狙っていた。しかし、力量差は歴然としており、麻生の首にワイヤーが巻きつくことはない。ワイヤーは麻生が挟んだナイフに弾かれ、無惨に足元に落とされた。当然、それが引き戻されることを防ぐ為、麻生の足はワイヤーの上にある。


「どういうつもりだ?」


麻生は慌てずにルイの手を封じ、もう片手でその首筋にナイフを当てる。ルイの後頭部には幸が銃口を突きつけていた。


「……私はずっとこんなことをしていくの?」


ルイの目から涙の雫が零れる。一度は止まっていたものも帰り道でまた色々と考える間に限界を超えていた。その罪の意識は時間を経る毎に重くなっていくような気がした。それでも自分がこれだと決めた武器から手を離す事は出来なかった。何故なら今はこれしか自分の身を……命を守るものがないから。


「やめるか?」

「やめてもいいの?」


背後でカチリと撃鉄の音が鳴る。幸の指が引き金にかかっていることは見なくても分かった。

それはすなわち、「辞める」という選択肢が「死」に直結しているということを如実に示していた。


「中途半端な気持ちでこなしていけるほど、やわな仕事ではない。お前が生きるためにはこれから何百の命を奪い、何千の人を傷つけていくんだ。恨まれるだろう。危険な目にも合うだろう。傷を負い、血を流し、痛みに耐えて、それでも自分の意志とその手足で歩まなくてはならないんだ。その覚悟がないならいまここで降りることを勧める」


現実として日々目の当たりにしてきた者の経験から紡がれる言葉には重みがあった。麻生が……幸がどれだけの血を流してきたのかルイにはまだわからない。ずっとわからないままかもしれない。この一週間、分かろうと努力したつもりでいた。でも実際には分かろうとしたふりをしただけで必要以上にはなにものにも触れようとはしなかった。


「どうした、決められないか?ならば私が背中を押してやろう」


乱暴にルイをその場に突き飛ばすと、麻生は凍りつきそうなほど冷え冷えとした眼差しを幸に向けた。


「幸、左手を広げて床に置け」


ルイには意味のわからない命令だったが、幸にはその意図が瞬時に理解できた。


「今、払うん?」

「これが現実だとルイに教えてやれ」

「片手でええんか?」

「仕事に差し支えると困るから利き手は残しておいてやる」

「……わかった」


幸が麻生の指示に従い、床に両膝を付けると掌を下にして手を開けてその場に置いた。その表情には少なからず緊張した様子が伺える。


「何をするの?」


立ち上がることのできないルイがただならぬ空気に戸惑いながら問う。それに答えるのは幸。


「失敗には報復があるって話したやろ。ワイはルイを殺せんかった。その罰はきちんと受けなあかんってことや」

「でも、あたしはこの組織に生きることを許されたんじゃないの?仕事をこなしたら貴方のミスにはならないって……」

「フェイル-任務失敗にはならんかったってだけや。ロスト-依頼消失にはどうやったかて引っかかる。それを麻生は今まで猶予してくれてただけや」

「それならその罰はあたしが受けるべきものだわ」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げてルイが幸にキッパリと言った。その言葉を口にすることに躊躇いなど微塵もなかった。

傷つくのは怖い。痛いのはいや。でも目の前で自分の為に誰かが傷をおうのはもっと嫌だった。


「任務放棄やとわかっててルイを殺さんかったんはワイの意思や。そやしワイの仕事のミスを背負うんはワイやからルイが肩代わりできることやないで」


幸がふわっと微笑む。ルイは涙が零れるのを抑えられなかった。ただ見ているしかないのだと理解し、涙が止まらなくても視線はそらしてはならないと自分に言い聞かせた。


「動くなよ」

「お手柔らかに」


幸と麻生の簡潔なやりとりの二秒後。“ズダン”と言う音と“グチュッ”という背筋に響く音がした。


「つぁ……」


手の甲を貫通したサバイバルナイフが幸の左手を床に縫い付ける。その表情は苦悶に歪み、右手は白くなるほど強く握りしめられている。


「ルイとの話が終わるまでそのままそこで反省していろ」


冷たく言い放った麻生の視線が、言葉を失くして呆然と床にへたり込んだままのルイを捉える。


「これがミスに対する報復だ。幸はわかっていてお前を拾った。私は私の仕事としてその罰を与えた。これがこの組織のやり方だ」


何処と無く苦々しげな言い方は麻生自身が今の状況に少なからず苦痛を感じているから。そんな麻生にルイはポツリポツリと心情を口にした。


「私は私が今とても醜いと思うわ。自分で決めた事なのに人を殺める事がとても怖い。でも自分が痛い思いをするのも怖いの」


それは人間なら誰しもがもつ本能的なものだった。しかしルイはそれを自分に許してはならないかのように、罪を独白するかのように続ける。


「あの夜、幸に会って死んでもいいと思った。でも話をしていてやっぱりまだ死にたくないって思った。悔しかったの。今死んだらあの男にバカにされそうで……。だからなにをやっても生きようと思ったわ。今まで散々命を狙われて生きてきたんだから今度は狩る側に回ってもいいじゃないって心の何処かで思ったの。一週間、幸との訓練も、麻生にこの組織のことを教えてもらうのも今まで経験したことないことばかりですごく楽しかった。だからそれが人を殺すってことに繋がるんだってあまり自覚がなかった。人を殺めるってどういうことかよく考えてなかった。絶命する瞬間の絶叫と肉を断つ感触、それから吐きそうなほど濃厚な血の香り……どれもまだ感覚が残っている気がして気持ち悪いの」


人一人の命を自分が終わらせるということに対する恐怖。それ以上に自分もちょっとした選択の間違いでこうなってしまうのだという実感がようやく理解として追いついてしまった。それらが混ざり合ってルイを混乱させ、苦しめる。もうこんなことはしたくないのに、殺されることが無性に怖い。あんなにももう自分の人生などどうでもいいと思っていたのに……。


「逆に問うがそれは何処がいけないことなんだ?」

「えっ?」


自分の相反する感情に苦しむルイに麻生はさも不思議そうに問いかけた。


「人の命を奪う感触を悍ましいと思い、一方で自分が痛みを味わうことに恐怖する。当たり前ではないか?何故それを許すべきことではないと考えるんだ?健康で健やかに生きたいと思うことは生きとし生けるものの本能だと私は思う。その中で何を重要視するかは個々人の裁量だろうが、生きたいと思うことを何故お前は罪であるかのように考えるんだ?」


生きていることは罪だった。

存在するだけで疎まれた。


朝となく、夜となく、身内から刺客を差し向けられる生活が精神を疲弊させ、己が正常であると思い込む為に傷つくことなど--死ぬことなど恐れてはいないと自己暗示をかけてきた。今も狂わずに生きていられるのはただの意地でしかない。


「生きていて欲しくないと願う人がいた。生きていて欲しいと言ってくれる人はいなくなった。あたしは存在してはいけなかった。何もかも間違いだった。なのにあたしはあたしの我儘で幸に痛い思いをさせた。死ななくていいはずの人を死なせた。あたしの存在はこれからも多くの人の人生を狂わせていくわ。あたしにはそれを許される価値なんてない」


十五歳の少女が考えるにはあまりにも悲しいことだった。

今までの悲しみと苦しみを吐露するかのような言葉の羅列を聞いていた幸が不意に口を挟んだ。その表情はさきほどまでの痛みに耐えていた歪んだものではなく、何処か穏やかでルイを安心させようとするかのようだった。


「ワイも死んでくれって言われたのにしぶとー生きとる人間やで。麻生もそうや。この組織にはそんなやつ山盛りおるからその程度の不幸自慢やと上位百人にも入れへんありきたり話やで。そやけどみんなここでは必要とされて生きとる。万年人手不足やさかい、悪ささえせんかったらみーんな価値ありなんや。そんなかでも優秀かどうかはあるけど、ルイはちゃんと言われた仕事をこなした。最初から一人でやろうって意思を貫けるんはそうそうおらんさかいな。こんなことせんかったらちゃんと褒めてもらえたはずやで」


褒められるようなことをした覚えはないと首を横に激しく降るルイ。自分でこなしたという幸の言葉に驚いた素振りを見せる麻生。そんな二人にしっかりと届く声で幸が続ける。


「今、自分に価値がないって思うんやったらここで自分の価値を見つけたらええやん。殺すことだけやない。いろんな可能性がルイにはあるはずやで。そんな広い世界も見んで死んだら、Lackとしての知的欲求が泣きよんで」


論点としてはなにかズルい方向にずらされつつある気はした。でも、それに流されたら少しは前が見えるようになるのではないかとも思った。自分の価値……そんなものが本当にあるのかも怪しいものだが、不幸だと思っていた自分の人生がありきたりだと言われたまま死を選ぶのも癪に触る気がした。

また、生きていたいかもしれないという迷いがルイに生まれる。それを幸も麻生も見逃さなかった。


「なあ、ルイ。お前は死ななくていいはずの人を殺したって言ったが、それは間違ってるぞ。お前は私の指示で仕事をしただけだ。私は組織にきた依頼をお前に仕事として振り分けた。お前が拒絶しようが、この仕事をやめようが、誰か別の者があの男を殺していただろう。だから、どのみちあいつは死んでいたんだ。そのことでお前が責任を感じ、いちいち悔いるのはお門違いも甚だしいぞ」


人は傷つけてはいけないもの。殺したら其れ相応の罰を受ける。法治国家たる日本に生まれ育てば当たり前のように身につく倫理観だった。それを今、この場でルイは全否定された。それはあまりの衝撃で気づけば涙も止まっていた。


「仕事と割り切ってしまえば法に触れても罰はないってこと?」

「ここの組織に飼われるなら、CROWの社則が法だ。もっとも、日常生活で世間様と揉め事を起こすのもどうかと思うから、その辺りは臨機応変に法を守ることを勧めるがな」


ルイの中で何かが壊れた。倉富ルイとして作り上げた十年の歳月が今、音を立てて崩れていくのを感じていた。しかしそれはけっして不快なものではなく、むしろ自分をがんじがらめにしていたものがなくなったような気分だった。


「麻生、あたしにもここにいたら価値が生まれるかしら?」


まっすぐに向けられた強い意志。麻生はフッと笑って見せた。


「真面目に働くならないわけないだろ。万年人手不足だ。即戦力は多いに助かる」


人手不足の支社を預かる究竟としては切実な問題だった。そんな麻生の反応にルイの表情も自然と和らいだ。

ルイはその場に改めて正座すると少しだけ首を垂れて目を閉じた。


「今、この場で起こしたことに対する罰をください。幸と同じでも、それよりも酷いことでもいいわ。もう一度、あたしとして生きる為にけじめをつけさせてください」

「上官に逆らうことはかなり重い罪だぞ。それから、この組織におけるLackの地位は低い。普通ならたいした咎めにもならないことで死を告げられることも少なくない。私も幸もそんなギリギリの中で生きている。それでもお前は同じ場所で生きるというのだな?」


改めて問われる覚悟。

ルイは首を垂れたままの体勢で迷いなく答えた。


「生かしてもらえる限りはしぶとく生きてやるわ」

「二度目はないぞ」

「分かってる」

「ならいい」


麻生の足音が近づいてくる。ルイにとってそれはいいようもない恐怖だった。それでも彼女は微動だにせずその時を待った。


「動くなよ」


いつもなら心地いい麻生の美声が今は冷たさを助長しているように感じた。

じっと動かないルイの腰まで届く長い髪を肩のあたりで掴み上に持ち上げる。ちょうど首筋が晒されるような状態だった。右手には何処から出したのか幸の手に刺さっているのと同じサバイバルナイフが握られていた。


「麻生、何する気や!」

「幸は黙ってろ」


久々に間近で感じる麻生の殺気に幸が叫ぶ。しかしそれは麻生の一言に一蹴されてしまい、ただみていることしかできなくなった。

麻生のナイフを握る手に力がこもり、それが首筋に触れた。

ルイは意地とプライドを総動員して逃げ出しそうになる自分の身体をその場に縛り付けた。


“ザクッ!!”


物を断つ音が一つ響き、ルイは唐突に拘束を解かれて前のめりに倒れた。


「なに?」


奇妙な感覚にルイが恐る恐る目を開ける。そこにいるのは見慣れた少し困ったような疲れたような渋い表情をしている麻生と自分のことを本当に心配そうに見つめる幸。


「寿命縮まるかおもたで、麻生も人が悪いわ。ほんまにルイの血ぃ見るかおもたやん」

「嘘……」


ルイは頭が軽くなった事に驚き自分の髪を触ってみる。腰に届くほど長かった髪が肩のところでなくなっていた。


「髪は女の命だったな。倉富のお嬢様として過ごした分ぐらいは殺させてもらったぞ。もうこんな鎖に縛られるな。お嬢様だった倉富ルイの頃の物はいらないだろ。気持ちを切り替えろ、お前は闇の世界でしか生きることの許されない烏なんだ。今日、その髪と共に一度死んだと思い、暗殺者倉富ルイとしてお前の生き様を周囲に見せつけてやれ」


乱れっぱなしで肩にかかる髪をしきりに触りながらルイはくすぐったそうに笑って見せた。涙と鼻水に汚れた顔は女としてはあまり人に見せられたものではなかったが、それでもその笑顔は付き物が落ちたように清々しいものだった。


「ありがとう。あたし、頑張るわ」


ぽんぽんと子どもにするように麻生がルイの頭を軽く叩く。その優しい行動に安心したルイの身体が不意に傾いだ。


「ルイ!?」


何処か怪我でもしていたのかとギョッとした幸。麻生も何事かとすぐにルイを抱き起こし、様子を確認する。しかしその表情はすぐに苦笑へと変わる。


「緊張の糸が切れて落ちただけだ。この一週間まともに眠れていなかったみたいだから、無理もないな」

「……まあ、なんものうてよかったわ。ほんまに焦ったんやからな」

「すまん……」


麻生は眠りに落ちたルイをそっと抱き上げると、ひとまず応接ソファーに寝かせ、幸のところに戻る。


「長い間このままにして悪かったな」


反省しろと言ったきり、幸の手にはナイフが突き刺さったままになっている。あまり痛そうな表情をしない幸が痛みを感じているのか不安にはなるが、顔色が優れないところを見ると感じてはいるらしい。


「抜くから歯、食いしばってろよ」


優しくない言葉に従い、幸が自分の袖口を噛みしめる。


「ふ……んんっ!!」


ナイフが抜かれる痛みと不快感に幸がくぐもった呻き声を上げる。

パックリと開いた傷口を適切に処置する麻生に幸は恨みがましそうにポツリと言った。


「なあ、麻生、結構痛いで」

「長い間我慢させたことはすまないと思う。だが、刺したこと自体は謝らないぞ」


治療の手は止めず、幸の血に染まる両手に視線を落としたまま麻生は言う。


「お前の望みを叶えただけだ。強い痛みが欲しかったんだろ。でなけりゃロスト扱いにならなかった案件の罰を無理矢理欲しがったりしないだろ、お前は」


ルイには組織の残酷さと、現実の血なまぐささを知らしめようとああいう言い方をした。しかし実際には、ルイは世間的に死んだことになっており、依頼は完遂扱いになっている。もちろん実際には生きているので死体がない分のロストを取られる覚悟はしていた。幸にもその罰は与えると約束していた。しかし、大和さんがうまく動いてくださったのかロストも取られず、こちらにはなんの咎めもなかった。

だから誰も罰する必要などなかったのだ。それなのに幸は罰を欲しがり、麻生はそれに応えた。


「あるやん、そんなとき。痛いなぁって思わんかったら生きてるって思えんときとかボロボロなるまで傷つけて欲しいときとか」

「わからんでもないが……別に切り刻んで欲しいとは思わんがな」

「そうやんな。麻生は精神的に追い詰めて欲しい方やもんな」

「人を変態みたいにいうな」

「事実やん」


形は違えども二人とも、自身だけでは自己肯定できない類の人間だった。常に誰かに必要とされていなければ存在価値を見出せない。そういう意味ではルイの気持ちはよくわかった。わかるからこそ、これから彼女がどれだけ苦しむかも分かってしまい、素直に頑張れと言ってやれなかった面もある。


「仕方ないだろ。そういう生き方しか知らないんだから」

「まあな。それにしても……」


幸は包帯の巻かれた左手をしげしげと見つめて苦笑した。


「ほんまにお揃いになってしもたな」


麻生の視線が自分自身の両手に向けられる。そこには幸につけたのと同じ形の古傷がある。麻生は自分が同じことをされた日のことを思い出していた。痛くて情けなくて、それでも後悔はしていなかった。もう痛まないはずの古傷がシクシクと痛みを訴える。それは両手に限らず全身至る所に広がり、まるでその痛みに抱きしめられている様な錯覚を与えた。


月夜つきやが……」


不意にポツリと呟かれた名前に幸がハッと顔を上げる。麻生がその名前を口にするのは本当に久しぶりだったので驚いたのだ。


「ここのLackが増えている事を月夜達が知ったら何て言うかな?」

「そんなんワイには分からんわ。……あいつ、今おうてもワイらの事、殺そうとしよるやろか?」


幸のそう言ったその表情には恐れでも怒りでもなくただ哀愁(かなしみ)だけが満ちていた。


「さぁ、私は捨てられたのだからそんなことは知らないよ」


もうすぐあれから二年が経つ。形だけは前をみて進めるようになったが、心はまだあの頃のままちょっとしたことで血を流すかさぶたのままだった。


「……許されるのなら、まだ死にたいと思うのか?」


幸は答える代わりに感情のまったくこもっていない瞳で麻生に微笑みかけた。それが今なお、幸自信が死を絶対の解放だと考えている証拠だった。

二人は互いが危うい均衡の上で生きていることを知っていながら、お互いを理由に生き続けている。今はそれにすがるしか自身を傷つけたい衝動に負けず生きる術がわからなかった。



しかしそれもルイという少女の存在が何かを変えてくれるかもしれない。言葉にはしなかったが二人の中にそんなささやかな希望が生まれたのも事実だった。



翌日、ルイはここに来て初めて倉富の家から着てきたワンピース以外の洋服を身につけた。明るい笑顔で支社の隊員達と言葉を交わすルイの姿には昨日までの迷いは綺麗さっぱりなくなっていた。


彼女もまたようやく一歩を踏み出したのだった。


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to be continued...

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