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WILL  作者: 桜雪猫
一年目
1/13

一年目-春1

初投稿です。

誤字・脱字等、至らぬ点は多々あると思いますが、温かく見守っていただき、少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。

古びたビルの五階一番奥。看板もかかっていないオフィスの扉を黒スーツに身を包んだ少年――神河じんせんさきはが勢い良く開ける。


「ただいま~。あー、もう疲れたわ」


幸はまるで家に帰ってきた時のように上着を脱ぎ捨てると来客用のソファーに突っ伏す。 オフィスといってもここには事務机が2つと応接セットが一式あるだけで後は書類が詰まったスチール棚と段ボールしかない。


「お疲れ、幸」


幸を迎えたのはやはり黒スーツを着た少年――志斉しざい麻生あそうである。

麻生は部屋の一番奥に置かれた事務机で書類の整理をしていた手を止め、幸の突っ伏す向かいのソファーに座る。


「ほんまに疲れたわ。近頃の若いもんは根性足りんっていうか何ていうか……」


あえて突っ込みはいれないが、現在の幸の年齢は16歳。十分に“近頃の若いもん”なはずだ。しかも件の相手は十ほど年上であるときた。しかしまあ、麻生とて幸の言いたいことがわからないでもない。最近はため息のつきたいことだらけだ。


「でも今日は早いこと仕事も終わったし、たまには飯食いに行かへん?麻生も今は書類整理だけやろ。それは後で手伝うし」


跳ね起きた幸がにっと笑う。しかしその笑顔は長続きしない。

目の前の麻生が眉間に皺を寄せ、幸をじっと見ていたからだ。


「外食も魅力的だが今日はお預けだ」

「……仕事か?」


麻生は重々しく頷き、立ち上がると事務机から一冊のクリアファイルを持って戻ってくる。


「期日は?」


食事に行くことさえやめるなら急ぎなのは分かる。それでも麻生が言うのならどんな仕事でもこなす心積もりであった。


「今日中」

「えらい急やな。いつ来た依頼やねん?」


ファイルを開こうとしたらその上に手を置いて阻まれた。


「麻生?」


訝しげに麻生を見る幸。そんな彼に真剣な眼差しをむけ、麻生は重い口を開いた。


「最初にこの依頼が私の所に来たのは十五日前。内容は他愛ない暗殺。ターゲットは少女が一人。昨日までに送り込んだ隊員は計五名。内、三人の任務失敗フェイルには私が出た。残り二人は本部引き渡しになっている」


幸の表情の険しさが増す。

十分な期日があった。少女一人なら依頼ランクはかなり低かったはずだ。

しかし麻生は結果として五人も部下を失った。しかも二人は自分の手で処分することさえかなわなかった。


「妨害か?」

「いや、全員その少女に返り討ちにあったらしいが実際のところはよく分からない」

「何でもっとはようワイに回さんかったんや?」


いつもならとっくに幸の所に持ち込まれるような案件だ。


「……できればお前には関わらせたくなかったんだ。でも大和やまとさんにお前を指名されて“これが最後だ”って言われて……どうしようもなくて………………」


麻生がファイルから手を退ける。

幸はファイルを開き、ざっと目を通すと何も言わず部屋を出ていった。

麻生がそれを止めることはない。どんな行動を取ろうとも止められようはずもない。

それが自分たちにとってどんな結果をもたらそうともだ…………。

何度も何度も目を通したファイルの表紙に視線を落としたまま、麻生は動けずにいた。


「ごめんごめん。車借りる段取りついたし行ってくるわ。…………って、どないしてん、麻生?」


数分して、さっきまでの呑気な表情そのままに部屋に戻ってきた幸が意気消沈といった様子の麻生を見てギョッとする。


「なに落ち込んでんねんな。ワイいったらちゃんと今日中に終わるさかい、安心しいや」


ほわんと笑った幸が、麻生の視線の先からファイルを取り上げる。

ようやく麻生が顔を上げた。


「行ってくれるのか?」

「当たり前やん」

「でも…………」


まだ煮え切らない麻生に、幸がふぅとため息を吐く。


「なんてことない仕事やんか。なんで躊躇ったんや?」

「この子のプロフィールと写真を見たら幸とよく似てる気がして回せなかった」


幸が手の中のファイルにもう一度視線を落とす。

大人になりたくて必死に藻掻く過渡期の少女がこちらに冷たい視線を向けている。自分以外は何も信じないという雰囲気だ。


確かに身に覚えはある。

それでも……


「仕事は仕事、相手が誰でも関係ない。大和はんが最後通牒出したんやったらもはや猶予はないし」


立ち上がった幸は上着を着るとファイルを手に麻生を見て微笑む。


「でも、ありがとうな。この件でもう麻生が出んでええようにするさかい」

「すまない……」


誰よりも真面目で、誰よりも優しい麻生。

そんな彼は自分の人生を変えてくれた命の恩人。

だから彼が苦しむところは見たくなかった。


「行って来るわ」


幸が片手を上げて部屋を出る。


残された麻生は、今は自分が使う机に向かって呟く。


「私は究竟くきょうとして甘いのだろうか?」


答えてくれるはずの人は、ここにはいない。





----------------------------------------------


移動の車内で幸はファイルの情報を何度も反芻する。


倉富くらとみルイ 15歳 倉富グループ現代表の妹】


略歴を見るかぎり生粋のお嬢様。

詳しいデータも書かれていたがあえて見ようとは思わなかった。どうせ一時間もしたら殺してしまう相手、深く知らないほうがいい。

しかし幸は写真を見て久しぶりに心の中に躊躇いのようなものを感じていた。


「別人やって分かってんのにな……」


その呟きを聞く者はない。






-----------------------------------------------------






――倉富邸三階、倉富ルイ私室――


時刻は午後十時過ぎ



ルイはいつものように部屋着でくつろぎ、ベッドサイドのスタンドが照らす薄明かりで本を読んでいた。防音に優れているため外の音は聞こえず、ページをめくる音と自分の呼吸音だけが聞こえる。

一日で一番安らぐ時間だった。

しかしその時間は突然の来訪者によって終わりを告げる。


“カチャ”という音だけを響かせ部屋のドアが開けられる。

人の気配はするのに足音はない。

使用人が無断で部屋の鍵を開けることはなく、姉たちは仕事で留守なので相手は明らかな不審者である。それでもルイはいたって冷静だった。

本を閉じ、ベッドから下りると真正面から人影と向き合う。


「こんな夜更けに乙女の部屋に招きもされず入ってくるなんてマナーがなってないわね」


薄暗がりの部屋の中、一歩ずつ影が近づいてくる。


「ほなノックしたら招き入れてくれたんか?」


声変わりをするかしないかの少年の声。

部屋の中程までやってきた影がスタンドの明かりに照らされようやく顔が見える。

予想どおり、自分とあまり歳が変わらなさそうな少年が立っていた。

手には消音機サイレンサーのついた拳銃が握られている。

それだけで状況を理解するには十分だった。


「“誰?”と伺うのが定石かしら?それとも慌てふためく方がお好み?」

「叫び声を上げて助けを呼ぶっていう選択肢はないんか?」


関西なまりの穏やかな声で問われ、ルイはクスリと笑う。


「叫んでも無駄だもの。だってこの部屋は完全防音。外の音も聞こえない、中の音も聞かれない。素敵すぎて笑えてくるでしょう」


我ながらよく舌が回るもんだと思う。今までの不審者に防音のことを告げたことはない。告げて得することもないので、いつも言わなかった。

それなのに目の前の少年にはつい聞かれもしないのに言ってしまった。しかしそのことに対する後悔はまるでない。


「えらい落ち着いてるんやな。一応、これでも暗殺者やで」


銃口を向けられている。引き金に指はかかっていないのでまだ撃つ気はないようだ。

それにしても自分で自分を堂々と暗殺者だと名乗る人も珍しい。


「大小合わせたら両手の数で足りないもの……だから」


ルイはどこから取り出したのか木刀を正眼に構える。


「自分の身は自分で守るってか」


少年が徐々に近づいてくる。ルイもじりじりと立ち位置を移す。


「ここのところ本職みたいな方が多いのは気になってるけど」


特に今月に入ってからやけに多い。三日に一度は寝込みを襲われている気がする。


「本職みたいやなくて本職や。それ全部返り討ちにするってどんだけ強いねん、あんた」


一目見て、目の前の少年が今までの“本職”より桁違いに強いと感じた。

はっきり言って隙がない。


「人間、いざとなったら思いがけない力を発揮するものでしょ」


こつんと左足の踵が壁に当たった。

背中を向けて全力で逃げたいと思ったのは久しぶりだった。

それぐらい怖い。


「ねえ……」


緊張で喉が渇く。

それでもじっと相手を見るのは虚栄に他ならない。

きっと今は彼が少なからず自分に興味を持っているから生かされている。そんな気がしてならない。

だから背中を向けた瞬間に興味を無くして撃たれる気がするのだ。


「最後に聞かせて。貴方の名前。自分を殺す人の名前ぐらい知っておきたいじゃない」


答えが返って来ることなど本当は期待していない。

時間が稼ぎたかった。ただそれだけ……。


「他の奴らにも聞いたんか?」


しかし少年の興味を引いたのか、そう問われた。だからさらに強がって見せた。


「弱い人に興味はないわ。私が大声を上げて反撃したらまさかって顔して皆逃げていったもの。この部屋にいるかぎり大声を上げても私に助けなんてこないのに」


自嘲に満ちた笑みが零れる。


「ワイはあんたの興味を引いた?」


楽しそうに問われた。

正解を出し続ける限りは殺さないと空気が告げている。


こんな暗殺者を私は一人だけ知っている。

彼のように掴み所のない駆け引きではなく、ただ残酷で穏やかに相手を試すような駆け引きをする男を……。


「ええ、とっても。本当なら私に顔を見せる必要なんてないのにどうして声をかけたのか……とか」

「んー?それは単純にあんたと話してみたかったからや。倉富ルイって人間にちょっと興味があったから」


自分の何が彼の興味を引いたのか想像もつかない。しかしそのほんの僅かな命綱が今の曖昧な時間を作り出している。


「そう。じゃあ教えていただけるのかしら、貴方の名前」


彼はにっと笑って友達になろうとしている相手に告げるぐらい軽い声で言った。


「ワイは神河幸」

「ジンセン?……神河幸?」


それが偽りない本名だということは直感で思った。


「そうや。さて、名乗ったからにはきっちり仕事しな上司にワイが殺されてまうわ。あいつらみたいに」


少年――幸の指が引き金にかかる。

しかし私の恐怖は純粋な好奇心によって簡単に打ち消されていた。


「神河ってあの?」

「“あの?”がどれをさすんかワイには分からんけど、外食チェーンの神之河かみのかわをあんたが想像してるんやったら正解や」

「死んだんじゃなかったの?」


何年か前に新聞とワイドショーを騒がせた記憶がある。

幼きカリスマの非業の死。

連日マスコミがこぞってその死を取り上げた。

それが何故か目の前で暗殺者を名乗っている。


「色々あって実は生きてるねん。これ、トップシークレットやで」


人間はいくらでも嘘をつける。でもこれは私の勘でしかないが彼は私の知る神河幸だ。

どういう経緯で暗殺者をしているのかは分からないが、これが現実だったら私には彼を返り討ちにすることなどできはしない。


ルイの手から木刀が滑り落ちた。


「あたしの人生もここで終わりか。後半年だったのにな……」


もう強がるのも抗うのも無駄にしか思えなかった。

ルイがへたりこむようにその場に座り、幸に向かって疲れきった笑みを向ける。


「やるなら一思いにお願い。苦しいのはごめんだわ」


幸が拳銃を握った手をだらりと下ろした。


杏華きょうか……」


呟く幸の表情は苦悩と郷愁に満ちていた。


「あたしは倉富ルイよ。あたしに誰を重ねているか分からないけど、貴方の視線の先にその人はいないわ」


目の前の少女ーールイが大人に見えた。

同時に数年前に離れ離れになった妹の姿が被った。元気でいるなら彼女と同い年、こんな感じになっているのだろうと……。


「お嬢様は猫被っとっただけかいな」


幸がくっくっと笑う。


「何がおかしいのよ!」


ルイは勢い良く顔を上げ、幸を睨み付ける。


「いや、別に。なあ聞いてええか?」

「何よ」


ルイが顔にかかった髪を鬱陶しそうに掻き上げる。

こうしていると普通の少女みたいだった。


「何で急に抵抗を止めて、諦めたんや?」

「あたしを殺せないとあんたが殺されるんでしょ。それが嫌だっただけよ。他の本職の人にも悪いことしたわね、まさか失敗したら殺されるなんて思ってなかったから」


知っていたなら抵抗はしなかったとでも言いたげな雰囲気を醸し出すルイ。


「ようそんだけ自分に無頓着で今まで生きてこれたな」


これだけ頻繁に命を狙われていて、抵抗する意思が薄い割りに、ルイは生きようとしているように幸には感じられたのだ。


「ちょっと見返してやりたい奴がいてさ。気が付いたら本職まで返り討ちにしてたみたいね」


幸が小指を立てて“コレ?”と俗物なことを尋ねる。


「違うわよ、馬鹿」


ルイが苦笑する。

暗殺者を前にしているはずなのに古い友人にあったみたいな気分だった。


「馬鹿はあかんって。阿呆は許せても馬鹿は許せへんねん」

「なにそれ」


ついにルイが声を上げて笑いだす。


今、人生を終えられるなら少しだけ悔いが少ないような気がした。


ルイはベッドに腰掛けて幸に語る。


「一年半ぐらい前に変な暗殺者と賭けをしたの。二年間生き延びたら、あたしがあたしらしく生きられる場所をくれるんだって」

「暗殺者と賭け?それって少なくとも一回は見逃されてるってことやんな」


幸がルイの隣に座る。ルイは幸のそんな行動を気にとめるでもなく会話を続ける。


「かなりひどい目にはあったけど生きてるんだからそうなんじゃない?」

「変な奴やな、そいつ。賭けに勝っても負けてもそいつに利益ないやん」


むしろ生き延びさせるためにわざと見逃したとしたらリスクが高すぎる。


「本職がそういうならそうなんでしょうね。でも何で生かされてるとか聞かないでよ、あたしにも分からないから」

「別に聞こうとも思わん。同業者でも組織が違たり、一人もんやったりしたらルールちゃうやろし」


何を呑気に世間話をしてるんだと幸の頭の中では誰かがずっと叫んでる。さっさと仕事を終わらせないと後がないんだぞ、と。

しかし一方で殺したくないと考える自分がいる。どうすれば彼女を仲間にできるかと考える自分が……。


「ごめん、こんな話、貴方には関係ないわよね。変なの……もうすぐ殺されるのに怯えるどころか思い出話までするなんて」


ぼんやりと考えていたらルイがそんなことを呟いた。

被せてはいけない妹の影が何度も脳裏を過る。

心は決まりかけていた。


「あんた賭けに勝ったらあんたらしい生活をもらう予定やったんやんな?」

「そうよ」

「今の生活はあんたらしないんか?」

「見ての通り、お嬢様って柄じゃないし。でもここにいる限り、あたしは“倉富ルイ”として扱われるの。残念だけど命狙われ続けてまで名家の末娘をやり続ける価値は見いだせそうにないわ」

「もう死んでもええんか?」

「終わりが見えないものに対して頑張るのはとっくに限界なんだと思うの。だったらこれ以上あたしのせいで危害を被る人が出ないほうがいいでしょ」


年齢にそぐわない冷めた思考と自分の人生に早々に見切りを付けたと言わんばかりの達観した目。たぶん自分もこうだったと幸は思う。

もしかすると彼女よりも幼かったのにもっと冷え冷えとした考えをしていたかもしれない。それでも麻生が自分を生かしてくれたみたいに、自分もこの少女に手を伸ばして許されるだろうか?


「回りくどいことは聞きたないねんけど……」


彼女がそれを望むなら……。

倉富ルイが彼女らしく輝く姿を見てみたい。本当に久しぶりに他人に興味を持った。

だからこそ幸はルイを試す。


「あんたは今すぐに死にたいんか?」


幸は形だけ手に握っていた拳銃をルイの額に押しあてる。

セーフティーが外された正真正銘いつでも撃てる状態で。


「っ!?」


ルイが息を呑む。


「見返してやりたい奴がいる言うたんは嘘か?」

「嘘じゃないわ……」

「ほな何でワイにやと殺されてもええって諦めるんや。仕事に失敗したら殺されるかもしれへんワイへの哀れみか?」

「違う」

「ほなワイに哀れんで欲しかったんか?」

「哀れみなんて欲しくない」

「じゃあ適当に時間稼ぎしたら誰かが助けてくれるとか調子のええこと考えとんのとちゃうんか?」

「助けなんかこない!!」


まくしたてる幸の言葉にルイが初めて大声を上げた。


「どれだけ待っても、どれだけ叫んでも誰も助けてなんかくれなかった!怖くても、痛くても、悲しくても、自分を助けるのはいつも自分だけなんだから」


怒りとして吹き出した感情がルイ自身も傷つけていく。


「殺されたくないし、死にたくない。でもあたしに生きていていいと言ってくれた人はもう誰もいないのよ。もう誰もあたしに生きていて欲しいなんて思ってない。ずっと意地だけで生きてきたの……認めたくなんてなかったから……。でももう頑張れない……。だから見逃すぐらいなら死なせて…………」


拳銃を握る幸の腕にルイが縋る。

大粒の涙が彼女の頬を伝った。


「もし生きていいって言うてくれるやつがいたら生きたいか?」


幸の左手がルイの涙を拭う。


「生きたい……せめてもう一度あの男に会うまで。会って“あたしの勝ちよ”って言ってやるまで」

「絶対って約束はできひんけど、あんたがワイと同じ仕事をしてでも生きたいなら上にかけあってみたるわ。どうや?」

「あたしが暗殺者になるの?」

「そうや」

「そんなに簡単になっていい仕事なの?」

「常に命のやりとりする危ない世界やけど、一方的に殺されるのを待って生きるよりは人殺す能力手に入れて生きた方が生産的やと思わんか?」


まるで一般的な業種の職業を斡旋するかのごとく幸は語る。それはルイにとって悪魔の囁きに等しかった。


「貴方のいる組織が認めてくれたら死なずにすむの?」

「ああ。組織に必要やと思われてる間は仕事の時以外は自由に生きられるで」

「自由に?」

「そうや」


幸が拳銃を下ろし、微笑む。


後に騙されたと恨み言を言われるかも知れないが、嘘はついていない。我ながらずるいやり方だと思うが、できれば殺したくないのだからしかたがない。


拳銃をホルスターに片付けた幸が右手をそっと差し出す。ルイがその手を取ろうとして躊躇うように手を止める。


「もちろん踏み出す踏み出さんもあんたの自由やで」


自由という言葉がルイには極上の甘露の様に染み渡る。たとえ悪魔の囁きに耳を貸して、そのせいでこの身が滅びるのだとしても……。

後悔は後からするものだと、ルイは自分に言い聞かせて手をとった。


「お願い、あたしをここから連れ出して」


諦め切っていたルイの瞳に生気が宿る。

幸がその手をしっかり握り返し、とても鮮やかな笑顔を向けた。

しかし、それはわずかな時間のこと。すぐに幸は次の行動に移った。


「よっしゃきまりや。そうとなったらとっとと準備しよか。こっから先、文句は仲間になったらいくらでも聞くさかい、今は手間かけさせんといてや」

「分かった」


ルイが素直に頷く。


「え~っとまず、あんた利き手はどっちや?」

何でそんなことを今?と思いながらルイは右手を上げる。


「ほな左腕まっすぐ前に上げて」

「こう?」


ルイが左腕を幸に差し出すように上げる。その手首を幸がつかみ、もう片方の手でハンカチを取り出す。


「これ、洗濯して綺麗やし」

「ハンカチぐらい持ってるわよ?」

「ちょい痛いけど我慢な」


猛烈に不安を煽る一言をぽつりと漏らす幸。当然のようにルイがあわてたように理由を問うが…………。


「何を…んっ……」


ハンカチをルイの口に無理矢理押し込む手にはいつの間にか拳銃ではなくナイフが握られていた。幸はそのナイフでためらいなくルイの左腕上腕を切った。


「んっ――――!!」


口に詰め込まれたハンカチにルイは悲鳴を染み込ませながらベッドに倒れた。

いきなり切られた痛みと恐怖に涙を流しながら、派手に出血している腕を押さえる。

そんなルイの口からハンカチを抜き、無造作に丸めてポケットにしまった幸はルイに声もかけず、クローゼットの中を勝手に物色しはじめる。


「黒、黒……ん~これええやん」


真っ黒なワンピースを見つけて満足そうな顔で戻ってくる幸をルイは睨み付ける。


「騙したの?」


絞り出すように問うルイの額には痛みによる冷や汗が浮かぶ。


「騙してない。必要なことや。ほれ、着替え」


ワンピースを突き付けるがルイは受け取ろうとしない。

その間も腕からの出血は部屋着と布団を赤く染めていく。


「手間かけさせんな言うたやろ。無理矢理着替えさせられたなかったらさっさとしいや」


彼はやるといったらやるのだろう。

ルイはノロノロと起き上がるとワンピースを受け取る。


「そやそや、着替えの前にそっちの腕だけ袖脱いで見せてみ」


ルイは躊躇うことなく部屋着を脱ぎ捨て、キャミソール姿を幸に曝す。女性の下着姿を見慣れているのか幸の表情は変わらない。いや、むしろ一目見た時から変わっていないような気がする。

何を考えてるのかまったく分からない。


「ちゃんとした治療は無事、生き延びたら麻生にやってもらうとして、止血はしとかな治療前に死なれても困るし」


麻生って誰?とか、死なない程度に切ったんじゃないの!とか突っ込みたいことが山ほどあるが今はやめておこうと思った。

きっとこれから嫌ってほど突っ込みを入れられる予感がするのだ。

自慢じゃないが、私の予感はよく当たる。


肩口を紐みたいなもので縛られ、脱いだ部屋着で血を拭かれる。

意外と出血していてベッドの上は血に汚れている。


「そう言えば、何でこれ?」


ちょっと動かしたら激しく痛む腕を庇いながら着替えたルイが問う。


「上司に会ってもらうのにちゃんとした格好なほうがええやろし、当面の仕事着にも使えそうや。何より、一番ルイに似合いそうやった」


幸が“にぱっ”と笑った。

それにつられるようにルイが笑う――痛みに耐える歪んだ笑みで。


「行こか」


立ち上がることもつらそうなルイに幸の手が伸ばされた。ルイがその手を掴む。


「うん」


幸がルイの手を引き、窓辺に立つ。

バルコニーへと続く大きな窓を開けるとまだ肌寒い早春の夜風が部屋に吹き込む。


「どうするつもり?」


ここは三階、窓から脱出するには地面が遠すぎる。しかも侵入者対策のためかバルコニーに届く範囲の庭に足場になりそうなものは一切ない。


「えっ?飛び降りるに決まっとるやん」


さも当然のように言われ、抗議しようとしたが、それよりも早く私の身体を抱き抱えた幸がバルコニーから飛ぶ―――――――――――――――――――もとい、落ちた。


「ひ――――――――――――っう!!」


幸に抱きつき、悲鳴を飲み込むので精一杯だった。

数秒後、激しい衝撃に苦悶するはめになったがどうやら地面に叩きつけられたわけではなさそうだとひとまずは安堵する。


「生きてるか?」


耳元で囁かれた言葉に対して返事代わりに幸の腕をつねった。


「なんや、まだ元気やん」


まったく痛がる素振りも見せずに笑われた。しかもそのまま荷物よろしく運ばれ、ようやく下ろしてもらえたのは家の裏手に停められたありふれた黒い普通車の中。


「一時間以上走るさかい、寝ててもええで」


誰も乗っていない車の助手席のリクライニングを倒し、そこに私を寝かせるとタオルケットをかけてくれる。幸自身は運転席に乗り込むと慣れた様子で車を走らせた。


「いつも自分で車運転して仕事に行くの?」

「今日は急ぎやったから。普段は乗せてもろたり、公共交通機関やったり…………まあ、自分で運転したりやな」

「…………免許持ってるの?」


世間からは死んだことになっているのなら、そういった物はどうなってるのかと不意に疑問に思った。たぶん冷静に見せかけて、かなり頭の中がテンパっているのだろう。


「あ~~、その辺は組織がうまいことやってんねやんか。そやし、ちゃんともってんで」


なんとも不安を掻き立てられる答えだったが、事故らずに目的地にたどり着けるなら、正直もうどうでもよかった。


「あたしの腕切ったのも理由があるの?」

「血塗れの服が転がってたら死んだことにもしやすいやろ。生きてるやつには見切りを付ける切掛けが必要やからな」


軽い口調で語られているが、言葉の端々に冷たさが籠もっている。


「やっぱり生かしてもらうにしても殺されるにしても、どちらにしても世間的には死んだことにされるんだ」

「こっちの世界はそんな奴らばっかりやし気にすることないで。ワイもその一人やけど不便やと思たことないわ。まあ、所属しとる組織のでかさのおかげやろうけど。その分、ルールにも厳しいんやけどな」


ふと見上げた横顔はずっと笑顔なのに何故か切なくなった。同時に言葉では言い表わすことの難しい親近感を感じた。


「それにしてもあの家、ほんまに声聞こえへんねやな。あんだけ騒いでたのに誰もこうへんやん」

「秘密主義と引きこもりにはもってこいの家でしょ。でもね……仮に聞こえていたとしても誰も来ないし、誰も貴方の邪魔はしない」

「家族が殺されそうでも?」

「あたしを殺したいのがその家族だから……。貴方の組織に仕事を依頼したのも姉か兄だと思うわ。昔から嫌われてたみたいだけど、父が亡くなってからは特にね」


窓の外の灯りを眩しそうに見ながらルイは語る。

その口調は内容に反してとても穏やかだった。


「時間も興味もなかったし依頼人まで確認しとらんけどそれほんまかいな」

「ご自分達が権力を手にするためなら実の兄だって殺せばいいと考える人達だもの。血の繋がりのない養子の妹を殺すぐらい明日の天気を当てるより簡単だと思うわ」


幸の左手がくしゃりとルイの髪を撫でる。

この話はここまでにしようと言うように。


「ねえ、神河さん……」

「幸やで」

「え?」


声をかけたらいきなりそう言われる。


「ワイのことは幸って呼び捨てで呼んで。苗字で呼ばれるん嫌いやねん。なんやったら“お兄ちゃん”って呼んでもええで。一個しか年変わらんけど」


どこまでが私の気を紛らわせるための言葉で、どこからが天然なのかよくわからない。

ただ、この男と付き合うのに深いことを考えていたら疲れるだけのような気もしていた。


「じゃあ、あたしもルイでいいわ」


他愛ない会話をしていたら一時間なんてあっという間で、気づけば腕の痛みもそう気にならなくなっていた。


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