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海に重ねて君を想う

彼の匂いは、海の其れに似ていた。


湿った風は私の髪を揺らす。

素足から直に伝わる海辺の砂の感触は、じっとりと濡れて気持ち悪かった。

全てがまとわりくような海の気配は、どうしても彼を思い出させる。


彼と居た過去を思い出せば、喧嘩をして泣いたことばかりが浮かんだ。

幸せや喜びよりも、憤りやもどかしさの方が、多分大きかった。


私は彼を愛していたのじゃない。

愛じゃなかったのだ、あれは。

悲しいくらいに間違いなく、私は彼を愛してはいなかった。

思い出の中の二人はけして幸せじゃなかったのだ。

酒に酔った彼につけられた傷は、数え切れない程に多い。

右腕には、生白い一筋の跡がまだ残っている。彼が暴れてガラスを叩き割ったときに切ったものだ。

彼は、血を見た途端に哀れなくらい狼狽えて、私にすがりついてきた。


見捨てないでくれ、俺が悪かった、もうしない。愛してるんだ、だから、なあ見捨てないでくれよ。


何度となく耳にした言葉だ。


そして私はいつも彼を赦した。

赦すほか無かった。

私は彼を諫めたり突き放すことが出来るほど大人じゃなかったのだ。

それに、愛してはいなかったけれど、彼のことが好きだった。

ごつごつとした指も、辛い煙草の味がするキスも、照れたときに肩をすくめる仕草も、抱きしめられると感じる潮っぽい汗の匂いも全て。


全て、好きだった。

あの気持は間違いじゃなかった。


けれど今なら言える。

私たちは、釈然としない何かを誤魔化す為に甘えていたのだと。

生きていくもどかしさや、在り続けることの気だるさ、そういうどうしようもない何かから逃れる為に、私たちは恋に逃げたんだ。


頬をゆっくりと伝う滴は、きっと海の其れと変わりはしないだろう。

辛くはない。

認めることは、虚しさと冷たさを纏いながらも私に赦しを与えてくれるから。


大丈夫、今なら前へ進める。


私が今日零した感情が、明日には海へ溶けてしまえばいい。

優しい色へ変わってしまえばいい。


一歩にも満たない前進だけれど、また前へ進める。


思い切り息を吸い込んだら、やっぱり彼に似た匂いがして、少しだけ鼻がツンとした。




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