第四章 呪術師ザルーム(30)
こんなに明るい時間からサーマの私室を訪れるのは久し振りの事だった。
(何だかおかしな感じだわ)
扉を前にして、ミルファは自分の感じる違和感に苦笑を浮かべた。市井の事はまったく知らないが、それでもそんな事で違和感を感じる子供はほとんどいないだろう。
自分の母親に会うだけだ。それも疎んじられている訳でもなく、むしろ過ごす時間こそ僅かだが、深い愛情を注がれている事をミルファも自覚しているというのに。
けれど今までを思い返すに、ミルファが自ら母の元を尋ねるのは、いつも何かしら悩み事やサーマに聞いて貰いたい事がある場合で、特に理由がなく尋ねる事などほとんどなかった。だから何となく、気軽に扉を叩く事も出来ないのだろうか。
母の気性を考えても、急に訪れたからと言って驚きはしても怒ったりする事などないに違いないのに──。
そこで一度ミルファは数度頭を振って、自身の内に湧きだした違和感を追いだした。メリンダも言っていたではないか。親の元を子が訪れる、確かな理由など必要ですか、と──。
ミルファは自分にそう言い聞かせると、サーマの部屋の扉を叩くと中へ声をかけた。
「お母様、ミルファです。……入ってもよろしいですか?」
しばしの沈黙。やがて扉の向こうから入室を促す声が返って来る。中に入ると、幾分寛いだ服装に改めたサーマがミルファを迎えた。
「どうしたの、ミルファ?」
サーマもミルファが訪れるとは思っていなかったのか、何処となく不思議そうな様子を見せた。自分だけではない事に何故か少し安心し、ミルファは訪れた理由を口にする。
「あの、お父様が……。体調を、崩されたと聞いたのですが」
「聞いたの……。ええ、この頃お忙しい日が続いていたから、疲労が一気に出てしまわれたのかもしれないわ。特に発熱などはないようなのだけど、軽い頭痛とひどい倦怠感があるらしいの。医師の診断では、しばらく安静にしていれば元気になるだろうという事よ」
メリンダと同様の事を答えつつ、サーマはミルファに椅子を勧める。それに従って腰を下ろしながらも、ミルファは何だか落ち着かない気持ちが治まらなかった。
これが虫の知らせとでも言うのだろうか? 今朝感じたものと同じものが身体を支配する──何かが、起こるのではないかという予感。
「お母様──」
それを訴えようとして、ミルファは言葉を飲み込んだ。前の席に腰を下ろしたサーマの表情が、いつになく暗い翳りがあるように思われたからだ。
今まで病らしいものに罹った事のない皇帝の異変に、サーマも動揺しているのかもしれない。そう思うと、さらに不安を煽りかねないような事は口に出来なかった。
「……ミルファ?」
途中で言葉を飲んだミルファに、サーマが怪訝そうな視線を向けて言葉を促す。何でもありません、と答えるにはいささか不自然な呼びかけである事はミルファにも自覚があった。
何か言わなければ──そう思った先に、口をついて出たのはこんな言葉だった。
「あの……、お父様の側に着いていらっしゃらなくても、いいのですか?」
ほぼ無意識に出てきた言葉ながらも、それは心の何処かに引っ掛かっていた疑問だった。
小さい頃、幾度かミルファも風邪をひいたりして寝込んだ事がある。そんな時、サーマは激務の合間を縫って様子を見に来てくれた。
その時に感じた喜びと安堵感は、どんなに親しくとも女官達では得られなかったもの。近しい人だからこそ得られたものだ。
父と母の関係が一般的な夫婦とは違う事は理解しているが、二人の間に信頼関係がなければサーマがその片腕として働く事など出来ないはず──。
そんな事を思いながらサーマの答えを待つと、サーマはしばらく沈黙した後、苦笑いを口元に浮かべた。
「お母様?」
「ミルファ、陛下にそんな事は出来ないの」
「え?」
やがて返った言葉は、何処か自嘲のようなものを含んでいるように感じて、ミルファは耳を疑った。今までそんな風に、この母が言葉を口にするのを聞いた事がない。
「たとえ側に着いて差し上げたいと思っても……、それは許されない事なのよ」
「どうしてですか?」
「それはね、ミルファ。あなたのお父様が『皇帝』だからよ」
「──よく、わかりません。どうして皇帝だと、具合が悪い時に側にいて差し上げる事が許されないのですか」
何だかとても理不尽な事のような気がした。皇帝と言えども、人間なのだ。病気の時は苦しいだろうし、病は心を弱くする。子供ではなくても心許なさを感じる事があるのではないだろうか?
「違うわ、ミルファ」
そんなミルファの考えを見透かしたのか、サーマは静かに否定した。
「……逆なのよ」
「逆?」
「──陛下が要らない、とそう仰るのよ。側に控える事も、……心配する事すら許して下さらない。わたくしに限らず、わたくし以外の皇妃にも、側仕えにも。そしてそれを当然だと仰るの。自分に厳しい方だわ。時々、憎らしいほど」
そしてサーマは、何処か遠くを見つめる瞳で薄く微笑んだ。
+ + +
それは──他の誰にも話せない秘密。
けれど本当は心の何処かで望んでいたのかもしれない。その秘密が誰かに暴かれる、そんな時が訪れる事を。
+ + +
「サーマ、折り入って頼みがあるんだが……」
彼がそんな事を口にしたのは、覚えている限りでは初めてのこと。サーマは正直、驚きを隠せなかった。
「いきなり何を言い出すのですか。陛下?」
彼──皇帝は、サーマの夫である以前に、この世界の支配者という立場にある。
飢える事も、寒さに凍える事もない。本人の希望により、贅を凝らした生活ではないものの、手にするものも口にするものも、そして目にするものも、吟味に吟味を重ねた上質のものだ。
多くの人が彼が満たされた生活を送っていると思っているし、またそれは確かに真実ではあったけれど──『皇帝』の名を背負った彼に、人々が思うほどの権限も自由もない事をサーマは知っていた。
そう、仮にも妻である自分に対して、堂々と頼み事をする事も出来ない程に。
『皇帝』は為政者であるものの、その発言力は政にしか通用しない。否、政でも全てが通じる訳でもなく、彼が『是』と言ったからと言って、全てが変わる訳ではない。
皇帝もまた、人間である。だからこそ、その一点に権力を持たせてはならない── 。
それが遥か昔、初代の皇帝となった人物が遺した言葉だという。そしてその言葉は数千年にも及ぶ時を超え、今もまだ守られ続けているのだ。
だから彼は何かを強制させるような事は余程の事でなければ口にしないし、覚えている限りではちょっとした頼み事すらされた事がなかった。
そんな皇帝が人目を忍ぶようにして、『頼みがある』などと言ったのである。これを驚かずに何に驚けと言うのだろう。
事態を深刻に受け止め、神妙な顔になるサーマに、皇帝は慌てたように口を開いた。
「い、いや……、その、大した事ではないんだが」
大した事ではない、と言いつつも、皇帝の表情には若干の緊張がある。あまりにも──らしくない。
益々困惑したものの、黙って彼の言葉を待つ。常になく皇帝は言葉に迷っているようだった。視線も少々落ち着きがなく彷徨い、サーマの目を見ようとはしない。
こういう様子の人間を知っている、とサーマはぼんやりと思った。
──思い浮かぶのは遥か南の地、そこで暮らしていた頃の記憶。今でこそそんな素振りは微塵もないが、弟のジュールは子供の頃は結構な悪戯好きだった。
多くは笑って済ませられるような他愛のない悪戯だったが、時折それだけでは済まないような事も当然しでかしていたのだ。父は非常に聡明で子供に対しても滅多に怒る事はなかったが、こと無関係な第三者を巻き込むような悪戯に関してはそれはそれは手厳しく叱る人だった。
──今の皇帝の様子は、そんな父に叱られるのを恐れて挙動不審になっていた弟の様子に酷似している……気がする。
(何か、心にやましい事でもおありになるのかしら……)
ふと考えて、すぐにまさかと自分で否定する。仮にも皇帝に対してそんな風に考えるのは不敬に当たるだろうし、第一思い当たる事が一つもないのだ。
側に仕えてきた時間は決して長いものではない。それでも、近くで見ていれば自ずと見えてくるものはある。何事も即断で率直な皇帝が決して考えなしではない事も知っているし、無体な行動を取るように見えて、その実、最低限の一線を越える事は決してしない事も。
そう──一生に関わる選択を一方的突きつけておきながら、ちゃんとその裏に逃げ道をも作ってくれている。そんな人なのだ。
だからおそらく彼がこれほどまで言いよどむ『頼みごと』も、口にしてしまえば実際は他愛のない事なのに違いない。
「陛下。わたくしに何か仰りたい事があるのでしょう?」
「う、うむ……」
「ご安心下さい。ここには今、わたくししかおりません。言葉を選ぶ必要が何処にございますか?」
安心させるように言葉を紡げば、皇帝はじっとサーマの顔を見つめ──やがて、ぼそりと呟く。
「確かにそうなんだが……。我ながら、何故こんなに気を使うのか謎だ」
「……それ程に言い辛い事なのですか」
「そういう訳ではないような気がするんだが……。多分、今まで切っ掛けが掴めなかったせいで、思い切りがつかんのだと思う」
まるで他人事のように分析する皇帝に、サーマは内心呆れもしたものの、この人にも思い切りがつかない事があるのだと、新たに知った彼の一面に軽い驚きを感じていた。
それが表情に出ていたのだろうか、皇帝はふと微苦笑を浮かべて肩を竦める。
「意外そうだな? サーマ?」
「え、いえ……。そんな訳では……」
「私も一応、人間だからな。迷う事くらいある。まあ……、今の自分は確かに少々らしくないと思うが」
やがてその目が自分の顔から下がり、丁度腹部の辺りに向けられた。無意識に自分の手もそこに動く。まだほとんど目立たないが、そこには確かに小さな命が宿っていた。
「……本当に、そこにいるんだな」
何処かしみじみとした物言いに、サーマは首を傾げた。今の口調では、まるで長年子に恵まれずようやく初めての子を持った男のようだ。すでに六人の子を持つ父親でもある事を考えると少々奇異に感じられた。
「陛下?」
「頼みというのはだな、他でもないその子の事だ」
「え?」
「……その、な。子に名を付けさせて貰いたいと思ったのだ」
「名を?」
予想通りと言うべきか。何処となく歯切れが悪い口調で切り出されたのは、言葉にすると非常に他愛のない事だったが、全くサーマが予想もしていなかった事だった。