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天秤の月  作者: 宗像竜子
第四章 呪術師ザルーム
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第四章 呪術師ザルーム(29)

 誕生日から、一月余り。

 何事もなかったかのように過ぎる日々の中、その日は目が覚めた時から何か胸騒ぎがしていた。

 ──何か、よくない事が起こるような。

 そうは感じても、外に広がる空はいつものように青く澄み、窓を開ければ微かに秋の気配を漂わせる爽やかな風が吹いていた。その心地よさを感じている内に、胸騒ぎのようなものも気のせいだったように思えてくる。

 ……あれから、ケアンとは一度も顔を合わせていない。

 あの日の言葉通り、彼の訪れはぱったりとなくなった。元より、今日明日で事態が変わるなど思ってはいないが、その事を考えると淋しさと後悔は募る。

 せめて、一言でも謝れていたらと思う。

 結果は変わらずとも、もっと違う別れ方が出来たのではないかと、思わずにはいられない。それでも、過去をやり直す事など出来ないとわかっているから、今やれる事をやるしかない。

 いつかまたケアンと会う事が出来た時、彼から教えを受けた者として恥じない者になること、それだけが今のミルファに出来る事だった。

 ──ミルファは、変わった。

 元々、読書自体は嫌いではなかったが、目に見えてその読書量は増えた。暇があれば図書室に籠もり、内容を問わずに興味を抱いたもの全てに目を通して行く。

 十二になるまでは南の離宮を元気に駆け回っていたのが、今ではすっかりなりを潜め、少しずつ母である南領妃を想わせる落ち着きを身に着けていった。

 今ではもう、ミルファの事を『わがまま姫』と呼ぶ者は一人もいない。

 それは決して良いばかりの変化ではなかっただろう。それでも、サーマを筆頭に多くはそんなミルファを何も言わずに見守った。

 それは下手な慰めよりも、遥かにミルファにとって救いとなった。やみくもに何かに熱中する事で、胸の奥にある淋しさが紛れる。余計な事を考えずに済む。

 ──それも一つの逃避だとは、自覚していたけれど。

 そして今日も図書室に向かったミルファは、昨日途中まで読みかけたままの本を開いたものの、数頁ほど読み進めたところで、ふと視線を上げた。

(……?)

 何だか部屋の外が少し騒がしくなったような気がしたのだ。だがまだ昼前で、時刻的にサーマが戻って来たにしては早すぎる。

 主であるサーマが皇宮に出ている時に、この離宮へケアン以外の来客があった事は過去にはない。

 十二の年を迎えてもまだ表立って何かしらの役職を持つ訳でもないミルファを、訪ねて来る者がいるはずもなく。

 ──それまでの唯一の例外であったケアンが、ここを訪ねる理由はもうなく。

 人が慌しく行き来する気配が一度気になると、読書を再開してもどうも集中出来ない。早々に諦めたミルファは本を閉じると、図書室を後にした。


+ + +


「メリンダ、何かあったの?」

「まあ、ミルファ様」

 途中でサーマ付きの女官を見かけて声をかけると、メリンダはそのふくよかな身体を軽く屈めて略式の礼を取ると、サーマが戻って来た事を伝えた。

「お母様が……? でも、今日は夜遅くまでかかりそうだと……」

「ええ、その予定だったらしいのですけどもね。……それが、陛下が体調を崩されたとかで」

「え? ……お父様が?」

 それはミルファにとっては、晴天の霹靂へきれきに等しい言葉だった。

 今まで病気らしい病気にもかからなかった人だ。それだけに、よもやそういう事態が起こるなど想像もしていなかったのだ。

 皇帝である父とも十二の祝宴以来顔を合わせていなかったが、元々頻繁に会う事のなかった人である。普段はそういうものだと割り切っているものの、心配にならないはずがない。

「それで、お具合は?」

 心配を隠さずに口早に尋ねると、メリンダは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫でございますよ、ミルファ様。今日、明日は大事を取られるそうですが、あれだけお忙しい方ですもの。ちょっとお疲れになっただけです」

「そ……、そうよね」

 言われてみればそんな気もして、思わずほっと表情を緩めるミルファに、メリンダは励ますように殊更明るい声で繰り返した。

「そうに決まっておりますとも。このメリンダが保証いたします」

 どん、と胸を叩く仕草が可笑しくて、ついミルファが笑い声を上げると、メリンダの表情もつられたように綻んだ。

(やはり、ミルファ様はこんな風に笑っておられないとね)

 ほんの少しまでは笑顔が絶えない勝気な少女だったのだ。だからこそ、ここしばらく見ていなかった笑顔が見えた事は、何かあった事を感じ取りながらも静かに見守っていた人間の一人であるメリンダには、安心する出来事だった。

 そうでなくてもミルファは多感な年頃の少女なのだ。ミルファでなくても年頃の子供の顔から笑顔が消えている状態は、不自然で危うい気がしてならない。

 皇女の身分を考えれば、落ち着きを身に着ける事は決して悪い事ではないが──。

 そんな事をメリンダが考えているとは知る由もなく、ミルファはすぐに表情を改めてしまう。

「お母様はどちらに?」

「サーマ様なら自室に行かれました。今日はもう執務どころではないだろうから、と」

「そう、ありがとう。……今から部屋を訪ねても構わないかしら?」

「もちろんですとも、何を遠慮なさっているのですか? きっとお喜びになりますよ」

「だといいけれど……」

「大丈夫ですよ。そもそも、親の元を子が訪れる確かな理由など必要ですか?」

 今までならそのまま走り去っていたであろうミルファの、ぎこちない遠慮にメリンダはあえて呆れたような口調で答える。

 ミルファ相手でなければ、不敬にも当たる事は承知の上だ。サーマやミルファの気性をよく知るからこそ言える言葉でもあった。

 離宮勤めともなると、基本的に家族ぐるみで皇宮に仕える事が常だ。

 広大な皇宮の敷地内にはそうした人々の住居も数多く建てられており、ちょっとした街並の規模がある。

 皇宮の外にこそ出る事は稀だが、逆に皇宮内の情報には事欠かない。当然ながら、他の離宮での話もよく耳に入る。

 たとえば、北の離宮では主である北領妃エメラが床にいる事が多い事もあり、何処かひっそりとして活気がないという話。

 たとえば、東の離宮では次期皇帝と目される皇子・ソーロンが年頃になってきたので、母である東領妃がその皇妃にふさわしい相手を、と本人の意向を無視して探し回っているという話。

 たとえば、西の離宮ではちょっとした事でも悲観的になりやすい西領妃の相手に、実の娘の皇女でも手を焼いているという話──。

 そうした話を聞くにつけ、南の離宮が他とは少し違う事がよくわかる。

 南領妃サーマは、その身分ならば当たり前に受けるであろう敬意を嫌う傾向がある。

 新米の使用人であっても直接声をかけるし、多少の粗相があったとしても笑って許してしまう。むしろ逆に、そうした機会に離宮で働く上での問題点を尋ねてくる事すらあった。

 もちろん失敗全てを許容する訳ではないが、自分が皇妃であるからと仕える者を見下したりは決してしない。

 皇宮では主人や目上の立ち場の人間に何かしら聞かれた場合、対等に会話するのは失礼にあたるとして『わたくしどもにはわかりかねます』という決まり文句が当たり前のように使われ、何事か問われたらそう答えるようにと仕込まれるのだが、サーマにはこれが通用しない。

 一介の使用人に自主性を求める皇妃など、長い皇宮の歴史ではかなり稀な存在に違いなかった。最初の頃はあまりにも『一般的な皇妃像』とかけ離れていた為、長く女官として勤めてきたメリンダも面食らったものである。

 その娘である皇女ミルファもそんな母の血を引き、そうした姿を見て育った為か、女官であろうと下働きであろうと構わず話しかけ、そして対等の相手をする事を求めてくる。

 ──本来なら、たしなめるべきなのだろうとメリンダは思う。

 サーマはさておき、ミルファはこの南の離宮以外の場所とそこに確固としてある主と使用人の間にある壁を知らない。

 使用人はあくまでも手足のようなもので、『自己』など不要なものだ。

 将来、南の離宮の外へと出る事になった時、今までのやり方が通用しない事でいらぬ傷がつくのではないかという心配もある。

 だが、結局いつもメリンダはサーマやミルファに対して、失礼にならない程に親身に接し、自分の言葉で自分の意見を口にしてしまうのだった。

 心のこもらない言葉にどれほどの意味があるのか──かつてサーマが口にした言葉がいつも耳に残っているからだ。

 何故かそれだけ印象に残っているのに、その言葉をいつ耳にしたのか思い出せないのだが。

 物覚えは良い方だし(だからこそ南領妃付きの筆頭女官になったのだ)、何より年下ながらも敬意を抱くサーマの言葉だ。恐らく、まだミルファが生まれていなかった頃だとは思う。

 些細な事だったのかもしれないが──とても重要な場面だったような気もするのだが……。

「そうよね。でも……、今、行っていいのか迷ってしまったの」

 ミルファの苦笑混じりの言葉にはっと我に返る。メリンダは慌てて安心させるような笑顔を顔に貼り付けた。

「気にしすぎですよ、ミルファ様。むしろミルファ様のお顔を見れば、サーマ様も和まれる事でしょう。後ほどお茶をご用意します。久し振りにお二人でお過ごしになられては?」

 その提案に、何処か翳りのあったミルファの顔に再び笑顔が戻る。

「そうね、そうするわ。よく考えたら、お母様とゆっくりお話するのって久し振りだもの」

「ええ、それがよろしいですとも。すぐにご用意しますからね。ミルファ様のお好きな焼き菓子と、サーマ様のお好きなお茶を」

「うふふ。ありがとう、メリンダ」

「これくらいお安い御用ですよ」

 再びどんと胸を叩くと、ミルファは笑いを零した。そして一度頷くと、小走りとまでは言わないものの幾分早足でサーマの私室に向かう。

 そんなミルファを見送り、メリンダはほっとしたように微笑んだ。

 ──南領妃サーマは一部では未だに『出過ぎている』だの、『皇妃という立場を勘違いしている』だのと、否定的な目で見られている。

 女の身で望んで政治の世界に足を踏み入れるなど── メリンダにはとてもではないが出来ない事だ。よく知らない世界であっても、そこ針のむしろであろう事は容易に想像がつくからだ。

 恐らく、メリンダの知らない所でサーマは幾度も傷付いただろう。

 それでもサーマが今の場所に立っていられるのは、誰でもない、血を分けた娘であるミルファがいるからだと思う。

 ミルファと接する時にだけ、その表情は母親のものになるだけでなく、張り詰めていたものが緩んだような、穏やかなものになるのだ。

 それはおそらく『南領妃サーマ』しか知らない者が見れば、目を疑ってしまうのではないかと思える程に顕著なものだ。

 心の拠り所──サーマにとって、ミルファは明らかにそう呼べる存在に違いなかった。

「さ、急いでお茶の支度をしないと」

 皇帝の体調不良という自体は、決して歓迎されるものではないが、激務なのはその片腕として働くサーマとて同じだ。

 折角の機会である。親子水入らずでのんびり過ごしてもらいたい。

 メリンダは心からそう思い、ミルファが向かった方角とは逆の方角へ足早に向かった。

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