第四章 呪術師ザルーム(28)
気がつくと全てが終わっていて、ミルファは自室で一人立ち尽くしていた。いつ着替えたのかすら覚えていない。
そんな自分に呆れつつ、もう泣いてもいいのだとぼんやり考えて──けれど、何だか泣く事も間違っている、そんな気がした。心が今までになく傷付いている。それは確かだ。でも──。
自分でもよくわからない感情を持て余して、寝るに眠れず向かった先は、母である南領妃サーマの元。前触れもなく顔を見せたミルファを、サーマは驚いた様子も見せずに黙って部屋へ迎え入れてくれた。
「……ミルファ。それはあなたが間違っているわ」
ミルファから事と次第を聞いたサーマは、静かな口調できっぱりと言い放った。
おそらくサーマ以外の人間がそう言ったなら、素直に受け止める事は出来なかっただろう。否定する言葉ながらも、誰よりも信頼する人からの客観的に発せられた言葉は、思った以上にすんなりとミルファの心に落ち着いた。
「お母様……。わたくしは、何を間違ったのでしょうか?」
問いかけると、サーマは神妙な表情をふと和らげた。
「否定しないのね?」
「……」
「あなたの気持ちはわからなくもないわ。けれど……、自分の立場を忘れるのは良くないわね。そして、相手の立場も」
「立場……」
自分が皇女で、ケアンが神官である事だろうか。それは理解していたつもりだったし、相応の自覚も持っているつもりだったけれど──足りなかったという事なのだろうか?
考え込むように俯くミルファへサーマは続ける。
「ミルファ。あなたは皇女であっても、位の上下に拘らずに人と接する事が出来る。それはとても良い資質よ。でも、忘れてはならないわ。それはあなたがあくまでも『上』に属するからこそ、許されるという事を」
当然ながら、『下』に属する人間が同じ行いをすれば、何か理由がない限り『不敬』に当たるとして最悪処罰の対象になる。
皇宮内は皇帝自身が生まれではなく能力を重視する傾向を持つが故に、以前よりも上下関係に関して厳しくはないが、先代の時代ならばたとえ側近くに仕える者であろうと、皇女と女官や警備兵が親しく会話を交わすなど有り得ない事だった。
そして──それは同様に神殿に関しても言える。
彼らに身分の上下はないが、役職による位階と呼ばれる物が存在する。地方神殿の規模ならばさておき、神殿の頂点である大神殿におけるそれは何処よりもはっきりとしたものだ。
下だからと蔑まれる事はない。だが、望んでも自分にそれだけの能力がなければ決して上には行けない世界である。
その中で。
ケアンという少年の立場は、サーマから見てもあまりにも微妙な位置に存在していた。
『神童』と呼ばれ、最年少で大神殿入りを果たした彼は、未だ見習いではあるものの大神殿の長である主席神官に目をかけられているという。正神官になった後はすぐにも上位位階の補佐付けになるのではないかとまで目されていると聞く。
神殿内部の事は、皇帝の右腕として働くサーマの元ですら、多くは聞こえてこない。そうした噂だけでも届くという事は、それが神殿においてかなり注目されている出来事だという事だ。
(彼の本心はわからないけれど……。少なくとも、上から何かしらの圧力がかかった事でしょう)
神殿は元々、皇家との直接的な関わりを持ちたがらない傾向がある。政を司る皇家と宗教を司る神殿は並び立ちはしても、交わってならない……らしい。
らしい、と曖昧なのは、その原則を覆す存在がいるからだ。
──第二皇女ティレーマ。
現在は西の果てに存在する地方神殿に入っている、皇女でありながらも神官という人物。
しかも、伝え聞く話だと彼女は『聖女』としての能力に目覚めたらしい。ただの神官であれば、その立場は複雑なものにはならなかっただろう。神殿側も、ティレーマがその能力を持たなければ、しかるべき時に皇女として皇家に戻すつもりであったらしい。
しかるべき時──現皇帝が皇位を譲り、次代の皇帝がその血を継ぐ子を為す事で彼女の皇位継承権が抹消された時に。
……だが、聖女となれば話は変わる。
具体的な事はわからないが、神殿においても特別視される存在であるという。つまり、簡単に手放せる存在ではなくなってしまったという事だろう。ただでさえその事実で大神殿は皇家との関わりに過敏になっている。
──第三者から見ても、ミルファとケアンはあまりにも距離が近かった。
本人達は友人、あるいは兄妹のように思っていたとしても、周囲がそう考えるとは限らない。何しろケアンは年齢を理由にまだ見習い神官でしかない。つまり彼が望むなら、神官でなくなる事も出来るのだ。
神殿にその意志を無視する権利があるとは思えないが、ティレーマのように何かしらの理由があり、ケアンを手放したくないのであれば、今引き離さなければと考えたとしても何も不思議ではない。
「……わたくしは、ケアンにひどい事をしたのでしょうか」
しばらく考え込んでいたミルファが、ぽつりと呟いた。
「ミルファ……」
「お母様の仰る通りなら……、ケアンは本心から来ないって言った訳じゃないかもしれないのでしょう……?」
もしそうなら、一方的な言いがかりを彼は黙って受け止めた事になる。
いや、おそらくそうなのだろう。彼は最後の謝罪を口にするまで、『臣下』としての態度を頑なに崩さなかったのだから。完全なる従属、とは己の意志を殺すと同義だ。
──ケアンが最後にぽつりと漏らした『ごめん』という謝罪。
あれがミルファを悲しませた事や彼自身の決断が揺るがない事に対してのものなのだとしたら、その言葉を言わせてはならなかったのではないだろうか。
「ケアンを、傷つけてしまったかもしれない」
今まで喧嘩など一度もした事がなかった。彼はいつもミルファの意志を優先してくれていたし、彼が怒った顔など見た事もなかった。彼の訪れが、とても楽しみで楽しみで──。
「もう、会えないのでしょうか?」
ぽろりと、涙が零れた。
それは先程までの荒れた気持ちとは違う、無意識のものだった。胸の奥が痛い。けれど、それは傷ついた痛みではなく、傷つけてしまった事への後悔だった。
「謝る事も、出来ないのでしょうか……?」
「ミルファ……」
声を上げずに、ただ涙だけを零す娘をサーマは抱き寄せた。
こんな風に、泣く事がなければとずっと願っていたのに。そんな内心の思いを口にする事は出来ない。あまりにも自分に似ている娘。外見だけではなく、傷付く場所までも同じなのだろうか──。
(……いいえ。まだ、わからないわ)
自分にはないものを、ミルファは持っている。物怖じしない心と、打算のない素直さを。ならば、同じ結末を迎えるとは限らない。どんなに似ていても、この自分とは違うのだから。
そしてケアン、彼も『かの人』とは違う。幾度か会話を交わした事があるが、己を取り囲む大きな流れに戸惑いこそ感じられたものの、単にそれに流されるような少年とは思えなかった。
「確かに、今までのように気軽に会う事は不可能でしょう」
今までの名目がなくなった今、彼が南の離宮に訪ねてくる理由もなければ、ミルファが大神殿に訪ねて行く理由もない。訪ねて行ったとしても、皇女としての訪問となる。ケアンのような一介の見習い神官がミルファの応対に出る事はないだろう。
「けれど──」
「けれど……?」
「……あなたがもう少し大人になって、祭事へ本格的に参加するようになった頃には、彼も正神官として行事に携わる事になるでしょう。そうすれば、会う事は叶うかもしれません。ただし……、今までと同じとは行かないでしょうけれど」
「……」
会えたとしても、直接会話を交わせるかどうかもわからない。その程度の事はミルファにも想像出来た。第一、ケアンが自分とまた顔を合わせたいと思ってくれるかどうか──。
それでも、涙は止まった。
「わたくし……、諦めません」
あんな悲しい終わり方は嫌だ。もう二度と同じように、共に優しい時間を過ごす事は出来なくても、今もケアンは特別な人なのだ。
「時間はかかっても、ケアンに必ず謝ります」
同じ高さで言葉を交わす事が出来なくなっても。もう一度、彼の笑顔を見れるのなら──。
幼い心に決意を宿すミルファを、サーマは黙って抱き締めた。