第四章 呪術師ザルーム(27)
十二歳の誕生日はミルファにとって忘れられない日となった。それも──よくない意味で。
執り行われた祝宴自体は、普段は顔すら合わせない兄や姉、更に義母に当たる他の皇妃までも集う盛大なものだった。
何故なら一般においても十二歳は『大人の仲間入りをする』という特別な意味を持っており、十八の成人程ではないが重要な節目とされているからだ。
その日の朝をミルファも心が浮き立つような気持ちで迎えた。
もちろん、仲間入りをするとは言っても全てが自由になる訳ではない。それに、今までは禁じられていた事がいくつか許される代わりに、ある程度の責任も課せられる。
誰もが十二歳になると大人達の庇護を受けるだけではなくなり、市井の子であれば大部分が何らかの職の見習いになる事が一般的だ。そうして、成人を迎える日まで修行し、やがては一人立ちする。
皇女であるミルファの場合、何かの職に就く事はないが、今までは参加する事のなかった皇家、あるいは大神殿が執り行う祭事や儀式に加わり、何らかの役割を果たす事になる。その為に今まで煩雑とも言える儀礼作法を身に着けてきたと言っても過言ではない。
そうした儀式に参加するようになる事自体が嬉しい訳ではなかったが、母のように父である皇帝の助けとなりたいと願うミルファにとってはその一歩を踏み出せたようなものだ。そう思うと何となく誇らしげな気持ちになる。
幾人もの神官が教えようとして匙を投げる事になったミルファが、そうした作法を身に着ける事が出来たのも、ミルファ自身が相応に努力した事も大きかったが、何より『先生』の指導が良かったお陰だ。同じ目線で丁寧に教えてくれたから、ミルファも反発を覚える事なく素直に受け入れられた。
だからこそ、ミルファは彼に会ったらお礼を言わなければと思っていた。そう、彼がやって来て、その一言を口にするまでは。
「……もう、来ない?」
何を言われたのか理解出来ず、たった今聞いた言葉をそのまま繰り返す。
その日はたまたま、彼──ケアンが南の離宮を訪れる日だった。
祝宴自体は日が暮れてからだったし、南の離宮で働く人々こそその準備で目の回るような忙しさだったが、せいぜい客人が来た時に挨拶する程度しか仕事がないミルファがする事は特になく。
──もちろん、客人は皇族の主だった人々なので挨拶と言っても正式な作法に則ったものでなければならないが、そうした作法は完璧に身に着けている。相手にしてくれる人間もおらず、暇を持て余しつつ、いつも通り庭先で彼の訪れを待っていた。
本来なら皇女が人と対話する場として、屋外という事は有り得ない。
しかし、主であるサーマも時折手ずから世話をする四季折々の花で溢れる庭園はミルファも気に入りの場所だったし、ミルファは部屋に籠っているより外にいる方を好んだ。
その結果、ケアンの講義は余程の雨でなければ庭に設えられた東屋で行われる事となった。
もっともここ数年ばかりは特に学ぶ事もなく、講義というよりも話し相手になって貰っているようなものだったのだが──。
ケアンが来るのは午前中の、大体朝食を終えてしばらく経った頃だ。その訪れを待つ間に、十二歳になったのだから今までとは違う自分を見せたいとミルファは考えた。
ケアンが姿を見せたら、師に対しての敬意を示す礼をして──今まで何となく言いそびれて来たお礼の言葉を言おう、そんな事を思いつく。
何しろ、今日恙無く十二歳の誕生日を迎えられるのも、ケアンが一通りの事を教えてくれたお陰であるというのに、今まで生徒として教師である彼に相応の敬意を払った事などなかったのだ。
すでにミルファにとってケアンはサーマに次ぐ身近な存在になっており、直接聞いた事はないがケアンの方もそのように思ってくれているように思われた。つまり親しみはあっても、敬意を払う存在ではなかったのである。
だからこそ、成長した姿を見せて驚かせたいと思ったのだが──。
もう間もなく昼に差し掛かる、いつもよりも遅い時分になってようやく姿を見せたケアンは、ミルファの元へとやって来ると、ミルファが椅子から立ち上がるよりも先にその場に両膝をつけて跪いた。そのまま深く頭を垂れる。
──元は完全なる従属を意味したという、臣下としての礼だ。
目の前で下げられた銀の頭を呆然と見つめる。他でもない彼から教えられた知識が意味を伝えるが、ミルファは自分の目を信じる事が出来なかった。
衝撃で言葉も出ないミルファを置き去りにして、そのままの姿勢で口を開いたケアンは、定まった祝辞を述べた後、ミルファが予想もしていなかった事を口にした。
曰く──これから先、自分がこの南の離宮へ個人的に訪れる事はない、と。
「いきなり……どうしたの、ケアン?」
言われた言葉の意味は理解したものの、彼が前触れもなくそんな事を言い出した理由がわからず、ミルファは問いかけていた。
それ以前に、彼が自分に対して臣下として接している意図がわからなかった。……否、わかりたくなかっただけかもしれない。
彼がこんな悪趣味な冗談を口にする性格ではないとわかっていつつも問い質す。ケアンはやはり顔も上げずに問われた言葉に答える。
「もう、私がミルファ様にお教えする事は何一つございません。私に課せられた役目は果たされました」
その返答は、何処か余所余所しく。
実際、ケアンの言葉は真実で、そもそも彼がミルファの元へとやって来た目的──儀式や祭事で必要な作法や神学的な知識を教授する事はとっくの昔に果たされていた。
──けれど。
それだけではなかったと思うのは、独り善がりな考えだろうか。
「……どうして、顔を上げないの」
「お許しを頂いておりません」
「そんなもの、必要ないでしょう!?」
つまらないと思っていた作法や勉強を進んで学ぼうとするようになったのも、その事が好きになったからではない。ケアンが教えてくれるから──初めて自分と同じ高さで物を考えようとしてくれた人が『先生』だったからだ。
ケアンが来てくれるようになって、毎日が楽しかった。
次に彼が来たら何をしよう、何を話そう──そんな事を考えるだけで、心が浮き立った。
自分が頑張ればこれから先もずっと来てくれるに違いない、子供心にそう思ったからこそ、苦手だった勉強も頑張ったのだ。
──『友達』だと、思っていた。皇女とか神官とかそうした身分を越えて、同じ高さにいてくれる事を願っていたのに。
けれど彼は今、自分を『様』という敬称をつけて呼んだ。
いろいろと理由をつけて、二人でいる時は普通に名前だけで呼んでくれるように頼んで以来、今までずっと第三者が側にいない時はそんな敬称をつけないでいてくれたのに。
たったそれだけの事なのに、はっきりと線引きをされたのがわかった。
今までのようにはいられないのだと。お互いの立つ位置は、決して同じ高さではなかったのだと──。ひどく裏切られた気持ちになった。
心の何処かでケアンの態度を理解しながら、感情は止まらなくて。何を言ったのかは覚えていないが、恐らく一方的に非難する言葉を投げつけた。
それでもケアンは一度も顔を上げる事なく、ミルファの言葉をただ受け止めた。その態度が益々腹立たしくて──。
そして言葉が途切れた時、彼はようやく顔をあげると今まで一度も見せた事のなかった硬い表情で小さく『ごめん』と呟いた。
……それが、ケアンと交わした最後の会話。
そのまま立ち去って行く彼に、ミルファは何も言えずにその背を見送って──。ケアンは、一度もミルファの方を振り返る事はなかった。
その後にあった祝宴に、主役であるミルファが欠席する事など許されるはずもなく。祝辞を述べる人々を前に、沈んだ気持ちを抑えて、ミルファは精一杯楽しげに笑おうと努力した。
自分を祝ってくれる場で、暗い表情など見せてはならない事くらいわかっていた。けれど──その努力が実ったかどうか、自信はまったくない。