第四章 呪術師ザルーム(26)
(……違う)
突きつけられた言葉を反射的に心の内で否定していた。
ティレーマの疑念にも、ルウェンの結論にも、納得する自分が確かにいる。そう考えるのが自然だとも思う。
なのに──何故、この期に及んでまだ彼を信じようとするのだろう。先日、あんなにも手厳しく突き放されもしたのに。
(ザルームは、違う……)
変だ。
可能性の段階としても、客観的に考えてこれだけ彼に不利な状況が揃っているのに、何故冷静に考える事が出来ないのか。
どうして認められない? 彼が『敵』であるかもしれない可能性を。
「ミルファ……?」
黙り込んだミルファの只ならぬ様子に、ティレーマは思わず声をかける。
ミルファはその声に応える事もせず、唇を噛み締め、苦痛に耐えるような表情で内に渦巻く混乱と戦っていた。
不安、不信、相反する信頼──何が正しくて、何が間違っているのか。
胸が──心が痛い。間違って噛み合わさった感情の歯車が、止まる事が出来ずに悲鳴を上げながらなお回る。様々な思いがぶつかり合い、入り混じる。
──真実は、何処に?
「……ッ」
一瞬、ズキッと刺すような頭痛が走ったと思った瞬間、堰を切ったように、脈絡もなく脳裏に甦った光景があった。
それは血のように赤い月を背にした、二人の人間の姿──。
『……本当に……か?』
『それ……あな……が真実……思うの……ら……』
耳に甦ったのはどちらも何処か懐かしく、そして今となっては遠い記憶に残るだけの声。
そして──。
無意識にミルファの手が動き、耳を塞ぐ。何処からか聴こえて来るその声を拒絶するかのように。
「ミルファ?」
「ミルファ様?」
ミルファの様子がおかしい。
二人がそう思った瞬間、ミルファの口から悲鳴が迸った。
「……あ、あ……いやぁああああ!!」
月が、見ている。
赤い──血を吸ったかのような月が。
『……見損ないました』
『見損なう?』
『あなたに……「皇帝」を名乗る資格などございません……!』
厳しい口調でのやり取りは、よく知るはずの二人を別人のように見せる。今まで、彼等がこんな風に言い争うような姿など一度も見た事がなかったのに。
──確かに仲睦まじいというには、二人の関係は自分から見ても何処か不自然だったけれど。
『面白い事を言う。神官でもないのに、人を殺した程度で「皇帝」の資格が消えるとでも?』
『そういう意味ではありません。……ご自分が一番よく御存知のはず』
殺伐としたやり取りは、男が手にしている物でさらに物騒なものとなっていた。淡い月明かりの元、逆光でははっきりとはわからないが、その手が握るものが何であるかミルファは本能的に悟る。
──どうしてお父様は剣なんか持っているの。
確かに皇帝は普段でも帯剣はしていたし、相応の腕の持ち主である事は聞いていたが、いわゆる飾り太刀で護身用程度のものだったはずだ。けれど今、彼が持っているものはそんな可愛らしいものではない。
部屋にはこの場にあってはならないはずの何処か生臭い臭いが微かに漂っており、先程の発言を証明するかのように、それがすでに血を吸ったものである事を伝えていた。
違う、あれはお父様じゃない。お父様のはずがない。
お父様なら、あんな怖い……冷たい声で話したりしない。
『そうだな。ではもう私は「皇帝」ではない訳だ。ようやくこの重責から自由になれたという事か』
『自由? ──あなたは、間違っています。こんな事をしても、あなたは決して「自由」にはなれない……!!』
『っ、黙れ!!』
どうしてお母様は床に倒れているの。
どうして動かないの。
床が黒く汚れてゆくのは何故?
──お父様。
お父様が、お母様を傷つけた?
どうして?
どうして?
どうして──……!?
「……ああああああっ!!」
「ミルファ! どうしたの、しっかりして!?」
ミルファの突然の異変に驚いたのは一瞬の事。ティレーマはすぐに我に返り、頭を抱えて床へしゃがみ込んだミルファに駆け寄ると、抱き起こしてその顔を覗きこんだ。
蒼白の顔。唇は震え、大きく目を見開いたミルファは目の前のティレーマを見ていなかった。その瞳にあったのは、恐怖と絶望、そして拒絶──。
「……っ、ルウェンさん! ここはわたくしがついていますから、早くお医者様を!!」
「はい、すぐに!」
ティレーマの指示を受けて、ルウェンはすぐさま扉に向かった。
こんな事態はまったく想定していなかった。
ルウェン自身が怪しむ程、ザルームの存在は危うい。実際の所、彼が『内通者』だとまでは思っていないが、その現実にミルファに正面から向き合ってもらい、ザルームに関する疑念を自分で晴らして欲しいと思ったのだが──。
ミルファの身に突然何が起こったのだろうか。何が理由でこんな事になってしまったのか──苦いものを噛みしめながら扉へ手を伸ばした、その時。
「……医師の必要はございません」
立ち塞がるように現れた人物の姿に、ルウェンは動きを止めた。
「ザルーム……」
「余計な事を……。これでミルファ様の精神が壊れてしまったら、どうなさる気か……!」
「!?」
初めて見せるザルームの感情的な言葉に、一瞬気圧された。次いでその言葉が意味する事に、言葉を失う。
(精神が壊れる、だと……?)
ミルファを精神的に追い詰める事になるかもしれない、とはティレーマとも話し合っていた。だが、まさかそこまで──。
「……まさか、という顔をしていますね」
再びいつもの淡々とした口調に戻ったものの、やはりその言葉には冷ややかなものが漂っている。
「ミルファ様は……過去、自我を手放すほどに精神的な傷を負いました。今まではその記憶自体を封じる事で、自我を保ってきたに過ぎません。呪術では記憶に目隠しは出来ても、それ自体を消し去る事は出来ない。意図せずとは言え、あなた方はその目隠しをずらしてしまった」
それがいつの事なのか、言われずともルウェンは悟る。
《皇帝乱心》──全ての発端となった出来事だ。本人は当時の事を覚えていないと言っていたが、今のザルームの言葉からそれが人為的に手が入ってのものだった事が判明した。
言いながらザルームは、ティレーマに支えられているミルファの元へと歩み寄る。
途切れ途切れの悲鳴を上げながらがたがたと震えるその姿は、今まで反乱軍を率いていた人物からはとても想像の出来ない姿だ。
「ザルームさん……、あの……」
この事態を引き起こした原因である自覚のあるティレーマは、ザルームを前に何も言う事が出来なかった。こんな事になると思ってもいなかった事は確かだが、ミルファから本音を引き出す為と言えども、彼を疑わせるような事を口にした事は事実だ。罪悪感が胸を焼く。
そんなティレーマにザルームは静かに頷く事で言葉を封じると、先程よりは幾分穏やかな口調で言い添えた。
「中途半端な術は毒にしかなりません。ミルファ様にかけた術を解きます。正式な手順ではないのでおそらくその余波が及ぶと思いますが……、支えていて下さいますか」
「……は、はい。わかりました」
青褪めながらもしっかりと頷いたティレーマを確認し、ザルームはその骨のような指先をミルファの額へと向けた。
不完全に解かれた術を完全に解けば、ミルファの精神にかかる負担は消える。だが同時にミルファが自分を捨ててまで、『なかった事』にしたかった記憶を思い出すだろう。
(──ミルファ様……。あなたは、耐えられるだろうか……)
こうなってしまっては、後はミルファを信じるしかない。再び自我を捨ててしまうか、それとも──乗り越えるか。
迷いはほんの一瞬。
ザルームは覚悟を決めると、解呪の呪術を展開した。