第四章 呪術師ザルーム(23)
「ルウェンさん!? 一体どうしたんですか?」
翌日、再び自分の前に姿を現したルウェンの只ならない様子に、ティレーマは思わず問い質していた。
たった一晩で何が起こったのか、彼の顔色は冴えず、げっそりとやつれてしまっていたのだ。
「何でもないです、行きましょうか」
「何でもないって……。そんなひどい顔色で何もない訳がないではありませんか!」
疲れた笑みを浮かべるルウェンに、とんでもないと食って掛かる。
帝都へ進軍する日はもう目の前に迫っている。その状況で、旗頭であるミルファは憔悴し、今日もろくに食事も摂らなかった。
この上、ルウェンにまで倒れられてしまっては──と、ティレーマは純粋に心配していたのだが、ルウェンがこれ程に消耗する原因が自分である事までは流石に思い至ってはいなかった。
「何処か痛みのある場所は? 食欲はありますか? 寒気とかは──」
などと、矢継ぎ早に尋ねてくる。ルウェンは心の内でため息をついた。
心配してくれるのは非常にありがたいのだが、ルウェンとしては出来るだけ早く『仕事』を終わらせてしまいたい一心だった。
「大丈夫です。その、……昨夜ちょっと飲み過ぎただけですから」
などと、ティレーマを納得させる為に身に覚えのない理由をつけてみる。
二日酔いなど今まで数える程しかなった覚えがないが、思い返せばこの倦怠感はそれによく似ている気もした。
――何しろ、延々とあのフィルセルに問い詰められたのである。その精神的疲労は並のものではなかった。
『ルウェンさん!? ティレーマ様の部屋に何しに行ったんですかッ!!』
と、フィルセルがこめかみに青筋を立てて怒鳴り込んできた時は、一体何処から話が漏れたのかわからず、その地獄耳に戦慄したのだが、落ち着いてよく考えてみれば原因は自分にあった。
ティレーマの部屋の前で遭遇した医師――リヴァーナに、ティレーマの部屋にいた言い訳も口止めもしなかった事を思い出したのだ。
リヴァーナのあの淡々とした物言いに流されてうっかり忘れたのだが、我ながら痛恨のミスである。
医師という事は、当然フィルセルと面識がある事は確実ではないか。よく考えれば気付く事だったと言うのに。
興奮したフィルセルを落ち着かせるのは、本当に骨の折れる事だった。
口先三寸で誤魔化して言いくるめようとしても、頭からこちらの言葉を疑ってかかるので、やり取りはひたすら平行線を辿ったのだ。
罰ゲームの事を話し、世間話をしただけだと説明したが、フィルセルはなかなか信じてくれなかった。
自分でも無理があるとは思ったが、ミルファとザルームの決裂については他言出来る事ではないし、これからティレーマと共に行う事は周囲に知られる訳にも行かない。
変に話が曲解されれば、自分だけではなくティレーマまでも誤解を受けるからだ。
結局、それで押し通して無罪を勝ち取ったのだが――。
「……あの、ティレーマ様」
「はい?」
「昨日、フィルが来ませんでしたか?」
「え? ええ……、来ましたけどそれが何か?」
「――やっぱり」
昨日の様子ではティレーマの方にも確認に行くに違いないと思っていたが、どうやらその予想は当たったようだ。
(フィルの奴、俺を何だと思ってるんだ?)
見境なく婦女子を襲うケダモノとでも思われているのか。
ジニーからフィルセルがティレーマに懐いている話は聞いていたが、これではまるで保護者のようだ。
「何か言ってましたか?」
「ええ、……ルウェンさんと何を話したのか、とか、ルウェンさんにお茶まで出す必要はないとか、何だかお説教みたいな事を」
「……。それで、今日の事は……?」
念の為と確認すると、ティレーマは表情を改めると首を横に振った。
「もちろん、それは話していません。フィルはザルームさんと面識がありますし……。それで良かったでしょうか?」
「ええ、上出来です。では、白黒をはっきりさせに行きましょうか」
「でも……。ルウェンさん、具合が悪いのではないのですか? 二日酔いはとても苦しいものだと聞いていますし、無理は……」
先程のルウェンの言葉を頭から信じている言葉に、ルウェンは苦笑を浮かべた。
「大丈夫です。二日酔いというのはですね、動き回った方が治りが早いんですよ」
── こんな風に適当に嘘をつけてしまうから、そしてそれを単純に信じる相手だから、フィルセルも信用しないのだろうな、と思いながら。
+ + +
目の前の椅子に腰掛けたミルファを、ザルームは静かに見つめた。
いつかの再現のようだ、とぼんやり思う。あの、嵐の夜の。
その時との違いを挙げよと言われれば、ミルファが五年の月日で成長した事と、外が穏やかな晴れである事、そして──あの時、あの場所にいた人物が一人足りない事など、いくつも挙げられる。
けれど、こうして意識のないミルファと対峙しているだけで、あの時の事は鮮やかに甦ってくるのだ。
──元より、忘れられるはずもない。あの時から全てが始まったと言っても過言ではないのだから。
ミルファはザルームの存在に気付く様子もなく静かに眠っている。彼女がこのように昼から転寝するなど珍しい事だ。
その寝顔が幾分窶れているように見えるのは──決して自分の中にある罪悪感だけのせいではないだろう。
(……結局、私はあなたを苦しめるばかりか……)
望む事はただ一つ、主であるミルファの幸福であるはずなのに、どうしていつもミルファを傷つける事になるのだろう。
皇女ミルファを皇帝とすること──それが、自分に与えられた役目。その為だけに、自分はこの場に存在している。
それはこの身も力も、全てを捧げて果たさなければならない役目だ。同時にそれが、自分の望みを叶える唯一の方法だとも思っていた。
なのに、それが間違いであると告げるかのように、ミルファはいつも全てを覆す。
守られるだけを良しとせず、自ら先頭に立ち。
多くを喪い、傷付きながらも、それを覆い隠し。
──心を許してはならないはずの自分に、心を預けようとする。
そして今、予想よりも早く彼がミルファへとかけた呪術が破られようとしていた。
一番、最初。あの廃屋で、現実を放棄していたミルファへかけた記憶を封じる術。
『その内、条件を満たす前に自力でお前のかけた術を破るのではないか? 仮にも「分銅」の一つだ、普通の人間と同じには行くまい』
かつて言われた言葉を思い出す。
――言われるまでもなく、かけた呪術がいつか必ず破られる事はわかっていた。
『分銅』である以前に、ミルファは欠落を許すような性格ではない。それを見越して、ある一定の条件を満たした時に術が解けるようにしていたのだが── 。
「まだ、早過ぎる……」
今のミルファには、まだ確かな精神的な支えがない。
十二歳の時に受け止められなかった事を、年齢を経たと言ってすんなり受け止められるとは思えなかった。
彼女が何を見聞きし、何故あそこまで心を閉ざしてしまったのか──それはザルームにもわからない。
ミルファの記憶を抜き出し、流れを辿れば明らかになるだろうし、それを可能とする手段を彼は有していたが実行する気はなかった。そうすれば謎は解明するかもしれないが、代償として最悪ミルファの命が喪われかねないからだ。
現時点で考えられるのは、それが皇帝が乱心した原因に密接に関係している可能性がある、という推測だけである。
やがて彼の視線は、ミルファの首にかけられた空色の聖晶へと向けられる。
それは今の所、唯一ミルファが縁とするもの。苦しい時、決断を迫られた時──ミルファがそれを握り締めるのを、ザルームは過去に何度も見てきた。
「……」
胸に蟠るのは、苦く重い感情。もし、ミルファが全てを思い出したなら──。
(きっと……、あなたは私を許しますまい……)
何から何まで、虚構で塗り固めたこの自分の真実を知ったならば。