第四章 呪術師ザルーム(22)
「それでは明日、手はず通りにお願いします」
「……ええ、わかりました。やってみます」
話はまとまったと、椅子から立ち上がりながらのルウェンの言葉に頷いたものの、ティレーマの表情は冴えない。明らかに不安の拭いきれない様子に、それも仕方がないとルウェンは思う。
何しろ今日話し合った事は、ある意味詐欺のようなものだし、同時に大博打でもあるのだ。
神殿で育ち、人を欺く事を罪だと考える生き方をしてきたであろうティレーマにしてみれば、十分気が重いに違いない。
だが、今回ばかりは自分一人では少々押しが弱い。
他の身の回りに居る他の人間と比べれば、確かに自分はミルファに近い位置にいる気はする。だが、何処まで影響力を持つかと考えると、ザルームがミルファに及ぼす影響力に比べれば、足元にも及ばないだろう。
──だからこそティレーマの助力は不可欠であり、多少の無理は承知の上だった。
「心配しないで下さい。ともかく、私の話に合わせて下さればそれで十分ですから」
安心させるように努めて軽い口調で言うと、ようやくティレーマは表情を幾分和らげた。
「ごめんなさい、ルウェンさん。今から緊張するなんて……情けないですよね。大丈夫です、頑張りますから」
「ええ、頼りにしてますよ。……ではそろそろ失礼します。少々長居をし過ぎてしまいました。済みません」
「とんでもないです! 謝らないで下さい。引き止めたのはわたくしですもの。では、明日……お待ちしてます」
「はい」
軽く頷いて扉に向かったルウェンは、まず扉を開く前に外の気配を探った。
先程自分を置き去りにして逃げた兵士達が戻ってきているとは思わないが、それ以外でも出来れば人には遭遇したくない状況である。この宿を使っている女性達──特に、フィルセルには。
ちらりと視線を背後で見送りに立つティレーマに向け、その警戒心の欠片もない友好的な表情にどうしたものかと考える。
確かにこれでは、フィルセルが心配するのも頷ける。だが、フィルセルがどう言えば良いのか思い悩んだように、ルウェンもかける言葉が思いつかなかった。
(……まあ、その内なるようになってくれるだろう……)
こういう事は変に意識させても良くないだろうし、何より本人が自分で自覚した方が良いに決まっている。結局、他力本願に任せる事にしたルウェンは、廊下に人の気配がない事を確かめると扉を開いた。
「っ!?」
……が、運悪くと言うべきか、偶然のなせる業か。まるで狙ったかのように彼が扉を開くのと同じくして、すぐ近くの扉が開き、中から一人の女性が姿を現した。
再びティレーマの部屋の中に戻る訳にも行かず、かと言って何事もなかったように立ち去る事も出来ない(悪い事に、ティレーマの部屋は角部屋で、出てきた女性の部屋の前を通らなければ移動出来ない)。
そんな誤魔化しの効かない状況で、女性は立ち尽くすルウェンを認識すると軽く目を見開いた。
「……おや」
その人物は驚いた声も上げなければ、大騒ぎもしなかった。
単に珍しいものでも見たような視線を向ける顔は、見た目の年齢にそぐわない程に実に落ち着き払ったもので、かえってルウェンはどんな反応をすべきか悩む事になった。
何とも言えないぎこちない沈黙が生じ、互いに動かないまま見つめ合う形になる。そんな状況を打破したのは、ただ一人状況がわかっていないティレーマだった。
扉の所で硬直したように立ち尽くすルウェンの様子に何事かと思ったのだろう。ルウェンの横から顔を出すと、ティレーマはこちらを見る女性へ屈託ない声をかけた。
「あら、リヴァーナさん。こちらに戻って来ていたんですね」
「ええ、先程こちらに」
リヴァーナと呼ばれた女性は、頷きつつ後ろ暗い所など欠片もない様子のティレーマの笑顔をじっと見つめ、次いで再びルウェンの方へ顔を戻すと軽く首を傾げた。
「ティレーマ様、……こちらはどなたですか?」
淡々とした口調には特に追求するようなものはなく、単純に誰かを尋ねているだけのような響きがあった。
見た所、二十代中頃。ルウェンと同じ位か、この落ち着いた様子だと少し上かもしれない。
灰色の髪は女性にしては短く切られ、深い青紫色の瞳は冷ややかにも見える。先程から無表情なのもそう見える理由の一つだろう。
身に着けているのは白い服だが、ティレーマのものとは異なり、どちらかと言うと動きやすさを重視した服装である。フィルセルが身に着けているものによく似ている所を見ると、どうやら従軍している医療関係者の一人のようだ。
「こちらはルウェンさんです」
「ルウェン……?」
ティレーマが名を口にしても、リヴァーナは誰であるのかわからなかったようだ。聞き覚えはあるが思い出せない、そんな複雑そうな表情を浮かべる。
自惚れている訳ではないが、セイリェンの戦い以来、今までこちらは相手を知らないのに相手は自分を知っているという事ばかりだったので、初対面なら当然のその反応が何だか新鮮だった。
「ルウェン・アイル・バルザークだ。縁あってミルファ様に剣を預けさせて頂いている」
自分から重ねて名を名乗ると、ようやくどういう人物か理解したらしい。ぽむ、と軽く手を打ち、そのままぬうっと手を差し出してきた。
この手は何だろうと、差し出された手を思わずまじまじと見つめる。すると、リヴァーナは相変わらず淡々とした口調で口を開いた。
「あなたがルウェン殿でしたか。わたしはリヴァーナ・シアル・トリーク。医師をしています。よろしく」
「あ、ああ、こちらこそ……」
相変わらず表情は見事なまでの無表情で、とても友好的なものは感じられない。挨拶の握手を求めていたのかとようやく理解するものの、何となく納得が行かないままその手を軽く握り返す。
よくよく考えると、和やかに挨拶を交し合って良い状況ではない気がするのだが、相手が(そうとは見えずとも)友好的な態度を示しているのに、自ら台無しにする必要が何処にあるだろう。
そんな風に考えたルウェンだったが、それはリヴァーナの次の一言が飛び出すまでだった。
「本当に失礼しました。あなたの名はフィルセルやその他の人間から今までに何度も聞いてはいたのですが──『返り血のルウェン』でしたか? そんないかにも殺伐とした二つ名があるし、魔物を一人で倒すような人間だから、一体どんな厳つい恐ろしげな大男だろうと思っていたんです。まさかこんな、何処にでもいそうな普通の男とは」
「……ええと」
悪気は一切ないのだろうが、ある意味無遠慮甚だしい言葉に、どう反応すべきかルウェンはわからなかった。確かに『返り血のルウェン』やら、魔物を一人で倒したという事実だけを聞きかじれば、大抵の人はリヴァーナのような想像をするに違いない。
……そう思いはするのだが。
何だかこう、物悲しいような、傷付いたような気持ちになるのは何故だろうか。
「リヴァーナさんはルウェンさんと面識がなかったんですか?」
今の発言に気を留めた様子もなく、少し意外そうに尋ねるティレーマの言葉に、その気持ちは更に募った。対するリヴァーナはティレーマの質問にあっさりと頷く。
「ええ。今まで治療に当たる事もありませんでしたし、戦場で遭遇する事もありませんでしたから。用もないのにわざわざ会いに行く理由も必要もありませんし」
実にごもっともだし、適当な理由を口実にわざわざ顔を見に来た人間に聞かせてやりたい言葉である。
「それに……直接会わなくても、話だけは嫌と言うほど耳に入ってきますから。それで十分でしょう」
心の内で同意していると、何故か意味ありげな視線を向けられる。
「……?」
続いた言葉の意味はさておき、視線の意味がよくわからず、ルウェンははて、と首を傾げた。何を言いたいのかさっぱりわからないが、リヴァーナは特にここで注釈を入れる気はないらしい。
そのまま二人に軽く会釈をすると、仕事があるからと何事もなかったかのように立ち去ってしまう。
階下へ消えてゆく背を何も考えずにティレーマと共に見送ったルウェンは、その結果、自分が致命的な失敗をしてしまった事に気付かなかった。
夕食を終えて自室に戻った彼の元に、リヴァーナから『事と次第』のみ聞いたフィルセルが血相を変えて襲撃して来るのは、ほんの数刻後の事である──。