第四章 呪術師ザルーム(21)
「わたくしも隠したい訳ではないんです。隠しても良い事はないと思いますし。でも……、フィルが」
「……フィル?」
思わぬ所から出てきた固有名詞にルウェンの顔が強張った。その名前に対して無意識に警戒してしまう癖がついてしまったらしい。
共通して『フィル』という呼び名を持つ人間はフィルセルしかいないから、別人という事もないだろう。その時点で嫌な予感しかしない。
「そうなんです。フィルが『ミルファ以外には話してはいけない』と随分真剣な様子で言うものですから」
「なんでフィルはそんな事を?」
「それが、理由を聞く前に先程言いましたようにガーディに襲われてしまって……。でも、ルウェンさんなら……、フィルもよく知っている方ですし。何よりミルファの身近で仕えていらっしゃいますから……問題はありませんよね?」
ティレーマがそんな言い訳めいた事を口にしている間、ルウェンの頭の中では何故フィルセルがそのような事を言ったのか、という疑問で占められていた。
周囲の動揺を慮った、と素直に受け止めればそういう事だろうが、それなりにフィルセルの事を知っているルウェンには、彼女がそんな事まで考えたとはとても思えなかった。
口達者なだけあって年齢を考えれば頭の回転も速いが、たとえばミルファのように、直接誰かの上で指示を出すような立場ではない。確実に目先の事に囚われたはずである。
では何故そんな事をと考え──やがてルウェンは改めてティレーマを見て、ああ、と納得した。
おそらく慣れない事をしているせいで落ち着かないのだろう。初対面の時のやり取りのせいか、他の兵士より気安く思ってくれているらしく、困っている様子を隠そうともしていない。眉尻の下がった表情は、普段は毅然としている彼女とは別人のように随分と幼く感じさせる。
思い返すのは昨日のカードゲームの最中での出来事。ゲームの最中に出る話題の中で、ティレーマに関する話もあった。
曰く──『高嶺の花』。
その美貌と気さくな人柄で憧れる者も多いが、皇女という身分と神官である事実で、手も足も出ないばかりか声すらまともにかけられないという話だった。
逆を言えば、そうでなければ声をかけるのに、という事だろう。
ミルファやティレーマのような、明らかに美人と呼べるタイプにはあまり興味のないルウェンにしてみるとそんなものなのかという程度の事だったが、その状況で神官でなくなった事が明らかになったとしたら──。
(……この様子じゃ、誰かに言い寄られてもその事すらわからないまま流されそうだよな、この人)
フィルセルが危惧した事がその点であるかは不明だが、おそらくそう外れてはいないだろうとルウェンは確信した。ルウェンから見ても危なっかしいと思う位だ。
世の中の男は、誰もが神官達のように紳士でもなければ、鉄壁の自制心を持っている訳ではないのだ。
信頼してくれているにしても、自らルウェンを自室に招いている辺り、明らかにその手の事に対する危機感がない。
そんな失礼甚だしい事を考えつつ、ルウェンはティレーマの言葉に耳を傾けた。
「辞めるつもりはなかったんです。ですが……、ラーマナの教義に従う限り、いつかは身動きが出来なくなると主位神官様が仰られて」
「身動き出来なくなる……?」
「はい。”一人を救うなら他の全ての手を取らねばならない”──”全てに対し平等であれ”。……ラーマナの教義は究極的にはそんな教えです。ミルファにも詳しく話していませんが、わたくしはこの間の騒動でその教義に従い、命を落としかけました。その事は……?」
ティレーマの言葉にルウェンは半月前の事を思い返した。
ミルファの命に従い、ティレーマに対面を果たすべく向かった神殿で、主位神官と交わした会話では命がけだった事までは聞き及んでいなかったが──。
「いえ……。ただ、体調が優れないとだけ聞きましたが」
「でしょうね。わたくし個人の我侭だったとは言え、公に出来る類の事ではありませんもの」
無意識に口元に浮かぶのは苦い微笑。今にして思えば、何と言う無茶だろうと思う。
あの時の選択に関しては、後悔はない。それが禁忌と呼ばれるものであろうと、自己満足と呼ばれるものであろうと──あの時、初めてこの身に宿った力は誰かの役に立ったのだ。
「結局の所、神官のままであったら……たとえば、目の前で子供とミルファが死に掛けていたとします。全力を尽くせばどちらかの命が助かる。そうわかっていても、それを実行する事は許されない。そういう事です」
どちらに対しても平等に──けれども、それではどちらも助ける事が出来ない。主位神官はその事を伝えたかったのだと思う。
たとえこの手に癒しの力が宿っていても。この手は二本しかない。たった、二本だけしか。その事は嫌という程思い知った。一度に全てを背負う事は出来ないのだ。
それでもパリルの民の時は、経験豊かな神官達がいて、足りない部分を補う事が出来る腕がいくつもあった。
しかし、これから先はそれが常にある訳ではない。いつか、一人しか選べない事も出て来るだろう。今、自ら喩えたような事態になる事も。
「──今のわたくしは、子供を見捨てる事も厭わないでしょう」
そうなれば、その事は自分の中にいつまでも罪の意識として残るだろう。そして二度と神官にも戻れない。それでも、譲れない思いが自分には出来てしまった。
「兄上亡き今、皇帝を継ぐ事が出来るのは──世界を支える事が出来るのは、ミルファしかいません。いえ、それも結局は建前ですね。わたくしにとって、肉親と呼べる者は父の他にはミルファしかもういない。だからわたくしは……家族を、妹を守りたい」
「……その為に神官を辞めたと?」
愚かだと呆れられるかと思ったが、問い返すルウェンの顔にあるのは、思いがけず真面目な表情だった。戦場の苛烈さを直接知る彼が否定しないでいてくれた事で、ティレーマははっきりと頷く事が出来た。
「もちろん、辞めなければならないような事態にならないでくれれば、それに越した事はありません。一応、籍はまだ残っておりますし、神官として生きたいと気持ちは今も変わっていませんから」
けれど、ふと思ったのだ。
──もしかしたら、自分が皇女でありながら神官としても生まれついたのは、こんな未来が待っていたからではないのかと。
この生にも、意味はあったかもしれない、と。
「まだ姉妹らしいとはとても言えませんが……、ミルファには幸せになって貰いたいと願っています。だからこそ今苦しんでいるのをどうにかしたいんです。……今のミルファは、わたくしがどんな励ましを口にしても、無理に笑ってみせるだけでしょう。心の傷は原因を取り除かなければ癒えません」
「──なるほど。つまり、お二人は似た者姉妹だと言う事ですね」
「え?」
何の脈絡もなく出てきた言葉に戸惑うティレーマに、ルウェンは言葉を変えて繰り返した。
「ミルファ様も、同じような事を思っていますよ」
「──そうでしょうか?」
「ええ。……そう思っていなければ、わざわざ西回りで進軍なんてしません。普通に考えれば、あのまま真っ直ぐに帝都を目指した方が効率がいいのは明らかでしたしね」
南領という後ろ盾に加え、補給経路及び情報伝達経路の確保──その他諸々に対し、必要以上に思案を凝らす必要がなかった。それを全て犠牲にしてまで、西にミルファを向かわせたのは──。
「周囲を納得させる為にいろいろ理由はつけていましたが、本音の所はただ、姉であるあなたを喪いたくなかったんじゃないかと……。まあ、これは推測に過ぎませんが」
けれどもその推測は十中八九、外れてはいないだろう。今はまだぎこちなくとも、時間さえかければミルファとティレーマは年齢や立場の違いを乗り越えて、姉妹として誰よりも分かり合う事が出来るに違いない。
お互いがお互いを、かけがえのない存在だと思っている限り。
「話は戻りますが、ザルーム殿とミルファ様の仲違いについてですが……」
「はい」
「事実関係は明らかではありませんし、正直言って憶測で物を言って良い事でも、第三者が間に入る事でもないと思います。が……、実は、昨日お二人に話し合えと言ったのは私なんですよ」
「ルウェンさんが?」
「ええ。まさかこんな展開になるなんて思わなかったんで、先程、話を聞いて驚いたんですが」
思わずため息が出る。
あの二人の関係は表に出る事はなくても、反乱軍のこれからを十分左右する。何が切っ掛けなのかはわからないが、あの二人の間に生じているぎこちなさが解消されれば──そう単純に考えて進言したのだが。
ルウェン自身は未だザルームに対しては、敵か味方か見極め切れていない。
『敵』であればこれ以上とない脅威になると見なしているが、今までのザルームの動向を考えると、ミルファに対し誰よりも忠実であるのもまた、彼である気がするのだ。
ただ、その方法はルウェンから見ると、あまりにも誤解を招きやすいものである気がしてならないのだが。
ザルームは秘密が多すぎるし、ミルファは彼に対して遠慮が過ぎる。
一度正面からぶつかって腹を割って話し合うべきだと判断した事は、今も決して間違いではなかったと思っている。誤算があったとすれば、あのザルームがミルファに対してそこまで手厳しい態度を取ると思わなかった事だろうか。
「不敬である事は承知で言わせてもらえば、このまま放置していた所で状況が良くなる気がしませんね」
「では……?」
どうするつもりだ、と言葉と視線で問いかえるティレーマに、ルウェンは何処か企むような顔で言い切った。元はと言えば、半ば自分が播いた種だ。
最終的にザルームはミルファを見捨てる事は出来ない──そう信じて。
「ここは思い切って荒療治してはどうかと思うんですが。……ティレーマ様、協力を頼めますか?」