第四章 呪術師ザルーム(20)
その後、立ち話を避けるように彼等はティレーマの私室へと移動した。
無人の廊下はただでさえ音が響く。口を憚る事柄を話すには場所が悪いし、何しろ一番聞かせたくないミルファの部屋の前である。その結果、どちらともなく場所を移す事にしたのだが──。
いくら遅い時刻でなくとも、私室へ家族でもない男性を入れるなど未婚の女性に本来ならあってしかるべき事ではない。だが世俗から離れた神殿で育った為か、そこまで考えが回っていないだけか、ティレーマは特に深く考えた様子もなく自室で続きを話す事を提案した。
流石にルウェンもそれはどうかと考えたが、かと言って他に良い場所も思いつけず、結局ティレーマの言葉を受け入れる事にした。
その代わり変に誤解を招かないよう、入る際に周囲に人の目がないよう確認は怠らなかったが。何しろ妙な噂が立って困るのは、どちらかと言うとルウェンではなくティレーマの方である。
「ルウェンさん、あなたが何をミルファに言おうとしたのか……聞いてもいいですか?」
手ずから用意した茶器を彼の前に置きながら、ティレーマはおずおずとそんな事を尋ねてきた。
「あなたもやはり、あの方に対して何か思う所があるのでしょう?」
「……ええ、まあ」
言葉を濁しつつ、どう答えるべきか考える。
実際、ザルームはルウェンにとっても非常に不可解な存在だ。だが今の反乱軍、ひいてはミルファにとって彼の存在が重要である事は表だってはいないが動かしようのない事実である。
ザルームとの対話を進めた手前、これ以上下手な事をして二人の関係が完全に壊れてしまうような事だけは避けたかった。
「ザルーム殿は、ミルファ様に絶対なる忠誠を誓っているように思われます。ですが……、何処か得体が知れないのも事実です」
言いながら、ルウェンは過去にザルームと交わした会話を思い返す。
──……今の所は。
今もまだ耳に残る言葉。あの言葉の真意も一体何処にあるのかわからない。
「得体が知れない……?」
「ええ。すでにご存知かもしれませんが……、ザルーム殿の事を知るのはこの反乱軍でもごく限られた人間だけで、その素性に関してはミルファ様以外は誰も知らないようです」
ルウェンの言葉に、ティレーマは素直に驚きを表した。
「フィルから聞いた話だと、とても力のある呪術師だそうですけど……。本当に誰もあの方の事を知らないのですか? 呪術の事はよく知りませんが、あの手腕を見るにとても無名の方とは思えませんでしたが……?」
ティレーマの言う事ももっともだ。今のような有事だからこそ、彼等の存在はその特殊性もあり大きく感じるが、現実には呪術師は神官と比べてずっと数が少ない。
生まれつき聖晶という目印を持って生まれてくる神官に比べ、呪術師は潜在的に資質を持っていても、そうであるかは師となる呪術師にその適性を見出されるか、あるいは何かしらの手段で術を学び、実際に使えるようになってからでしか判断出来ないからだ。
しかも、その能力は直接子に遺伝しないのだと言う。おそらく才能があっても、本人も気付かずに終わる人間も少なくないだろう。
絶対数が少ないが故に一般にはあまり彼等の事は知られていない訳だが、逆に高い能力を持つ者は事ある毎に力を請われる事になり、名を広く知られる者も多い。
──そう、ザルームほどの能力を持つ呪術師が、誰にも知られていないという事は本来考えにくい事なのだ。ティレーマの言いたい事を理解し、思わず苦笑いを浮かべる。ザルームが何者であるか、知りたいのは自分もだ。
「私もそう思うんですが。どうやら本当に無名のようです。だからこそ……、得体が知れないんですがね」
言いながら、ルウェンはティレーマの言葉にふと引っかかりを覚えた。今の言い様では、まるで目の前でザルームの呪術を目にしたかのようだが──。
「ティレーマ様、もしかしてザルームが呪術を使うのを見たんですか?」
そんな機会があるとは思えず、けれども何となくそのまま流せずに確認すると、ティレーマはあっさりと頷いた。
「ええ。実は……昨日、フィルと一緒に神殿から戻る途中でガーディに襲われたんです」
「ガーディ……?」
思わぬ単語に、ルウェンはその言葉を反芻した。森の番人という異称を持つ獣の事は、ルウェンもよく知っている。知っているどころか、個人的な黒歴史に通じる嫌な固有名詞だ。
思わずまじまじとティレーマを見つめ、怪我一つなさそうな様子に首を傾げる。今は仔が狩りを学ぶ季節で、ただでさえ獰猛さで知られるガーディのもっとも厄介な時期だ。普通なら無傷で済むはずがない。
この流れで思いつく答えは一つしかなかった。
「……無傷と言う事は、ザルーム殿が?」
「はい、助けて頂きました。どのような呪術を使われたのかはわかりませんけど、あの助けがなかったら……」
その時の状況を思いだし、ティレーマは今更ながら背筋が冷えるような感覚を覚えた。
迫ってきたガーディの鋭い牙と獰猛な爪が、鮮やかに脳裏に思い浮かぶ。本来なら命などなかったのだ。もしあの時、ザルームが助けてくれなければ──。
「……きっと、今頃わたくしはここにはいなかったでしょうね」
「そうでしたか……」
顔色を失くして呟くティレーマに、ルウェンはどう会話を続けたものかと頭を悩ませた。先程顔を合わせた時に感じた違和感と今の話を重ね合わせる内に、一つの疑問に辿り着いたのだが──。
話の流れ的に今は追及する事ではない。だが、一度気になるとはっきりさせずにはいられず、ルウェンは素直に自らが感じた疑問をぶつける事にした。
「ティレーマ様……。ザルーム殿の事を話す前に、一つ確認しておきたいんですが」
「はい?」
「──聖晶があれば、ガーディに襲われても無事だったんでは?」
実際の所、聖晶がどのように持ち主の危機に力を発揮するのかは知らないが、ガーディに襲われたとなれば確実に命の危険に曝された訳だ。その結果、一緒にいたフィルセルが負傷する事は在り得ても、ティレーマが負傷、あるいは命を落とす事は有り得ない──そのはずだ。
その矛盾を突いたルウェンの質問に、ティレーマは一瞬きょとんと何を言われたのかわからないような顔をした後、ルウェンが何を言いたいのか理解したのか慌てた様子で口を開いた。
「えっ、あ、その……っ、それは、そうなんですけど」
そのしどろもどろの様子に、益々嫌な予感を感じつつ、ルウェンはさらに追及する。
「……見るに、聖晶を今は身に着けていらっしゃらないようですが──何か関係が?」
「あのっ、その……」
ティレーマはティレーマで、突き付けられた追求に心底困惑していた。
ルウェンが疑念を持つのは当然だ。ティレーマとしても特に隠す必要はないと思うし、むしろ今後の事を考えると、自分が神官を形式的とは言え、辞めた事を周囲に伝えるべきだと思うのだが──。
『神官を辞めた事は、ミルファ様以外には言っちゃ駄目ですよ?』
昨日の昼間、神殿からの帰り道でフィルセルに念を押された事が頭に残っている。
結局、フィルセルにどういう心算があってそんな事を言い出したのか、確かめる事が出来なかったのだけれども。
それでもあの時のフィルセルは真剣そのものだったし、純粋に自分を心配している様子があった。だからこそ疑問に感じつつも従っているのだが。
(どうしましょう。話しては駄目かしら……)
ミルファに対しては良くて、それ以外ではどうして駄目なのか──フィルセルが危惧したように、ティレーマにはやはり理解出来ていなかった。
フィルセルの心配は、ひとえにこの期を幸いとばかりにティレーマに『余計な虫』が付き纏う事に対して向けられていたのだが、今までそうした事と無縁だったのだからわかるはずもない。
困惑を顕わに視線を落ち着きなく彷徨わせるティレーマに、何となく答えを予想出来たルウェンは心の内でため息をついた。
時としてこちらが気圧される程に強い意志を見せるティレーマだが、こういう時は年齢に似合わぬ幼さを感じる。それだけ、世間ずれしていないという事なのだろうが。
仕方がないとは思うものの、そういう態度を見せられると、何だかこちらが苛めているような気分になるのは頂けない。
「……話せないのなら、結構です。済みません、出過ぎた質問をいたしました」
小さく吐息をつきつつ、話を打ち切ろうとすると、ティレーマは慌てて首を横に振った。
「そんな事はありません! 疑問に思うのは……その、当然だと思います」
そこで一度言葉を切り、ティレーマは少し考え込むような表情を見せる。やがてそれは明確な決意に変わると、実は、と言葉を続けた。
「──わたくし、神官を辞めたんです」
予想通りの答えに、思わず普通に『そうですか』と聞き流しかけるのを寸での所で踏み留まる。今の言葉が単純のようでいて、その実、結構深刻な内容である事に今更ながら気付いたからだ。
「……その事はミルファ様に?」
「ええ、昨日の内に話しました。……怒られてしまいましたが」
苦笑を浮かべるティレーマに、ルウェンは心の中でそれはそうだろう、と激しく同意した。
神官である限り、その命は半ば保証されていると言っても過言ではないのだ。それを命を狙われている当事者自ら放棄したと言われて──理由はあるのだろうが──素直に納得出来るはずもない。
「何でまたそんな事を、と尋ねてもいいですか」
「はい。当然の疑問だと思いますし。あ……、あの、でも……。この事は、申し訳ないのですが、誰にも話さないで下さいますか?」
「それは構いませんが……」
元より言い触らせる類の話ではないが、こういう事はずっと隠せるものとは思えない。ルウェンですら気付いたのだから、他の人間も違和感に気付くだろう。
その疑問が顔に出ていたのか、ティレーマは小さくため息をついた。