第四章 呪術師ザルーム(15)
「姉上……」
思いがけない言葉に、ミルファは呆然と目の前の姉を見つめた。
今まで『神官』であろうと生きてきたティレーマが、よもやそんな事を考えていたとは思いもしなかったのだ。
「血の繋がりだけなら、確かにわたくし達は姉妹だわ。けれど今までずっと会わずにいたし、育ってきた環境が違い過ぎてわたくしはあなたに会うまで理解出来ない存在だと思っていたの。……正直に言えば、『家族』というものがどういうものかわからなかった」
ミルファを顔を合わせるまでの自分を思い返し、ティレーマは静かに言葉を重ねる。
神官としての生き方は、世間一般の暮らしとは根本から違う。誰に対しても平等であれと実践している身にとって、長く離れて暮らしていただけでなく、元々繋がり自体も希薄だった相手の事を、血が繋がっているという理由だけで特別に思えるとは思えなかったのだ。
「でも、あなたに会った時に思ったのよ。──放っておけないって。出来る事なら手助けしたいと……、自然にそう思えたの」
──それは不思議な感覚だった。
初めてミルファを目にした時、まずミルファがあまりにも幼い頃に会った南領妃に似ている事に驚いた。親子なのだから似ていてもまったく不思議ではないのだが、そこに今は亡き憧れの女性の姿を見て、一瞬動揺してしまった事は事実だ。
けれど目を合わせた時に、すぐにその認識は改まった。
痛みを抱えた瞳をしていた。
傷付きながらも、必死に立って進もうとする意志が痛々しく見えた。
父を討つのかと尋ねた時に、一瞬見せた翳りに苦悩を感じた。
多くの血が流れても、自身も笑顔や涙を忘れる程に傷付きながらも、憎めないのだと告白した言葉に、ティレーマの胸も痛みを覚えた。
独りなのだ、と──言葉にも態度にも出さずに、ミルファは訴えている。そう認識した瞬間、ティレーマはミルファを抱き締めずにはいられなかった。
「ラーマナの教義は、均衡と調和──そして、平等。それを実行する事は人にとってとても難しいこと。けれど神官である以上、そうであるよう努力しなければならない。誰か一人だけを特別扱いなどしてはならないわ」
それはミルファも知っている事だ。
誰の特別にもならない代わりに、誰かを特別に思う事はない。それは皇帝の在り方によく似ていて、不思議に思ったものだけれど。
同時に思ったものだ。誰とも必要以上の繋がりと求めないそれは──もしかしたら、とても淋しい生き方ではないのかと。
「……だから、わたくしは神官であり続ける事を辞めました」
「──え?」
しかし、突然前触れもなく口にされた言葉に、ミルファは目を丸くした。今──何だかとても、信じがたい事を言われたような気がするのだが。
「あ、の……、姉上……? 今、何を……」
この距離で聞き間違いであるはずもないのだが、そうである可能性にかけて確認すれば、ティレーマは些細な事であるかのようなさらりとした口調で繰り返した。
「ですから、神官である事を辞めてきました。全てが終わるまで……形式の上だけですけどね」
「……っ!?」
それは自分の状況すらも忘れ去ってしまえる程に衝撃的な告白だった。
一瞬呼吸も忘れて、ミルファは大きく目を見開く。何か言わねばと思うのに、思うように言葉が出て来ない。冗談だろうかと考えるが、ティレーマがこの状況で冗談を言うような人とも思えず益々混乱する。
信じたくない思いもあり、まさかと思いながらもいつも聖晶が下がっている胸元に目を向け、それが消えている事を確認し──ティレーマの言葉が真実なのだと理解したミルファはがくりと肩を落とした。
「……な、何故そんな事を……!」
そんな事をさせたかった訳ではない。
確かに兄の一件もあって、出来れば手の届く場所にいてくれたら、と思った。『いつか』と思うばかりで自ら手を伸ばそうとしなかったばかりに味わった後悔を、二度と繰り返したくはなかったのだ。
ようやく対面を果たしたティレーマへ、自分がこれから進む道を側で見届けて欲しいと願った事もその思いの延長にある。
けれど──今までのティレーマの生き方を否定するような真似をさせるつもりはなかったのだ。
(私が弱いせいだ……)
先程のザルームとのやり取りを思い出す。
自分に自信がなくて、多くの人命を背負うほどの価値があるのかと常に気になっていた。だから側近くで助力してくれるザルームに証明して欲しかったのだ。
自分だからこそ、手を貸してくれているのだと──彼が自分の側にいてくれる理由が欲しかった。
なんて浅ましいのだろう。そして同時に無意識に自分がティレーマに重ねていたものに気付いて愕然となる。
(私は姉上に、お母様やケアンの面影を見ていた……?)
思いがけない手で奪われた母と、家族以外で特別だった人。それは遠い日の思い出の中にあって、今もなお恋しい暖かな記憶の象徴だ。
対面を果たした席で、ティレーマは初対面にも等しい状況でありながら、ミルファを抱き締めてくれた。思いがけず与えられた人の温もりは、そんな忘れかけていた彼等の温もりをも思い出させた。
母・サーマの死がほぼ確定的である中、生きているのか死んでいるのかすらわからないケアンの存在は、ずっとミルファの心の拠り所だ。帝都を目指すのも、いつか全てを終わらせた後に彼と再会し、手元にある聖晶を返したいという願いが含まれている。
何処となく母に似た雰囲気があるというだけでなく、幼い頃、誰より近くにいた彼と同じ神官である事も影響しているのか、ティレーマの事は自分でも驚く程にすんなりと受け入れられたように思う。実際、今のような醜態を晒してしまっている位だ。
──これが一種の甘えでなくてなんと言うのか。
そんなミルファの内心の動揺など気付いた様子もなく、ティレーマは軽く肩を竦めた。
「わたくしも辞めるつもりはなかったのよ? でも、主位神官様が許して下さったの。……自由に、と」
「『自由』……?」
「ええ。だから今のわたくしは、特別扱いしても――『家族』を第一に選んでも許されるわ」
あっけらかんと言われた言葉は、少々乱暴な理屈のような気がした。只人なら当たり前にも受け止められる事だが、それが神官の世界では有り得ない事だと知っているからだろう。
姉の気持ちは嬉しい。しかしそれよりも気になるのは、持ち主を危険から守ってくれる聖晶がない事だった。
「でも……! それでは命の危険が……お父様は、姉上の命も狙っているのですよ!?」
思わず責めるような口調になってしまい、口にしてから少し後悔する。
ティレーマとてその事を考えなかったはずがない。そこまで考えなしの人ではない事は、この半月でわかっている。実際に命を狙われもしているし、そこに魔物までも絡んできている事は今回のパリルの件で身をもって理解したはずだ。
だが、その言葉にティレーマは何故かくすり、と小さく笑いを漏らしたのだった。
「姉上……?」
今のは笑う所ではないはずだ。困惑を隠さずに眉間に皺を寄せるミルファに、ティレーマは随分と楽しげに笑いながら口を開いた。
「ごめんなさい、あまりに予想通りだったものだから……ふふっ」
「予想……?」
一体何の事だかわからない。だが、ふと気がつくと先程までの呼吸すらも辛かった胸の苦しさが消えていた。
痛みは痛みとしてまだそこにある。しかし、客観的にそれが傷である事を理解出来るくらいには心が落ち着きを取り戻していた。自分の状況も忘れる位、ティレーマの告白が爆弾だったという事なのだが。
そこに笑いを収めたティレーマの優しい声が届く。
「ねえ、ミルファ。わたくしはあなたの味方になりたいと思っているのよ。今更、おこがましいかもしれないけれど……、理解者になれたらと願っているの」
「……、味方……?」
──ミルファ様はもう、あの時のように一人きりではありません……
耳に甦ったのは、つい先程聞いたザルームの言葉だった。耳にした時は素通りするだけだったその言葉が、ようやく意味のある言葉として受け止められる。
「同じようにあなたを支えたい、助けたいと願っている人は、きっと他にもいる。あなたの騎士となったルウェンさんもそうでしょうし、反乱軍に属する兵士の方々や──その助けをする人達も」
そしてティレーマは、完全には自分の言葉を受け止め切れていないミルファを抱き締めた。言葉で足りない部分を補う事が出来ればと思いながら。
どうか伝わりますように。祈りを込めて、言葉を重ねる。
「……覚えていて。少なくともここに一人、あなたを必要としている人間がいるという事を」




