第四章 呪術師ザルーム(14)
「ミルファ!」
慌てて駆け寄りその肩に手をかけると、ミルファは床に向けていた目をゆらりとティレーマに向けた。
(……!)
その生気の抜けたような目に、ティレーマは思わずかける言葉を失った。自分がいない間に一体ミルファの身に何があったというのか── 。
「ミルファ……?」
「……」
「こんな所に座り込んで……。一体どうしたの、何が」
「姉上……」
何があったと問い質そうとするティレーマの言葉を遮るように、ミルファはうわ言のように姉の名を呼びかけ、その手を伸ばしてきた。そのままぎゅっと、縋るように腕を掴んでくる。
強い力がこもっていた訳ではないものの、こんなミルファの姿を見るのは初めてで、ティレーマは動揺を隠せなかった。
確かに今までも笑顔などほとんど見せなかったし、それ以外の感情を曝け出した姿に至っては一度も見た事がない。感情をどこかに置き去りにしてきたような──そんな印象が強かった。
軍を率いる身とは言え、まだ十八の少女である。もう少し自分を出しても良いのにと密かに考えてはいたが、まさかこんな弱った姿を目の当たりにする事になるとは。
「……何が、あったの?」
そのまま肩に乗せた手で抱き寄せるようにしながら、そっと問いかける。
今までの神官として過ごした日々でも、ミルファのような人々は数多く見てきたが、彼等に対するのと同じようには接する事が出来なかった。
単純に同情し、慰めを言う事など、出来なかった。
「わたくしに話せるなら話して。どうして……あなたはそんなにも傷付いているの?」
傷付く、という言葉でびくりと小さく肩が揺れた。そして俯き、表情の見えない口から虚ろな声が紡がれる。
「傷? いいえ……、傷付いてなどいません……。傷付くだけのものすら、なかったんですから……」
「……ミルファ?」
明らかに様子がおかしい。
思わず身を離して顔を覗き込む。泣いているのかと思ったが、予想に反してミルファの目に涙はなかった。
──こんな状態でも涙が出ないのだ、ミルファは。全ての感情を閉じ込める事で強くあれると思っているのだろうか。
その事実にティレーマはこれではいけないと思った。
人の心は決して強靭なものではない。幾度も幾度も傷付いて、迷って、悩んで──乗り越えて。そうして少しずつ強くなって行くものではないだろうか。
一度打ちのめされた時、再び立ち上がるには相応の時間が必要なはずだ。目に見えない場所だからこそ、その傷はなかなか癒える事はない。
(傷も塞がっていないばかりか、その傷すら自覚せずに立ち続けようとするなんて──これでは……、いつか壊れてしまう!)
「ミルファ、こちらを見なさい」
「……?」
あえて強い口調で注意を惹くと、ミルファはやはり何処か視点の定まらない目を向けて来る。
完全に自分の中に閉じこもってはいない事に安堵しながら、そのまま不思議そうな顔をするミルファの肩を強く掴む。そしてその淀んだ目を見つめたまま、厳しい口調できっぱりと言い放った。
「しっかりなさい。あなたはまだ、こんな所で立ち止まる訳には行かないはずよ?」
そう、むしろこれからのはず。こんな所で全てを放り出すなど許されはしない。こんな所で、壊れてしまうなんて──。
だからこそ、傷から目を反らしては駄目なのだ。
「姉上……?」
「泣きたいのなら、泣きなさい。苦しいのなら、苦しいと言ってもいい。……痛みを認めなさい。あなたは皇女である前に、一人の人間なのだから」
一体どう言ったら伝わるのか。言葉にすると陳腐になる。その事がとてももどかしい。
「傷付いたのなら、それを癒そうとするのが当たり前の事なの。……誰もそれを責めたり出来ないわ」
「でも……。私は──」
今まで誰からも面と向かって言われた事のない言葉に、ミルファの瞳に困惑が浮かぶ。
傷付いてなどいない。傷付く事自体、おかしな話だ。全てはこちらの一人相撲。一人で思い悩んで、必死になって──ただそれだけのこと。
ザルームは自分を裏切った訳ではない。
彼は従者として、これ以上とない働きをしてくれた。尽力してくれた。あの廃屋での誓いを違える事無く。
ただそれが、誰の為であっても構わなかったというだけだ。それを責める権利は、誰にもない。この自分にも。
「傷付いてなんて、いません。姉上、どうしてそんな事を……」
言い訳のように答えながら、虚ろな顔に無理矢理笑みらしいものを浮かべようとするが、その様子は事情を知らない第三者から見て痛々しいものだった。
「自分に嘘をついては駄目。……余計に苦しみを増やすだけだわ。ミルファ、あなたは傷付いている。これ以上とない程に。──きちんと自覚なさい。自分の痛みを理解し、そして対処する事も、上に立つ人間だからこそ必要なはずよ」
「嘘なんてついていません……! 私は……っ」
(──私は……?)
反射的に言い返そうと口を開いたものの、途中でミルファは言葉を失った。言葉が形にならない。声に、ならない。何か言い返さなければと思うのに──。
しかし、心の奥底でティレーマの言葉に同意する自分がいる事もミルファは気付いていた。
認めたくはない、そんなはずはないと思う一方で、自分の心が血を流している事を感じている。奥底に封じ込められた感情を吐き出してしまいたい、と訴えている。
無意識にぎゅっと握り締め爪が食い込んだ手を、そっとティレーマの手が包み込んだ。そして静かに問いかけられる。
「……わたくしでは、駄目ですか?」
ミルファは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え……?」
呆然と目の前にいる姉を見つめた。今までそこにいるとわかっていながら、初めて目にしたような気持ちになる。
ようやく自分をちゃんと見たミルファに微笑みかけ、ティレーマはもう一度繰り返した。自分の気持ちが伝わる事を祈りながら。
「わたくしでは、あなたの力にはなれませんか? ミルファ」
「姉上……?」
「確かにわたくしは戦いでは何の役に立ちません。むしろ足手纏いになる可能性が高いでしょう。それでも……あなたの話を聞く事は出来るわ」
言いながら、ミルファの握り締めた手を開かせた。
余程強い力で握り締めたのか、掌が爪で微かに切れてうっすらと血が滲んでいた。そこに指先で触れ、『力』を送り込む。ミルファが暖かい、と熱を感じた時には傷は綺麗に癒えていた。
「それと……、こんな風に傷を癒す事くらいならね」
くすりと悪戯っぽく笑って言われた言葉に、ミルファはぎょっと目を見開いた。一瞬の事で何が起こったのか理解していなかったが、今のは──。
「あ、姉上……、今のはまさか、《癒しの……!?」
それは記憶に間違いがなければ、《聖女》のみが使えるという禁忌の力のはず──。
「ええ、そうよ」
あっさりと認めて良いはずの事ではないのに、まるで昨日の天気でも答えるかのような気楽な様子のティレーマに、ミルファはそれ以上の言葉を失くした。
しばし、沈黙が二人の間に落ちる。
やがてミルファの口から零れ落ちたのは、若干疲れの滲んだ言葉だった。
「……姉上。……そんな気軽に、大層な事をしないで下さい……」
「あら、どうして? わたくしはただ、今の自分が出来る事をしただけよ」
言いながらティレーマはその手を持ち上げた。傷一つなく白い──けれどもそれはミルファのものとはまた違う、『使われてきた』手だった。
「ねえ、ミルファ。わたくしはずっと……自分を持て余していたわ」
《聖女》と呼ばれ、敬意を払われ──けれどその実、何も出来なかった日々を思い返す。
皇女という身分さえなければと考えた事も幾度もあった。もしくは聖晶を持って生まれなければ、と考えた事も。
どちらでもあり、どちらでもない──その狭間で自分の生まれてきた意味は何なのかと、ずっと考え続けて来た。
「そのどちらかにならなければ駄目だと思い込んでいたの。ずっと……今まで。だから人一倍、神官としての勤めに励んだし、神官としてすべきだと思った事は何でもしてきたわ。わたくしは神官として生きたいとずっと願い続けていたから」
「……」
皇女として育っていたらなら、きっとパンを焼いたり庭木の手入れをしたり、傷付いた人や生き物を手当てしたり洗い物に追われたり──そんな事は一生する事がなかっただろう。
ティレーマの手は、語らずともその日々を物語る。それはミルファにもよくわかる感情だった。皇女だからとただ守られる事は嫌で──何でも自分でしてきた。身の回りの事も、剣の稽古も。
「でも、ミルファ。今はね、皇女である自分も受け入れようという気持ちになれたの。どうしてだか、わかる……?」
「いいえ……」
柔らかな笑顔で問いかけられた質問に、ミルファが首を横に振ると、ティレーマは思いがけない事を口にした。
「皇女だからこそ、いえ、皇女でなければ出来ない事を見つけたからよ」
「皇女……だからこそ……?」
「ええ」
しっかりと頷くと、ティレーマは再びミルファの手を取り、真っ直ぐに妹の瞳を見つめ、言い聞かせるように言葉を重ねた。
「ミルファ──あなたの『姉』は、『神官』には出来ない。そしてそれは今となってはもう、わたくしだけにしか出来ないこと。その事に気付いたの」
ティレーマが長年悩み続け、ようやく見つけた答えは、静かにミルファの心に滲み込んで行った。