第四章 呪術師ザルーム(12)
ルウェンが去り、一人残されたミルファは、ぐっと胸元を握り締めて深呼吸した。
──半月もの長い間、顔を見なかったせいだろうか。名を呼ぶ事だけでも少し緊張する。結局、半月前も肝心な事は何も確認出来ないままだった。
危機を救ってくれた男の事も、あの青い月が何だったのかも。
そもそも、どうして自分を皇帝にしようとするのか──彼にどんな意図があっての事なのか、今日こそは確かめようと心に決める。いつかははっきりとさせなければならない事だ。
これから帝都へと進軍する今は、それを明らかにするのに相応しいかもしれない。そう思うのに、どうしてこんなに『怖い』と思うのだろう。
──自分は、何をそんなに恐れているのだろう。
その恐れを振り切りたくて、ルウェンが齎した腕の傷という口実に、この半月もの間、口に出来なかった名前を紡ぐ。
「……ザルーム」
今まではいつも呼べばすぐに姿を現した。一体いつからそれが当たり前になったのだろう。
本当はいつでも、彼は自分の元を離れる事が出来たのに──そうしないと無意識に思い込んでいた。
「──お呼びでしょうか、ミルファ様」
やがて目の前に赤味を帯びたローブ姿が現れる。陰鬱な声もその姿も、半月前と変わった様子はない。
ザルームはそのまま略式の礼を取って控えた。この空白の半月がなかったように……、今までのように。呼びかけて──もし、姿を見せなかったら。そんな事を考えていたミルファは、心の中で安堵のため息をついた。
不安から胸元を握り締めていた手を緩め、改めてその姿を見つめる。見た所では重傷を負っているような感じではない。ルウェンが言っていた傷は、どうやら大事ないようだ。
「……その、腕を負傷したと聞いた。大丈夫なのか?」
自分でもぎこちなく思える程、何処か不自然な会話の切り出し方だった。だが、呼び出した理由の一つには違いない。
その問いかけに対し、ザルームは軽く驚いたように沈黙し──やがて布の内からぼそりと呟きが零れ落ちた。
「ルウェン殿、ですか……」
それが怪我の事の出自を示しているのは明白で、ミルファは頷いた。
「先程ルウェンがここに来て話していった。ルウェンも心配しているようだったぞ。……結構深い傷だったそうだが……、どうしてあの時報告してくれなかった?」
言いながらもその言葉が、何処かザルーム詰るような口調になるのが自分でもわかった。まるで小さな子供みたいに、報告してくれなかった事に対して拗ねているようだ。
だが、ルウェンから負傷していた事を聞いて、ショックを少なからず受けたのは事実だった。
──その容姿から素性まで不明な事だらけの彼の、隠し事が一つくらい増えた所で動揺などしなくても良さそうなものなのに。
そうだ、ザルームは余りにも隠し事が多過ぎる。だから、自分はいつも不安で──。
いつか、裏切られてしまうのではないかと。
いつか、何も言わずに自分の元を去ってしまうのではないかと。
もちろん、今まで追及してこなかった自分にも大いに非がある事はわかっている。
知る事を怖がって、尋ねる事が出来なかった。知る事で──今の関係がなくなる気がしてならなかった。それほど脆弱な繋がりしかない事を思い知りたくなかったのだ。
心から信じる事が出来ない苦しみと信じたいと願う気持ちの間で、いつも自分はそのどちらにも足を踏み出せなくて立ち竦んでいる。
自分から断ち切る事も、手を差し伸べる事も出来ない、不安定で不可解な自分達の関係は、果たして何なのだろう。
「ミルファ様に無用の心配をかけさせてはならないと思いましたので……。申し訳ありません」
謝って欲しい訳ではないのに、ザルームは頭を下げてそこで話を終わりにしてしまう。
「ザルーム……。私は別に報告しなかった事を責めているのではない」
「……?」
ミルファの言葉に、不思議そうに布で隠れた頭が持ち上がる。その奥にあるであろう目を見つめて、ミルファはともすれば言葉を飲み込んでしまいそうな自分を叱咤した。
(──逃げるな!)
まだ聞きたい事があるのだ。こんな所で逃げてはどうしようもない。
軽く唇を引き結ぶと小さくコクリと咽喉を鳴らし、ミルファは思い切ってルウェンから話を聞いた時に、心に浮かんだ思いを正直に口にした。
「お前は私に、心配も……させてくれないのか?」
その一言がミルファの口の滑りを良くした。そのまま、今まで心の内に沈んでいた思いを形にする。
「私は──お前の主なのだろう? お前は、私の従属。あの時……、初めて顔を合わせた時に、お前はそう言った。なのに私はお前の事を何一つ知らない。何一つ、教えてもらっていない」
ザルームの忠誠心を疑っている訳ではない。彼に対しての不審感は──まだ、心の奥に棘のように刺さっているけれど。
ただ、それが純粋なもののように感じれば感じる程、募ったのはそれだけの価値が本当に自分にあるのか、という事だった。
もちろん主従関係を結んだ後から、自分なりに努力はしてきた。けれど、彼が自分の前に現れた時は、多くの人と物によって守られた箱庭しか知らない、ただの無知な子供でしかなかったのだ。
「……私はお前と会った時、本当に無力な子供だった。世間の事などさして興味もなかったし、民の生活など想像した事もなかった。兄上のように高い志だって持ってなかった。他者を巻き込むまいとした姉上のような高潔ささえ。なのにどうして、お前は私を選んだんだ?」
「……」
「お前は、私に皇帝の御座につけと言った。単に……、あの場所で一番生き残る確率が高かっただけで、私に助力する事を決めたのか?」
──皇帝になる可能性があれば、誰でも良かったのか……?
心に浮かんだ最後の言葉だけはそのまま飲み込む。それだけは、言ってはならない気がして──その代わりのように口をついて出たのは別の言葉だった。
「私には──お前が何を望んでいるのかわからない」
口にしたと同時に後悔する。だが、一度出てしまった言葉をなかった事には出来ない。そのまま続く言葉を考えあぐねて沈黙すると、それまで黙っていたザルームが静かに口を開いた。
「……ミルファ様。私は確かにあなた様の従属でございます」
暗い声音はいつも通りなのに、その言葉が何処か今までとは違うような気がして、ミルファはまじまじとザルームの顔の辺りを見つめた。
近くに人気がないせいか、やけに静かに感じられる。結果として続いた言葉は、明確にミルファの耳へと届いた。
「ですが、私に対して心を砕く必要などございません」
「……!?」
──それは、ミルファが聞きたかった言葉でも、予想していた言葉でもなかった。
「ザルーム……?」
「あの日、申し上げたはずです。この身が滅ぶまでお側に仕える事をお許し下さるのなら、何人にも御身を傷つけさせない事をお約束いたしましょう、と」
それは確かに、あの嵐の夜に主従の誓いを交わした時に彼が告げた言葉だった。けれど、あの時と今ではまるで別の言葉に聞こえるのは何故だろう。
「……我が身は、その為だけにあるのです。道具であれば良いのです。『人』と思い召されるな。たとえこの身が滅んでも、あなた様が嘆く必要など何処にもないのですから」
「ザルーム……!?」
何を言っているのだろう。彼は、何を。
道具? 人と思うな?
──そんな事が出来るのなら、こんな思いをするはずがないのに……!!
「お前は、本気でそんな事を言っているのか」
──五年、だ。その月日は短いようでやはり長い。その間誰より近くにあり助けとなった人を、特別視しないでいられるはずがあるだろうか。
特別だと思うから、真実を語ってくれない事に不安を抱き、その言動に心を揺らすのだ。
感情が逆転する。
不安は怒りに、動揺は苛立ちに──今までずっと、反乱軍を束ねる者として感情的になる事を避けていたミルファの感情が燃え上がった。
「それでお前は満足なのか!? 本当に、それで……!?」
食って掛かろうとするミルファに、ザルームは動揺すら見せなかった。ミルファの反応を見透かしていたかのように、落ち着き払った口調のまま、言葉を重ねる。
「良いのです、それで。……私はあなた様の助けになれればいい。何故あなた様を選んだのか、その理由は重要ではありません。このままミルファ様が無事に『皇帝』となられれば、それで良いのですよ」
「……っ」
気勢を殺ぐ言葉は、ミルファの心に突き刺さる。それは先程自分で飲み込んだ言葉を、肯定するかのような言葉。
つまり、誰でも良かったのだ。
たまたま自分が選ばれただけで。あの時、自分がすでに命を落としていたのなら──あの場にいたのが兄や姉であっても、彼はその力を貸したのだろう。不安や不審感を感じていた事すら、一方通行の感情が空回りしていただけなのだ──。
怖いと、そう感じていたのは。……その事に無意識に気付いていたからなのだろうか?
「──ミルファ様……?」
一体、どんな表情を浮かべていたのだろう。突き放すような事を言っておきながら、何処か気遣うようにザルームが声をかけてくる。しかしミルファにはもう、これ以上会話を続ける意志はなかった。
「……わかった、もう、いい」
痛い。
抜けた棘の後から、血が流れているようだ。じわじわと、まるで侵食するような痛みが胸の奥に蟠る。
「──もう……いい……」
もはや視線を合わせる事も出来ない。
視線を下げ、ぎゅっと痛みを堪えるように胸元を握り締めて、絞りだすように告げたミルファに、ザルームは深く一礼をした。
そして姿を消しながら、ザルームは感情の欠片もない、冷たい言葉を残す。
「……ミルファ様はもう、あの時のように一人きりではありません。多くの人々が支えになりたいと望み、手を差し伸べているのです。これから先、本当に助けとなるのは彼等です。──間違ってはなりません」
──そして、一人きり。
部屋に佇んだままのミルファは、糸が切れたようにその場に膝をついた。何かに縋りつきたくて、ぎゅっと自分を抱きしめる。
ザルームの言葉は耳には届いたが、心の中にまでは届かない。ただ、そうする事で今まで感じた事のない深い孤独感と胸の痛みに耐える事しか出来なかった。