第四章 呪術師ザルーム(11)
「ルウェン……?」
扉を叩き声をかけると、中から不思議そうな声が返って来た。剣の手ほどきを終えてから大して時間が過ぎていない。怪訝に思ったのだろう。
やがて中から入室を許す声がするのを確認して、ルウェンは室内へと足を踏み入れた。
本来ならば皇女の私室に足を踏み入れるなど許される事ではないだろうが、行軍中であるの身だ。身の回りの世話をする女官や下働きなどがいるはずもない。
また、ミルファもティレーマも自分の身の回りの事は自分でやれる為、周囲に人をほとんど置く必要がなく、結果として間に人を介さずとも会えてしまうのだった。
少々警戒が薄すぎないかと思わないでもないが、ザルームという強力な番人がいるなら問題なかろうと今までは片付けていた──が。
……場合によっては、そちらでも問題が出て来る事に今更気付き、内心冷汗を流しながらルウェンは一礼した。
「突然申し訳ありません、ミルファ様」
「いえ……。今は特に急ぎの用もありませんから構いませんが──何用です?」
「ええと……、その、ザルーム殿を呼び出して頂きたいのですが……」
「ザルーム、ですか?」
歯切れ悪い口調でルウェンが口を開けば、予想外の言葉が飛び出した為か、それとも別に理由があるのか、あるいはその両方によってか──返すミルファの言葉には動揺と困惑が漂っていた。
「ルウェンはザルームとは顔見知りだと……そのように認識していましたが」
言外に直接呼び出せばいいだろう、と言わんばかりの言葉はまったくもってその通りなのだが。
──何故かその言い草が、妙に引っ掛かった。
呼び出すとしてもミルファならば特に労力はかからない。ただ、呼べばいいだけのはず。何よりそれだけの事を惜しむ性格でもない。疑問に思いながら、取り合えず自分では無理だという事を示そうと言葉を重ねる。
「それが……、伝令の方でもここしばらく姿を見ないという話を聞きまして」
「え……?」
まさか、と思った事を肯定するように、ミルファは軽く目を見開く。つまり──ザルームが周囲に対して姿を見せなくなった事を知らなかったという事だ。もちろん、ザルームがミルファの前には姿を見せていた可能性はあるが。
「私も例の、地方神殿での一件があって以来、彼とは一度も会っていないのです。あの時、腕を負傷していたようですから……もしやそれで体調が優れないのかと」
「負傷……? ザルームが、ですか?」
返って来た反応は、そんな事は全く知らなかったと言葉でも態度でも表していて、少々ルウェンには意外に感じられた。
「もしかして、ご存知なかったのですか?」
念の為に確認すると、若干青褪めた顔でミルファは唇を噛み締めた。
「……ええ。報告は、受けていません」
「そうですか……」
「その……傷は、……深かったのですか。動けなくなりそうな程に?」
「傷口自体を見てはおりませんので、何とも……。ただ、かなりの出血でしたから、それなりの深手ではないかと思います」
「そう……」
答えながらも、ルウェンはミルファの言葉に疑念を抱いた。
負傷していた事に気付かなかったのは、ザルームが隠しきったという事だろうからいいとして──。仮にも今まで側に控えていた人間の事である。その姿を見せなくなった事を知らなかったり、半月も前の傷の具合を心配するのはどうだろうか。
ここ最近で彼がミルファの前に姿を見せていたのだとすれば、そんな心配はしないはずだ。……という事は。
(皇女ミルファも、奴とかなりの期間、顔を合わせていないって事か?)
まさかそんなはずは、とすぐに否定しかけるが、すぐにいや待てよと思い返す。
光と共に在る事は許されない──あの時のザルームの言葉は、これからではなくあの時すでに始まっていた事だったとしたら。
思うと同時に、ルウェンはミルファへ尋ねていた。
「……いつからです?」
「え?」
「いつから、ザルームと顔を合わせていないんですか?」
「……!」
よもやそんな事を尋ねられると思っていなかったのか。ミルファは目を見開き、絶句した。
打てば返るような反応が常の、彼女らしからぬその様子で確信を深める。ミルファもまた、彼の姿を見ていないのだ──それも、かなり長い間。
「そんな事を聞いて、どうするのですか。ルウェン」
やがて落ち着きを取り戻したミルファが、どこか挑発するように尋ねてくる。それが決定打だった。
「──答えられない程、会っていない訳ですね? もしかしてあの日……、地方神殿の一件以来ですか」
「……」
反論は、ない。
口惜しそうにも、苦しげにも見える表情で唇を引き結んだミルファは、やがて疲れたようにため息をつくと小さく頷いた。
「……ルウェンの言う通りです。あの青い月が現れた日から、ザルームとは顔を合わせていません」
「──何か、意見の相違でも?」
「いいえ。そんなものではありません。私が……私がただ、臆病なだけです」
臆病と言い放ち、唇を自嘲するように持ち上げるミルファは、ひどく痛々しく見えた。
時折見せていた、孤独感を漂わせたあの表情とも違う。まるで、暗闇の中に一人取り残された子供のような──身動きする事すら恐れている、そんな印象をルウェンに与えた。
「……。私はいつも、知る事を恐れてばかりいる……」
やがてぽつりと紡がれた言葉に、ルウェンは何もいう事が出来なかった。
励ますのも間違っている気がするし、そんな事はないと否定するのも違うような気がする。何と言ってやればいいのかわからない。
そしておそらくミルファは誰の慰めも否定も……、肯定すらも欲してはいないに違いない。それが出来るのは自分ではないのだ。
ルウェンもまた心の内でため息をつき、やはり慣れない事はするもんじゃねえな、と苦く笑う。
「ともかく、まずは一度二人で話し合うべきでは?」
一体ミルファとザルームの間に何があったのかは知らないが、まずはそこからのように思えた。
ザルームの皇帝側の人間ではないという言葉を信じるとして、今のこの時期に旗頭であるミルファと参謀的な役割を果たすザルームが仲違いしているようでは、その内何らかの影響が出るだろう。
数日後には帝都に向けて進軍するのだ。二人の関係が今後の士気に関わるかもしれない以上、自分の抱く疑念よりもまずはこちらの主従関係が最優先だと結論する。
「取り合えず、私はここで席を外しますよ。ザルーム殿の傷の具合が気にかかっただけですから」
実際は聞きたい事が山ほどある。だが、自分がいては言いたい事も言えないだろうとルウェンは判断した。
──自分が抱える疑念と、ミルファが抱える不安が、同じ根で繋がっているなどと思いはせずに。
言うだけ言ってさっさと立ち上がったルウェンを呆然と見つめていたミルファは、彼が扉に手をかけた所で我に返ると、慌てて声をかけた。
「ルウェン……!」
「はい?」
「その……──ありがとう」
礼を言って貰うような事は何もしていない気がしたが、ミルファの表情に普段の前向きさが多少なりとも戻った事を垣間見て、ルウェンは微笑んだ。
「いいえ。それじゃ、失礼します」
扉を閉じながら、ルウェンはこれで取り合えずは何とかなると楽観的に考えていた。もし傷の具合がよくなくても、ミルファから言われれば治療も受けるだろう。
五年もの長い間側に仕え、またそれを許した二人である。よもやミルファが、ザルームに関して彼と大して変わらない程度の事しか知らないなど思いもしていなかった。
その程度の絆だとは信じたくなかったかもしれない。──共にはいられない、そう言ったあの言葉を、なかった事にしたかったのかもしれない。
あれもミルファとの仲違いから出てきた、一時的な言葉で彼の本心ではないのだと。今も耳に残るザルームの言葉を振り払うように頭を振ると、ルウェンはその場を退出した。