第一章 皇女ミルファ(6)
「……」
「……」
ザルームが姿を消した後、ソーロンとルウェンは無言で立ち尽くしていた。
それだけ、ザルームの消滅は彼等にとって衝撃的なものだったのだ。何しろ── 普通なら、人が跡形もなく消えるなどあり得ない事だ。
「…何だったんだ……?」
やがて沈黙を破ったのはルウェンだった。まだ手に持ったままだった抜き身の剣を鞘に収めながら、ぼそりと呟く。
ザルームとソーロンのやり取りを知らない彼にしてみれば、一体あの呪術師が何をする為に来たのかと疑問を感じるのも当然の事だろう。
その理由を知るソーロンだったが、まだザルームへの疑惑から抜け出せずにいた。皇帝の刺客ではないと言っていたが、本当にそうなのかと。
真実、ミルファに仕えているのだとしても、あれだけの使い手をミルファが隠す理由を思いつけなかった為だ。
強大な力を持つ呪術師の存在は、それだけで一騎当千の価値がある。もしそれが判明すれば、皇帝側もその存在を恐れておいそれとは仕掛けられないだろうし、自軍内の士気も上がるに違いない。
もし自分なら公表するだろう。いざという時の為に隠すにしても、いつ訪れるかわからない有事の際まで温存するなど、宝の持ち腐れのようにしか思えない。
だが…同時に思うのだった。
もし、ザルームが皇帝の刺客ならば、自分が気付くよりも先にこの命を奪い去れたのではないかと──。
そんな物思いに耽る主人をちらりと見やって、ルウェンはため息をつく。この様子では自分の疑問には答えてくれそうにない。おそらくソーロン自身、納得する答えがないのだろう。
ルウェンは普段の口調に戻ると、考え込むソーロンに声をかけた。
「殿下?」
「…?」
まだ難しい顔をしたまま、何事かと目をあげるソーロンへ、ルウェンは疲れた声で提案した。
「取り合えず、軍議に行きませんか。流石に他の連中が痺れを切らしている頃ですよ」
+ + +
何もないはずの空間が僅かに揺らぐ。
感覚的に待ち人の帰還を察知し、窓辺にもたれていたミルファは姿勢を正した。
北向きのこの部屋は、常に薄暗い。夏も近い今の季節、南領は何処よりも光の恩恵が溢れているが、窓辺から差し込む光は南向きのそれより幾分弱く、部屋の奥までは届ききっていない。
寝室ならばさておき、私室として使用するには不向きなその部屋を、好き好んで使用している物好きは、やがてミルファの視線を向ける先、部屋の中央にその姿を現した。
特徴的な赤黒いローブ。曖昧だった輪郭は、すぐに明確ではっきりとした質感を持つものへと変わる。
その光景はすでに何度も目撃しているが、幾度見てもやはり不思議としか言いようのない光景だった。
「…ミルファ様」
現れると同時に彼女の存在に気付いていたのか、僅かに驚きを含んだ声が表情の見えない布の向こうから聞こえてきた。
「何故、このような所に。こちらから出向きましたものを」
「気にするな。お前の帰りを待った方が早いと思ったまでのこと」
言いながら窓辺を離れ、未だ自分よりも幾分身長のある彼の元へ歩み寄る。すぐ目の前で立ち止まると、憚るように声を抑えて問いかけた。
「── ウルテの襲撃を察知し、伝令に報告させたのはお前だろう? ザルーム」
「…お気付きでしたか」
暗い声音に苦笑が混じる。予想通りの返事に、自然とミルファの口元にも笑みが浮かんだ。
「たまたま、あちらの方へ《目》を飛ばしておりましたので……。差し出がましいかと思いましたが」
「いや。もし、知るのが数日遅れていたら…恐らくその意図にも気付けず、囮とも知らずにセイリェンの守りばかりに気を囚われて事だろう。…よくやってくれた」
「当然の事をしたまでです、我が君」
ミルファの労いの言葉に、ザルームは緩く頭を振り、そのまま跪くと、つい先程東領へ赴いた際の出来事を報告した。
「…どのような手段を講じても、東と繋ぎを取れという事でしたので…勝手ながら、先程ソーロン様の元へ行って参りました」
許可なく申し訳ございません、と続いたザルームの言葉にミルファはその表情を改めた。
「その件に関しては気にしなくても良い。姿が見えなかったから、そうだろうと思っていた。…それで、兄上は何と?」
「それが──」
ザルームの口から紡がれたそこでのやり取りを聞き終えると、ミルファは小さくため息をついた。
元から期待はしてなかったが、よもやそこまで兄が自分に対して良い感情を抱いていないとは思わなかった。
「…耳を貸さないばかりか、逆に疑われたか。…済まない、ザルーム。無駄に力を使わせた」
「いいえ…こちらこそ、お役に立てず申し訳ございません」
「気にしなくてもいい…おそらく、鳩を飛ばして知らせたとしても、結果は同じだっただろう。未だに兄上は、私が挙兵した事を快く思ってはいないのだな……」
ミルファ自身も、わかってはいるつもりだった。
挙兵する際に何の相談もしなかった事が、庇護の手まで差し伸べてくれていたあの誇り高い兄にとっては裏切りにも等しい衝撃を与えたであろう事は。
もちろん、そうしたのはそれなりに理由と思惑があっての事だし、今更何を言っても言い訳にしかならない事もわかっている。生意気だと思われたとしても致し方ないと思う。
けれど── こちらにも、引くに引けない理由はあるのだ。
「…正直に言わせて貰えば、私は皇位など欲しいとは思っていないし、皇帝にふさわしいのは兄上だとも思っている。それだけの努力を今までされてきた方だし、何より誠意のある方だ。きっとよく世界を治めて下さるだろう。…でも、これだけは譲れない」
決意を秘めた宝玉の瞳は、そのまま背後の窓に向けられた。北の空── その下にいる、父に思いを馳せる。
「兄に任せてしまっては、おそらく二度と生きた父に会う事はないだろう。責任感が強く真面目な兄の事だ、一度庇護すると決められたなら、おそらく私に表に出る事も剣を握る事もさせず、全てが終わるまで箱の中に閉じ込めてしまわれる。…それでは、駄目なのだ」
兄の手を取るという事は、ミルファにとっては自身の自由を捨てると同義。だからこそ、ミルファは兄の不興を買うのを覚悟で挙兵した。
…自分の自由と、意志を守る為に。
(私はお父様に直接会って、尋ねたい事と話さなければならない事がある。この私の口から……)
それがどんなに困難な事かは承知の上だ。
「…ザルーム、私は間違っているだろうか……?」
やがてぽつりと力なく問われた言葉に、姿勢を正したザルームは、静かに今までに何度も口にした言葉を繰り返した。
「迷わずに、お進みなさいませ」
「ザルーム」
再び彼に目を戻したミルファの表情は、他の誰にも見せない、十七歳の少女のものだった。
進むと決めながらも迷わずにはいられない、そんな不安と重圧に必死に抗う少女の顔。…おそらく、その事にミルファ自身は気付いていない。
誰にも心を許さず、気高く、強くあらねばと努力するその姿が、どんなにそれを見守る者にとって痛々しく見えるか、きっと知らない。
もし知ったなら、恐らく自己嫌悪に陥る事だろう。
だからこそ、ザルームはそんな彼女をあからさまに励ます事は決して口にせず、ただ繰り返すばかりだ。
そんな事をすれば、聡い彼女が自身の弱さに気付いてしまいかねないから──。
「貴方様が己の意志で選んだ道を、お進みなされば良いのです。御自身が信じた道ならば、それが貴方様にとって正しいものとなるはず。…私はその道が出来るだけ平らかなものとなるよう、ご助力いたします」
「……」
今まで弱音を吐く度に、何度も耳にしたザルームの言葉。それはたとえミルファが間違った道に進んでも、仕え続けると言っているようなもの。
ミルファは思いつめていた表情をふと緩め、苦笑混じりに呟いた。
「…お前は、私に甘過ぎる」
するとザルームは生真面目な口調で珍しく言い返した。
「ミルファ様が御自身に厳し過ぎるのですよ」
声音と言えばやはり陰鬱で、聞いていて心が浮き立つはずもないのに、不思議と心が軽くなる。
それはそれだけ、ミルファが彼に心を許している証でもあったが、やはりその自覚はミルファになかった。
無自覚のまま、ミルファは祈るような気持ちで言葉を紡ぐ。
「…願わくば、このまま何も起こらずにいてくれるといいのだけれど……」
ウルテを襲い、おそらくすでに東領に入ったであろう一団が、一体何を目的としているのかは不明なままだ。
それでも帝軍である可能性が高い以上、恐らく何か仕掛けてくるだろう。東の地か── あるいは、それも見せ掛けでやはりこの南の地にか。
今は相手の動きを待つより他はなく、この心配が杞憂に終わればと祈るばかりだ。
面識もろくになく、今となっては悪感情をも持たれてしまっているようだが、血の繋がった兄なのだ。もうこれ以上、近しい人を失いたくはなかった。
今は誤解があったとしても、いつかは和解したいと思う気持ちに嘘はない。
いつか── 全てが終わった、その時に。そしてきっと、それは不可能な夢ではないはずだった。
手を取り合う事はなくとも、ソーロンもミルファも願う事は一つ。世界が再び、平穏を取り戻す事なのだから。
── しかし、それから何事もなく十日が過ぎ去った後。
ミルファの祈りは、これ以上とない最悪の形で打ち砕かれる事となる。