第四章 呪術師ザルーム(10)
駆けて駆けて──やがて木立の出口が目に入る。そこを抜ければ、パリルまでの道のりはあと半分だ。再び視界が開け、目前になだらかな丘陵が姿を現した所で、ようやく二人は足を止めた。
完全に安全とは言いがたいが、木立に比べれば見晴らしが良い分、ガーディのような獣の出現も少ない。
「はっ、はあ……、こ、ここまで来たら……、はふ……大丈夫、でしょうか……?」
乱れきった呼吸を整えながら、フィルセルが声をかけてくる。
「保障は、出来ませんけど……、はあ……おそらく……」
返すティレーマの声も呼吸が乱れ、震えていた。長距離を歩く事はあっても、全力疾走する事など滅多にない事だ。二人はどちらともなく、その場にへなへなと膝を着いて座り込んでいた。
「──助かったあ……」
「何とかなりました……ね……」
極度の緊張から解放されて、どちらともなく顔を見合わせる。そして同時にぷっと吹き出した。
「ティレーマ様、お髪が……、乱れてますよ?」
「フィルセルこそ……。さっき転んだ時に、服が汚れたままですけど?」
必死だった証とも言えるだろうが、二人の有様は結構ひどいものだった。そのまましばらく二人で笑い合う。
小規模だったとは言え、今時期のガーディの群れに襲われて無傷なばかりか逃げ延びれるなど、滅多にない事だ。こうして笑う余裕がある事を、その幸運に感謝しなければならないだろう。そして、それを可能にしてくれたあの声の主に対しても──。
(あれは……一体誰だったのかしら)
あの時に聞こえた言葉が太古に使われていたという『古代語』なのだとしたら、恐らく助け船を出してくれたのは呪術師だろう。今の時代、その言葉を日常的に使用する者は彼等しか思いつけない。
唯一神ラーマナを信仰する神官に対し、自然そのものに宿る力を至上と考える彼等が神殿に姿を見せる事は非常に稀で、ティレーマ自身も過去に二度ほど目にしただけだった。
その時も直接会話を交わしてはいない。たまたま訪れた所に居合わせただけだが、その時の事は印象深く覚えている。
最初にやって来たのはひどく年老いた老婆で、次に来たのは中年の男だったが、共通して感じたのは何とも表現の出来ない『存在感』だった。只人よりも自然に近くあると言われているのは、こういう事かと思ったものだ。
どちらも決して威圧感はなく、ただそこにいる事を強く感じさせる独特の空気。そうしたものを纏っているように感じられた。錯覚だと言われれば、それまでだが。
古代語を諳んじられるのは、今となっては呪術師と呼ばれる者のみ。その言葉の詳細な意味を知る者になると、さらにその数は少ないという。
神殿に来たその二人は、西の主神殿に伝わる古書を読み解く為に、頼んで来てもらった人々だった。その時に一度だけ耳にした言葉が、先程聞いた言葉に少し響きが似ており、助けてくれた人物を呪術師ではないかと判断したのだ。
『ミシェリータ・ヒルト・チェイル・ルリアス・イ・マキュル・ヘリアス・アズー・プロティアン・ナ・グレイブ──これは、約束された子供が皇帝となり世界を統べた、というような意味じゃ。……すなわち、初代皇帝の事じゃろうの』
枯れた老婆の声が、先程の暗い声音に重なる。
(そう言えば、フィルはあの声に聞き覚えがあるみたいだったけれど……)
ふと思い出し、その事を尋ねようとした時、何処からともなく声が聞こえた。
「お二人共、お怪我はございませんか?」
「!?」
「あ!」
思いがけない事に思わずびくりと肩を振るわせたティレーマに対し、フィルセルはぱっと表情を明るくする。
「やっぱり……! ザルーム様!!」
「……? ザルー……ム……?」
聞き覚えのない名前とフィルセルの嬉しそうな様子に困惑しながら、ティレーマはそろそろと周囲を見回した。
傾き始めた太陽の下、広がるのは緩やかに続く丘陵。やはり、周辺に人がいる様子はない。では今の声は何処から聞こえてきたのか──。
「……どなたか、いるのですか?」
姿を見せない声の主に問いかける声が、僅かに固くなってしまうのも仕方がなかっただろう。
声の主と面識のあるらしいフィルセルとは違い、ティレーマは呪術師というもの自体に免疫がないのだ。ましてやそれが空間を渡る異能力を持つ者だなど、想像すら出来るはずもない。
そんなティレーマの心の内を見透かしたように、声の主はすぐにはその姿を現しはしなかった。
「突然、声のみで失礼いたしました……、ティレーマ皇女殿下」
大地の底から響くような、暗い声。けれどそこに悪意がない事は感じ取れた。むしろ自分達を案じるような気配すら感じるのは──気のせいだろうか?
「いいえ……。先程、わたくし達を助けて下さったのはあなたですね?」
その問いに対しての答えはなく、沈黙が返る。だがその沈黙が何よりの答えだった。ふ、とティレーマの表情が揺るんだ。
「危ない所をありがとうございました。……姿は、見せていただけないのでしょうか?」
「そうですよ! ちゃんとお礼を言わせて下さい……っ!!」
ティレーマの言葉に、フィルセルも強く主張する。
「前に助けてもらった時も名前も言わずに消えて──。ずっと、お礼を言いたかったんですよ!? またお礼も言えないなんて嫌です!!」
再び沈黙が返り──やがてその勢いに負けたかのように、くすりと苦笑する声が聞こえた。……そして。
(……!)
座り込んだティレーマとフィルセルから少し離れた場所に、ゆらりと人影が現れる。
おぼろげな赤黒い影のようなそれは、すぐさま輪郭を確かにし、それが全身を覆う布の色である事を明らかにした。
──何もない所から人が現れるその異常な光景に、初めて目の当たりにするティレーマは流石に動揺を隠せなかったが、姿を見るなり歓声を上げたフィルセルのお陰ですぐに自分を取り戻した。
「ザルーム様、お変わりないですね! 助けて下さってありがとうございました!!」
「大きな怪我がなくて何より……。そちらも相変わらず元気そうだ」
慌てて立ち上がって頭を下げるフィルセルに、ザルームはゆるりと首を振る。
顔馴染みらしいが、施療師見習いの少女と全身を赤黒い布で覆った呪術師の組み合わせは少々違和感のあるものだった。
フィルセルの様子から、取り合えず反乱軍に与するものだろうと予測しつつも、ティレーマはその影のような人物に圧倒されていた。ただ、そこに立っているだけだというのに。
一見した所ではむしろその存在感は希薄で、今まで目にした呪術師とは正反対だったが、そこから微かな悪寒すら感じる程の気配を感じる。
まるで、力そのものが人の形をしているような──そこに在る事自体、不自然な気さえする。
(こんな呪術師がいるなんて……)
他をろくに知らないが、本能的に目の前の呪術師が只ならぬ力を有する者であると感じ取る。無意識にその目は、フィルセルとザルームを交互に見比べていた。
その視線に気付いたのか、ザルームがティレーマの方へと数歩進み出ると、その場に跪くと皇家に対する礼を取り、未だ座り込んだままのティレーマへ静かに名乗った。
「……お初にお目にかかります、ティレーマ殿下。私はザルーム……、ミルファ様に仕える呪術師でございます」
+ + +
ティレーマとフィルセルが難を逃れていた頃、休息に向かうジニーと別れたルウェンはミルファの元へ向かっていた。
先程、剣の手ほどきで顔を合わせていたばかりだが、どうにも気になって仕方がなくなったからだ。
そう──呪術師ザルームの安否が、である。
もし彼の身に何かあったなら、ミルファがあんな風に平然としていられるとは思えない。だからおそらく命に別状はなかったのだろう。
だが、表立って姿を見せず、存在を必要以上に隠している彼がきちんとした手当てを受けたとも思えない。
自分達と違い、腕を負傷しても術の行使に影響は出ないのかもしれないが、それが元で腕のみならず身体に影響が出ていたとしたら──。
(……。チッ、我ながらお人好しだよな、俺も……!)
内心舌打ちしながら、ルウェンはその足を止めはしなかった。
自分でも思うのだ。敵か味方かも定かでなく──正体からして謎のあの呪術師に対し、ここまで心を砕く必要などないと。
肝心な事は一つも話さず、あまつさえ皇女ミルファの支えになってくれなどと言い出して。よくよく考えれば随分と身勝手な言い分ではないだろうか。
──別のその事自体は嫌ではないし、むしろそうなれれば、とは思う。
かつて仕えたソーロンに対してのものとはまた違うが、この半年にも満たない時間で皇女ミルファに対する忠誠心は育っていた。
だが自分に出来る事は、剣になり、盾となってその身を危険から守る事だ。
今は緊急時であり、ミルファは命を狙われている。だからこそ役立てる訳だが、政などよくわからないし(興味もない)、ミルファがこれから抱えるであろう問題の多くに対して出来る事は少ないだろう。
それはおそらくミルファの姉であるティレーマでも同じだ。
皇女として生きてきたミルファと、長い間神官として生きてきたティレーマ。今までの生き方が違いすぎて、真に彼女がミルファを理解するには相応の時間が必要となるだろう──心の拠り所にはなれると思うが。それは肉親であるという、唯一無二の繋がりがあるからこそである。
しかし安らぎを得たとしても、その苦しみを共に背負う事は出来ない。その行く手を時に導き、時に支える事が出来るのは、自分やティレーマではないのだ。
ザルームのような者こそ必要だと、第三者でもわかるのに──。
(まるで……あの言い方じゃ、その内いなくなるみてえじゃねえかよ)
ここまで来て、放り出すのか。それとも──そうしなければならない、理由があるのか。
『私は……「影」です。光と共に在る事は許されません。ミルファ様に必要なのは、同じ場所で支えてくれる手です。こんな──汚れた血に塗れた醜い手では駄目なのですよ』
あの時に聞いた言葉を思い出す。
(汚れた血、だって?)
一体、それはどういう意味なのだろう。ふと己の手を見る。
この自分の手も、今までに多くの血で汚れてきた。多くの命を奪い去った。罪深さで言うならば、自分も相当なものだと思う。そんな自分では良くて、彼では駄目だという理由がよくわからない。
比喩でなければ、その言葉の通り、彼の血が何らかの理由で『汚れて』いる事になるが、病気でも持っているとでも言うのだろうか?
(いや……、まさかそんな意味じゃねえだろ)
年齢が年齢のようだから、持病くらいは抱えていても不思議ではないが、そうした表現にはならないだろう。では──一体?
(……わからん。ったく、何から何まで謎だらけの奴!!)
苛立ちながらもそれを努めて表に出さずにルウェンは進む。途中で顔見知りに会った時に変に誤解されても困るからだ。
やがて所々に瓦礫が散乱した道の向こうに、半分焼き焦げた看板を下げた宿が見えてくる。そこが皇女ミルファが仮の宿にしている場所だった。
言いたい事も聞きたい事も増えて行く一方だが、取り合えず無事を確かめてからだ。ルウェンはよし、と気合を入れるとその宿の中に姿を消した。